982_浦上氏周辺年表(最新版:和暦年表未反映)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_<
>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<


享禄4年(1531年)、浦上虎満丸(後の浦上政宗)が、父浦上村宗の摂津天王寺で戦死(大物崩れ)したため、浦上氏の家督を相続。-天文7年(1538年)頃まで幼少の虎満丸を一族の浦上国秀が後見していた。(Wiki)

天文1年(1532)、尼子氏が美作の浦上氏の勢力を排除して美作を制圧。(司空)

天文6年(1537年)、浦上虎満丸(後の政宗)が、尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まったことを受け、父浦上村宗の仇とも言える赤松政祐(後の、晴政)と和睦する。しかし、尼子勢に敗れて備前から撤退。さらに、天文8年(1539年)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、赤松政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。(Wiki)

天文8年(1539年)末、赤松政祐と浦上虎満丸(後の政宗)が、東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、浦上政宗は赤松政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。(Wiki)

天文9年(1540年)初め頃、赤松政祐が将軍足利義晴から偏諱を賜って赤松晴政に改名。
天文9年(1540年)初め頃、浦上虎満丸が、元服して赤松晴政から偏諱を賜り「与四郎政宗」を名乗る。(Wiki)

天文11年(1542年)、浦上政宗が、室町幕府の助力を得て、赤松晴政と共に播磨に復帰。天文9年に二人は尼子勢により播磨から追い出されていた。(Wiki)

 天文13年10月、尼子国久率いる尼子勢が再び備後に進軍し、出雲陣の帰途討死した小早川正平の子又鶴丸(のちの繁平)の守る豊田郡沼田の高山城を攻撃⇒落城しなかったので、高野山・久代などの人質をとり、そのまま美作に進攻し、浦上宗景の勢力下の真庭郡高田、篠フキ、苫田郡医王山の3城を攻略し、さらに因幡進出を試みるが、真木弾正忠時の進言により出雲に帰陣。
 天文13年12月8日、尼子晴久が田口志右衛門に同年1月頃尼子国久が攻略した美作のうち北高田庄を宛行う。(司空)

天文13年(1544年)頃、この頃までに赤松晴政と浦上政宗が、播磨•備前の両国を回復する事に成功した。政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立場を占め、晴政の筆頭宿老の座に就いていた。(Wiki)

天文20年(1551年)、浦上政宗が、再び備前へ侵攻してきた尼子晴久との関係をめぐり弟宗景と意見が分かれ、不仲となる。政宗は尼子晴久、松田元輝と同盟を結び、宗景は毛利元就の援助を得て対立。その後、弘治年間までに政宗は備前における勢力を大きく後退させる。(Wiki)

尼子晴久に度々支援を要請しており、これに際して晴久は自ら約三万余りの軍勢を持って美作国に侵攻した宗景を撃破するも、晴久・政宗にとっても決定打とはならなかった。更には晴久の急死により尼子氏の勢力が後退すると、これらの支援も期待出来ない状況へと追い込まれた。(Wiki)

天文23年(1554年)頃、浦上宗景が備前天神山城で旗揚げ(本家の兄政宗から独立?)し、尼子氏と同盟を組んだ兄政宗に対抗すべく毛利元就と同盟。-その後、毛利本隊や毛利氏に従う備中国の三村家親率いる「備中衆」の援軍を得て各地で政宗・尼子の連合軍を撃破。(Wiki)

永禄1年(1558年)、浦上政宗が、足利義輝の仲裁による毛利との和睦の道を探る。政宗は、弟宗景との抗争などにより、大きく勢力を後退させていた。(Wiki)

永禄1年(1558年)、浦上政宗が、復権を目指して主人赤松晴政を廃し、晴政の子赤松義祐へと強制的に家督を継がせる。-追放された赤松晴政が娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼った事により、龍野赤松氏が独立勢力化し新たな火種を産む。(Wiki)


 永禄2年(1559)、浦上宗景が、宇喜多直家に直家の妻の父中山備中守信正の謀殺を命じる。-直家は居城を新庄山城主(岡山市竹原)から中山信正が居城としていた亀山城(沼城?)に移る。この後、直家は亀山城(沼城?)を大改造。(Wiki)

永禄3年12月24日、尼子晴久、逝去。享年47歳。(Wiki)


永禄6年(1563年)5月頃、浦上政宗と浦上宗景の兄弟が、10年以上に渡る対立を経て、和睦。-同時期に、播磨の黒田職隆と縁組して再起を図ろうとする。(Wiki)
永禄6年5~12月、浦上宗景(備前)と三村家親(備中)が戦闘状態になる。-両者は以前から美作の支配などを巡って不仲となっていた。
永禄6年5~12月、浦上宗景が、毛利氏と断交。

永禄7年(1564年)1月、浦上政宗が、播磨室山城において、息子浦上清宗(小次郎、又は与四郎とも)と黒田職隆の娘の婚礼の最中(あるいは婚礼当日の夜とも)に赤松政秀(龍野赤松氏)の奇襲を受け、親子ともに戦死。-清宗の子誠宗が家督を相続。(Wiki)

永禄8年(1565年)、三村家親が美作国に侵攻し、宇喜多直家の娘婿後藤勝元の守護する三星城を攻めたが、直家の加勢もあって城は落とせず撤兵する。(Wiki)

永禄9年(1566年)2月、三村家親が永禄8年に続き再び美作国に侵攻するが、宇喜多直家の命を受けた遠藤又次郎、喜三郎の手により鉄砲で狙撃され絶命する。三村家親、享年49歳?家親の子元親が家督を相続。(Wiki)

永禄9年、宇喜多直家が備前の支配拡大を図るため、備前国上道郡沢田村(現:岡山市中区沢田)にある明善寺山に城を築き、軍勢を駐屯させる。(Wiki)

永禄10年(1567年)7月、三村元親が備前の明善寺城に夜襲をかける。不意打ちされた宇喜多軍は50~60人の守備兵を討たれ、城から撤退する。(Wiki)
永禄10年、宇喜多直家が備前国上道郡沢田村(現:岡山県岡山市中区沢田)付近で行われた明善寺の戦いで備中国を掌握し備前国制覇も目論んでいた三村元親を破り、浦上宗景の被官のままではあったが、備前国の支配力を強化する。-浦上宗景は備前から三村・毛利勢力を一掃できたが、宇喜多直家の勢力が拡大した。-三村勢が総崩れとなったことから「明善寺崩れ」とも呼ばれる。(Wiki)
永禄10年、浦上宗景が浦上惣領家の誠宗を暗殺する。(Wiki)

永禄11年(1568年)、浦上宗景が備前国内有数の国人松田氏を滅ぼして、その版図を瀬戸内海の児島を除く備前全域と美作東南部に拡大させ、戦国期の浦上氏の地位を確立する。(Wiki)
永禄11年、

永禄12年(1569年)、浦上宗景が、旧播磨守護家の赤松義祐と赤松則房、播磨の有力国人・小寺政職らと結び、これの救援を名目に播磨における兄浦上政宗の遺領を吸収。(Wiki)
永禄12年、浦上宗景が、西播磨において侮り難い勢力となっていた赤松政秀を討つ為に、備作衆を率いて播磨国西部へ侵攻。-この頃、宗景は尼子氏再興を目指す尼子勝久などの反毛利の勢力を積極的に支援し、九州の大友宗麟とも同盟して毛利氏への対抗姿勢を露わにする。(Wiki)
永禄12年、赤松政秀が、浦上宗景の攻勢に対抗するため、将軍足利義昭と織田信長に救援を要請(Wiki)
永禄12年8~9月、織田信長が、播磨の赤松政秀の要請を請け、池田勝正・別所安治に浦上宗景を攻撃させる。同時に、密かに織田信長と内通していた宇喜多直家が浦上宗景に対して反旗を翻し、宗景は窮地に陥る。-織田勢は播磨において数ヶ所の城を攻め落としたのみで退却したため、宗景が政秀を逆襲する。(Wiki)
永禄12年11月、浦上宗景が、播磨龍野城主赤松政秀を降伏させ、政秀の所領を手中にする。
永禄12年、浦上宗景が、織田信長に内通した宇喜多直家の謝罪を受け入れ、帰参を許す。(Wiki)

元亀1年(1570年)、浦上宗景が備中南部へ侵攻する。(Wiki)
元亀1年(1570年)、浦上宗景が尼子勝久の要請に応じて援軍を出雲国に派遣するとともに、別動隊を東に向けて赤松則房を支援、別所長治の三木城を攻撃する姿勢を見せる。(Wiki)


元亀2年(1571年)、浦上宗景が同盟を結んでいた三好氏の篠原長房と協力して備前児島で毛利氏に勝利。元亀2年(1571年)秋以降、浦上宗景が備中の佐井田城、松島城などで毛利・三村の軍勢を撃退している。(Wiki)


元亀3年(1572年)、浦上宗景が、宗景は足利義昭・織田信長に仲裁を頼んで毛利との和睦を計る。-この時期に毛利氏は北九州における大友宗麟との抗争を終えたため、軍勢を東に向けた。→最初、毛利輝元は和議に応じなかったが、結局10月に毛利・浦上の間で講和が結ばれ、双方の城の明け渡しが行われた。(Wiki)

天正元年(1573年)12月、浦上宗景と別所長治が、織田信長の仲介で和解。(Wiki)
天正元年(1573年)12月、浦上宗景が、織田信長から朱印状を与えられ備前・播磨・美作3カ国の支配権を認められる。(Wiki)
天正元年(1573年)、宇喜多直家が、小寺政職が預かっていた浦上政宗の嫡孫久松丸を、政職に相談の上で、密かに宇喜多領へと引き入れる。-浦上宗景に対する反乱の準備。(Wiki)

天正2年(1574年)3月、宇喜多直家が浦上久松丸(浦上政宗の嫡孫)を擁立し、浦上宗景に再度離反。-備前・美作の各地で宇喜多直家軍と浦上宗景の直参「天神山衆」が争う。→宗景もすぐに外交戦を展開し、備中国の三村元親、美作国の三浦貞広などを同盟に引き込んだ。また、大友宗麟、三好長治へも援軍を要請したがこちらは相手側の事情もあって不調に終わる。しかし、前回とは違って此度の謀反は久松丸の存在と直家の事前の諜略によって美作の沼本氏や菅納氏など美作国衆や備前の宗景配下の諸氏の離反が相次ぎ、苦戦を余儀なくされる。(Wiki)

天正3年(1575年)6月、毛利氏が備中の三村元親を攻め滅ぼし、「備中兵乱」と呼ばれた一連の戦いを平定。さらに浦上宗景と戦っていた宇喜多直家への支援を本格化させる→浦上宗景が退勢となる。(Wiki)

天正3年(1575年)9月、浦上宗景が、重臣の明石行雄等の離反に遭い、備前天神山城から宇喜多軍の包囲を掻い潜り脱出。→播磨の小寺政職の下へ退却。(Wiki)

 天正4年9月、織田方の浦上宗景、備前天神山城(岡山県和気郡佐伯町)を家臣の宇喜多直家に攻略される。浦上宗景はそれまで織田方の勢力範囲の西限に位置していたが、宇喜多直家により失脚。この時、宇喜多直家は毛利方に通じていた。→この後紆余曲折を経る!浦上宗景の失脚に西播磨周辺の國人衆も動揺し毛利方に寝返り始める。←(司空)

 天正4年11月、織田信長が、京において播磨の赤松則房、別所長治、浦上宗景と対面(司空)

天正5年(1577年)、浦上宗景が、何度も上洛して、織田信長の元へ拝謁したが積極的な支援は得られず。

天正6年(1578年)12月頃、浦上宗景が、備前国に潜伏していた浦上秀宗、坪井、馬場ら備前国に残っていた反宇喜多勢力を幸島(現岡山市水門町か)を拠点として一斉蜂起させるとともに、浦上宗景自身も別行動で兵を率いて播磨国から合流し、天神山城の奪還に成功。

天正7年(1579年)4月、浦上秀宗や坪井らが播磨国へと退去しておりこの間に反乱は鎮圧された




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