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5月, 2016の投稿を表示しています

麦秋ラン

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そろそろ暑くなってきましたが、屋外ラン。仕事の都合で小豆島オリーブに出場できなかったこともあり、たまには、ゆっくりと長距離を走ってみました。 季節は麦秋。 気持ちよく20kmラン。時間は相当かかりました。 下の写真は春日川中流域をふと撮影。

松山城周回ラン

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所用にて松山に宿泊したので、松山城周辺をラン。 持田町辺りまで足を伸ばしたところ、松山気象台なる瀟洒な建物を発見(写真) 住宅街のど真ん中にこういう建物が残っているのは、文化の街松山という雰囲気を感じます。 その近くにある愛媛大学付属中学校の中にも緑白色のレトロな木造建築が一棟残されていました。(こちらは学校だったので、写真なし) いい佇まいです。

磁場の井戸:第四章 対岸(八)/長編歴史小説

 岩崎山から日差山へ向けて、一頭の栗毛の馬が疾駆していた。騎上の若武者は、目の前を横切る者を馬蹄に敷き潰すかのような勢いで、鞭を振るい続けている。  若武者は隆景のいる幔幕の側まで勢いを落す事なく駆け寄ると、ひらりと身を地に落とし、鎧が軽く擦れ合う音を響かせながら幔幕の中に入った。幔幕の中では、隆景と元春が向き合って、高松城周辺の絵図面に視線を落としていた。 「どうした、元長。」 元春は息を荒げながら、突然、幔幕の内に入ってきた息子に向かって言った。元長は二人が囲んでいる図面の朱書きに目を落した。今朝からの織田勢の動きが克明に描き出されたその絵図からは、多数の織田勢が加茂に向けて動いた事が見て取れた。元長は元春の質問に答えようともせず、馬を疾駆させてきた勢いを減衰させることなく、二人の側で空席になっている床几に腰を下ろした。 「好機でございます。織田勢は均衡を崩しました。この絵図の通り、崩れは歴然でございます。なぜ、出陣の触れを出されないのでございますか。元長、そのことをお尋ねいたしたく、ここまで参った次第。このまま、みすみす加茂を見捨てれば、毛利家の威信は地に落ちますぞ。」 元長は、父元春になら積極策に同意して貰えると無意識に思い、敢えて冷静な叔父隆景と目線を合わそうとせず、真っ直ぐに元春の方を見ながら言った。元春は絵図を睨んでいた目を息子の方に向けて、何か言おうとしたが、それを掣肘するように隆景が元長に力強く言った。 「元長殿、織田勢を崩せぬまでも、加茂城に篭もる広重らを助け出さねば、毛利家の信が疑われる事になろう。今すぐ、元長殿と経言殿が大将となり、山陰勢を従え、加茂へ出張っていただきたい。織田勢は一万を超えているかもしれんが、精強を持って聞こえる山陰勢をもってすれば、織田勢が二倍であろうとも蹴散らす事は易かろう。」 予期していなかった隆景の言葉に、元長は面を上気させながら答えた。 「この元長の一命に代えても、弟、経言とともに加茂の城兵達の命を必ずや救ってまいります。山陰衆の手並みのほど、とくとご覧下さい。」 元長は、備中表に到着して以来、初めての織田勢との正面切っての大戦に身体中が熱くなるのを感じながら、幔幕を辞し、馬上の人となって、日差山の急峻な山道を転がり落ちるように駆け下って行った。

982_浦上氏周辺年表(最新版:和暦年表未反映)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_< 享禄4年(1531年)、浦上虎満丸(後の浦上政宗)が、父浦上村宗の摂津天王寺で戦死(大物崩れ)したため、浦上氏の家督を相続。-天文7年(1538年)頃まで幼少の虎満丸を一族の浦上国秀が後見していた。(Wiki) 天文1年(1532)、尼子氏が美作の浦上氏の勢力を排除して美作を制圧。(司空) 天文6年(1537年)、浦上虎満丸(後の政宗)が、尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まったことを受け、父浦上村宗の仇とも言える赤松政祐(後の、晴政)と和睦する。しかし、尼子勢に敗れて備前から撤退。さらに、天文8年(1539年)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、赤松政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。(Wiki) 天文8年(1539年)末、赤松政祐と浦上虎満丸(後の政宗)が、東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、浦上政宗は赤松政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。(Wiki) 天文9年(1540年)初め頃、赤松政祐が将軍足利義晴から偏諱を賜って赤松晴政に改名。 天文9年(1540年)初め頃、浦上虎満丸が、元服して赤松晴政から偏諱を賜り「与四郎政宗」を名乗る。(Wiki) 天文11年(1542年)、浦上政宗が、室町幕府の助力を得て、赤松晴政と共に播磨に復帰。天文9年に二人は尼子勢により播磨から追い出されていた。(Wiki)  天文13年10月、尼子国久率いる尼子勢が再び備後に進軍し、出雲陣の帰途討死した小早川正平の子又鶴丸(のちの繁平)の守る豊田郡沼田の高山城を攻撃⇒落城しなかったので、高野山・久代などの人質をとり、そのまま美作に進攻し、浦上宗景の勢力下の真庭郡高田、篠フキ、苫田郡医王山の3城を攻略し、さらに因幡進出を試みるが、真木弾正忠時の進言により出雲に帰陣。  天文13年12月8日、尼子晴久が田口志右衛門に同年1月頃尼子国久が攻略した美作のうち北高田庄を宛行う。(司空) 天文13年(1544年)頃、この頃までに赤松晴政と浦上政宗が、播磨•備前の両国を回復する事に成功した。政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立

磁場の井戸:第四章 対岸(七)/長編歴史小説

桂広重に率いられた加茂城本丸の城兵達は、地面から湧き出すように夜明けより途切れることなく押し寄せてくる東の丸からの敵兵を、懸命に押し返した。 「ここが、こらえどきじゃ。十分引き付けてから、狙いを定めて討ち止めよ。」 本丸の城兵たちはありたっけの鉄砲、弓矢を寄せ手に見舞い、その度に寄せ手の先鋒は一斉に地に倒れた。それでも、その屍を乗り越えて、次の寄せ手が本丸の城門に肉迫した。城方は、それにも再び矢玉を浴びせ、再び死体の山を築かせた。  幾度も幾度もそれを繰り返した。広重は声を嗄らさんばかりに、叫び続けた。 「こらえよ、こらえよ。敵を城壁に近づけるな。」 叫びながら、広重は心中で神仏に祈り続けていた。 (矢玉が尽きるが先か、風向きが変わるが先か。南無八幡大菩薩、我に武運を授け給え。) 広重は火矢を用いた撹乱策を心中に描きながら、城を吹き抜ける風の向きが変わるのを待ち侘びていた。風向きは東から西へ、今、火矢を放てば、味方が煙に巻かれ、本丸が混乱に陥る。広重は時が移るのを忍従し続けた。 (わしは風神に好かれていようか。) ちらりとそんな事も思ったが、鉄砲の轟音が風を振るわせ、その振動が広重の心を応ずべき現実に引きずり戻した。寄せ手は犠牲を厭う事なく、地獄に続く一筋の道を城門に向かって戻ることができぬまま駆け上って来る。守り手の形相が修羅ならば、寄せ手は悪鬼と化し、無二無三に死に繋がる一本道を突き進み続けていた。 「奴等にありったけの矢玉を馳走してやれ。」 広重は再び叫んだ。その声とともに、地が割れるような轟音が辺りに響いた。 時とともに数で大きく優る織田勢に戦況が傾き始めていた。広重は最後まで諦めてはならぬと思いながらも、胸の片隅の、表情には現れぬ、奥の、またさらにその裏面の辺りで微かに呟いた。 (風神に嫌われたか。) その言葉とともに広重が覚悟を決めたとき、城壁に並べた旗がゆっくりと萎れ、さらに、先程とは逆の方向に、はためき始めた。 「してやったり。」 広重は狂喜した。同時に、用意していた火矢に火を点じるよう下知し、待機していた騎馬武者達に大手門に集まるよう命じた。広重自身も、太刀の目釘を改めながら曳かせてきた馬に跨り、大手門を目指す。大手門に到着した広重は、集まった五百騎の騎馬武者達に策を伝えるや、大音声で城壁に並ぶ射手たちに命じた。