950(1536)_==天文5年==(旧版)


>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 天文5年(1536)、長尾虎千代(のちの上杉謙信)が、越後春日山城下の林泉寺に入り、天室光育禅師の教えを受け始める。
 天文5年(1536)春、尼子経久が備後に兵を進め、甲山城を落とし、山内直通を隠居させ、直通の婿多賀山道広の嫡男婿法師(のち隆通)を直通の子豊通の娘と結婚させて家督を継がせる。
 天文5年(1536)3月1日、のちの室町13代将軍・足利義輝が、室町第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。
 天文5年8月、安芸賀茂郡の平賀父子の和議が再び破れ、尼子方の興貞を攻撃していた大内方の弘保/貞景父子に毛利元就が援軍を送る。
 天文5年8月3日、長尾為景が守護代長尾家の家督を長子晴景(後の上杉謙信の兄)に譲る。
 天文5年9月、大内勢の陶興房が少弐氏の籠もる北九州の多久城を落とし、少弐資元が自害//これにより大内氏の九州方面の鎮圧が1区切りし、大内氏の目が東に向けられる。
 天文5年11月、平賀父子の対立を契機にした大内氏の援軍が尼子方の安芸計略の拠点である頭崎城を強襲。尼子経久は大軍で頭崎城を救援。//この合戦で毛利元就は備後双3郡志和地城から安芸山県郡壬生城などの諸城とともに石見邑智郡上下庄、安芸山県郡、備後内の所領を失う。
 天文5年12月、尼子詮久が備中/美作の攻略を終え、出雲月山富田城に帰陣。//天文5年始めごろから尼子方は備後/安芸のみでなく、備中/美作の攻略を進めていた。
 天文5年12月24日、長尾為景(後の上杉謙信の父)が病死。
 天文5年、本願寺証如が備後山南の光照寺を通じて尼子経久に太刀/馬代/織物などを贈る。

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