>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
天文10年(1541)1月3日、安芸吉田郡山城を包囲中の尼子勢が相合近辺で小早川興景勢や毛利勢に攻撃される。
天文10年1月11日、大内氏重臣陶が本陣を山田中山から吉田郡山城麓の天神山へ移動//いよいよ戦機が熟す。
天文10年1月12日、尼子方の安芸桜尾城主友田興藤が3島村上水軍と連携し、厳島を占拠。
天文10年1月13日、毛利勢3千が、早朝、宮崎長尾の尼子勢の陣地を強襲。尼子勢の第1陣高尾豊前ら2千、第2陣黒正甚兵衛ら1千5百を破り、第3陣吉川興経1千と干戈を交える。吉川興経がよく防ぎ、勝敗不明のまま日没を向かえる。
天文10年1月13日、陶隆房率いる大内勢が、宮崎長尾の尼子勢を攻める毛利元就と連携し、尼子詮久の本陣を急襲。尼子本陣は手薄になっていたため、総帥尼子詮久の命運も危ういと見えた所に尼子下野守久幸が大内勢に突入し、大内勢の先鋒大将深野重房を倒し、宮川善左衛門ら数十名を討ち取ったが、乱戦の中、力尽きて戦死。久幸が奮迅する間に分散していた尼子勢が本陣に馳せ参じ、大内勢追い散らして、尼子詮久は事なきをえる//この日の合戦で尼子勢4百余人、大内勢470人が討ち取られたという。
天文10年1月13日夜、尼子詮久が安芸吉田郡山城攻めの本営に重臣を集めて軍議を開き、明日の総退陣を決定。
天文10年1月14日、早朝(寅の刻頃)、尼子勢が安芸吉田郡山城攻略から撤収開始//大内勢・毛利勢は退却する尼子勢を猛追し、多大な被害を与える。
天文10年(1541)1月、尼子詮久、毛利元就の安芸郡山城攻めを断念。毛利元就、籠城5カ月。陶隆房率いる大内氏の来援など。//尼子経久や尼子下野守久幸は当初より郡山城攻めに反対。この尼子氏の敗戦により、芸備の国人を始め出雲国内でも三沢/三刀屋らの国人が大内氏に誼みを通じるようになる。
天文10年1月15日、大内水軍が尼子方の村上水軍と厳島神社の大鳥居前での戦いに勝利するとともに、大内勢が尼子方の安芸桜尾城主友田興藤に占拠された厳島を奪還。
天文10年1月16日、大内方の久利淡路守が尼子勢と石見大田で戦う。
天文10年3月、大内義隆が安芸佐伯郡大野門山に出陣し、ついで佐伯郡藤懸7尾に移動。
天文10年4月5日、大内勢が安芸桜尾城を落とす。城主友田興藤は切腹、その子広就も5日市で自害。
天文10年5月13日、武田信実が出雲に遁走して手薄になった安芸銀山城が毛利元就の猛攻により落城。//この後、大内義隆は銀山城に入城し、戦後の領国経営にあたる。城主武田信実は尼子氏を頼って落ちる。信実の甥信重(安国寺恵瓊の父)、自害。
天文10年5月、安国寺恵瓊(当時竹若丸)、安芸安国寺の塔頭の1つ紫雲庵に母親と身を隠す。
天文10年6月、周防/安芸の大内水軍が伊予の河野水軍と戦う。
天文10年(1541)6月、武田信玄(当時信晴21歳)が、父信虎を駿河国今川義元のもとに追放。
天文10年10月、尼子詮久が将軍足利義晴の偏諱を受け、尼子晴久と改名。
天文10年(1541)11月13日、尼子経久、逝去。享年84歳。諡号は興国院月●省心大居士。月山山麓金尾の洞光寺に葬られる。
天文10年12月27日、大内義隆が従三位に昇進し、公卿に列する。
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