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家庭菜園 令和1年5月23日

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イチゴは収穫を完了。マルチから濃い緑の葉が元気にはみ出しています。秋になったら、植え替えかもしれません。 5月になって、ニラも元気に育っています。 ニラ玉にして食べています。 レモンの葉も新緑の美しい緑色で、植えてから3年でついに根付いた雰囲気です。でも、花や蕾が見あたらないので、今年は枝ぶりを整えて、来年の収穫に期待です。 じゃがいもは植えるのが遅すぎたのか、地上にある葉はあまり大きくなっていません。 唐辛子3つはまあまあ育っています。 トウモロコシは一部の苗が枯れてしまいましたが、大部分は元気に成長中。 ニンニクは茎が枯れたものから順次収穫中ですが、昨年に比べると小振りなものが目立ちます。追肥が足りなかったか、追肥の時期が悪かったかだと思っています。 茄子が4つの苗のうち2つが枯れたので、2つ追加。 キュウリとゴウヤは成長は遅いですが、枯れずにがんばってくれています。 自宅で発芽させた大豆(枝豆)の苗を5つ植え付けました。 山椒はやはり難しいですね。2つ植えた苗のうち、1つは少々元気がなくなってきました。

第十六章 娘と刀剣(4)

 ある時、醍醐天皇が重病を患った。  仏教諸派の高僧達が病気平癒の加持祈祷を修したものの、いずれも効験なく、容態はますます悪化した。  万策尽き掛けたとき、ある朝臣(あそん)が、 ―大和信貴山に数々の奇蹟を行う法師がおります。その者なら…。 と進言し、朝廷はすぐさま信貴山に勅使を下向させた。  勅使はまもなく信貴山の毘沙門堂に参籠する命蓮という法師を探し出した。勅使を迎えた命蓮は病気平癒の修法について謹んで勅命を拝受したものの、至急の上洛を要請する勅使に対して、 「信貴山にて祈祷します。」 と申し出た。勅使はこれを訝しみ、 「帝のご病気が平癒あそばしたみぎり、貴僧の法力によるものか、定かならず。」 と、上洛を強く勧めた。しかし、命蓮は、 「数日後、御所の天空に光芒が現れ、童子とともに下りて参ります。それが拙僧の修法が成就した証でございます。」 と、上洛を固辞して、信貴山で祈祷を始めた。諦めて京に戻った勅使は、病床で苦しむ醍醐天皇に、命蓮の言葉を伝えた。  数日が経過した。  高熱の続く醍醐天皇は朦朧とする意識の中で、茜色に染まり始めた夕空に宵の明星に似た小さな光点を発見した。光点は御所に接近しながら、次第に大きな光球へと変化した。  異変を感じた醍醐天皇が病床から上体を起こし、手を伸ばして、その光に触れようとした瞬間、光は童形に変化し、直後、一筋の光茫となって天空に消滅した。  この出来事のあと、醍醐天皇の容態は快方に向かい、間もなく完治した。  醍醐天皇は周囲に、 ―病気平癒は命蓮の功力。 と語り、再び勅使を信貴山に走らせて、命蓮に、 「僧都、僧正の位を与え、寺領を寄進したい。」 との叡慮を示した。しかし、 「位階などは無用でございます。」 と、命蓮はこれも固辞した。醍醐天皇は勅使を通じて命蓮に幾度も働き掛けたが、命蓮はここでも譲らず、結局、醍醐天皇は命蓮への位階下賜を断念して、信貴山に朝廟安穏・守護国土・子孫長久の意味を込めて朝護孫子寺の勅号を授けた。  命蓮は、醍醐天皇の病気平癒以外にも、托鉢に用いる鉢を吝嗇の長者のもとに飛ばして欲深を戒め、また、堆く米俵が積まれた米蔵を遠方から信貴山まで飛翔させて貧者に分け与えるなど、数々の奇蹟譚を残したと言う。 「興味深い伝承です。乙護法は命蓮上人の秘術を身に付けているとい

家庭菜園 令和1年5月18日

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今日は、奥手の玉ねぎの最後の収穫。 以前植えていた茄子の苗×2株のうちの1株が元気がなくなってきたため、3株を追加。 バジルの苗×5株のうち3株は枯れて、残り2株。その2株も大きくならないので、少々心配。 キュウリの苗×2株と、ゴーヤの苗×2株にネットを設置。 レモンは継続観察ですが、今年はかなり枝振りがよくなってきています。お花は1輪しか咲いていませんが、次年度以降が非常に楽しみな状況。 じゃがいもは順調。 写真は自宅で発芽・見守り中の黒大豆。 教科書的な成長状況で、種から子葉ができて、さらに成長して苗になりました。生命の息吹というか、生命の不思議というか、感動します。 もう少し苗が大きくなったら、畑の方に植えたいと思います。バジルもそうですが、やはり苗はある程度大きくなってから、植えるべきかなぁ。

第十六章 娘と刀剣(3)

 清太は、再度、堤防を駆け上がってくる安次の姿を視界に捉えると、おもむろに起き上がり、全力で安次に走り寄ったと思うと、立ち止まることなく、安次の横を走り過ぎる。清太の背後に続く弥蔵が左掌を安次に示しながら、 「話はあとだ。」 と、安次に早口で言い捨てて、清太の背中を追う。  清太は堤防の法面に繁茂する背丈の高い草叢の向こう側に、娘達の姿を捕捉し、往来の人々を間に挟んで、一定の距離を保って追跡を開始する。娘と小男、清太と弥蔵の二組は着かず離れず土手の上を進み、さらに賀茂川の河畔を離れて、洛中の殷賑へと溶融したあと、洛外に出る。この間、休息を取ることもなく、歩き続ける。  陽が西に傾斜を加え、情景が茜色を帯び始める頃、二組四人は距離を保ったまま、伏見に至る。それでも娘達は歩度を緩めない。 「歩き慣れていますな。」  弥蔵が疲労の色を見せない娘の足取りに嗟嘆する。 ―三条河原の老夫に刀剣の収集を依頼する娘などまともなはずがない。 と、頭では理解はしているが、遠目にも華奢で典雅と言っていい外見の娘がこれほどの距離を平然と歩く姿は、追跡している清太達に様々な想像を惹起させる。  娘達は伏見の町外れで街道を逸れると、六地蔵、黄檗を経て、宇治川の畔に至る。  既に陽が山塊の向こうに沈み、西の空は残照に染まる。路上の人影は疎らである。 「いずこまで行くつもりでしょうか…。」  弥蔵の呟きと同時に、娘達が小径を曲がる。  少し間を置いて、弥蔵が曲がった先の様子を窺うため先行する。  弥蔵の視野に廃屋らしき影が見える。  その瞬間、弥蔵の前方に複数の気配が湧き上がる。清太と弥蔵は咄嗟に地面に伏せて、自分達の存在を闇に溶かし、見えない触手を伸ばして前方を探る。 「手遅れじゃ。宵闇に若い娘の背後を付けるとは不粋な御仁じゃ。」  濃厚な警戒を含んだ陰湿な声が夕闇に響く。  弥蔵が無抵抗の意思を示すため、緩慢な動作で上体を起こして、両手を頭上に差し上げ、闇に向けて左右にゆっくりと大きく振る。弥蔵は大きく動くことで周囲の空気を撹拌し、自分の背後で俯せになって静止している清太の気配を掻き消す。  清太は地面に頬を乗せたまま、闇に浮かぶ気配の数量と形質を見積もる。 ―数は十に満たない。鋭気はあるが、力で突破できぬことはない。  清太は闘争に至る覚悟を決めた上

第十六章 娘と刀剣(2)

 涼風が強弱を繰り返しながら鴨川の水面(みなも)を吹き抜ける。外界と河原を不明瞭に区画する土手の斜面に背丈の高い草叢(そうそう)が繁茂し、水面の細波と同調して優しく揺れる。  初夏に峡を出て以降、遮二無二、暑中を駆け回ってきたが、ふと立ち止まると、風の音は秋色を帯び、洛中の三方を囲む山並みでは錦秋への準備が始まっている。 ―峡ではもう冬支度を始めている頃か。  清太が故郷に想いを馳せながら、洛北の山並みをぼんやり眺めていると、三条河原には不釣り合いな麗容の娘とその従者らしき小男が堤防の斜面を下り、粗末な小屋が密集する河原の中心部へと消えていく。  間もなく、安次が河原から堤防を駆け上ってくる。弥蔵が居場所を知らせるため、草叢から起き上がり、安次の方に軽く手を振る。 「娘が来やした。」  安次が息を切らしながら報告する。 「見ていた。娘のほかに小男がいたようだが、見知っているか。」 「あっしはみたことはございやせんが、娘が二度目に来た時には一緒だったようです。刀剣の運び役か何かでしょう。」  草の上に仰向けになって、青空に浮かぶ鰯雲を眺めていた清太が、 「娘が出てくるのをここで待つ。安治は小屋に戻って娘と爺様の様子を見ていてくれ。」 と、命じた。清太達が河原に下りるものと思い込んでいた安次は、拍子抜けしたように肩を落として河原へ戻っていく。弥蔵がその背中を見送りながら、清太に尋ねる。 「先刻の娘と小男、若様はどうみましたか。」 「遠目ではっきりとは分からぬが、二人の様子に暗い影は感じられぬ。我欲や悪意があって刀剣を集めている訳ではないのだろう。あの爺様の言うとおり娘も小男も誰かに頼まれて遣いをしているだけで、詳しい事情を知っているとは思えぬ。」 「同感です。」 「河原で捕らえて騒ぎが大きくなっても面倒だ。河原を出た二人の後を追いたい。娘と老夫の会話は、必要ならば、後刻、安次から聞けばいい。」  弥蔵が頷く。  河原では娘と老夫の取引が行われているはずである。

第十六章 娘と刀剣(1)

 清太と弥蔵は三条河原に近い木賃宿を根城に定める。  弥蔵は亥介達と繋ぎを付けるために、一旦、大原に戻り、清太は木賃宿に残って、安次からの知らせを待つ。安次には、三条河原に娘が現れれば、この木賃宿に一報するよう命じてある。  清太は安次を待ちながら、三条河原という社会の底辺で生きる者達のありようを、僅かな時間ではあったが、直接肌で感じ、考えていた。  河原者達は襤褸を纏う者ばかりだが、その外見とは対照的に、表情は明るい。清太は、彼らの屈託のない笑顔に、しばしば羨望にも似た眩しさを感じた。それをたまたま隣にいた安次に話すと、安次はしたり顔で、 「合戦に破れて落ち延びた者、郷里を追われた者、商いに失敗した者など事情は百人百様でございやすが、ここにいる連中は全てを失い、行く宛てもなく、家族や世間からも見放され、息絶え絶えでこの場所に流れ着いた連中ばかりでやす。その代わり河原者には守るべき物も、失う物もございやせん。逆に言えば、河原者は何者にも縛られることはなく、何人(なんびと)からも自由でやす。」 と、答えた。  清太は、住人の中にはその身ごなしから裏世間の人間と思われる者を、何人も見かけた。彼らが仲間を裏切った正真正銘の河原者なのか、それとも河原者に擬態して何事かを偵知しているのかは、定かではない。おそらく、両者が同居していると考えるのが妥当なのだろう。 ―兎吉も、峡という束縛からの解放と自由を、求めたのか。  清太の脳裏にふと兎吉の影が過った。  夜更けになり、弥蔵が大原から戻ってきた。 「丞様から書状が届いておりました。」  弥蔵が、小さく畳み込まれた書状を、清太に手渡す。限られた紙面上に伝えたいことを簡潔に記した内容だが、所々に孫の身を按じる想いが滲んでいる。  清太は読み終えた書状を折り畳みながら、弥蔵に尋ねる。 「朝護孫子寺という寺院に住持する乙護法という僧侶を知っているか。」 「朝護孫子寺は大和信貴山に聖徳太子が創建した古刹かと…。しかし、乙護法という僧名は聞いたことがございませぬ。」  清太の質問の意味を解しかね、弥蔵が曖昧に答える。  清太は弥蔵に書状の概要を語る。 「丞様からの書状に拠れば、久秀が多聞山城を召し上げられて筒井順慶に譲り渡した際、朝護孫子寺の乙護法と呼ばれる妖僧が裏で糸を引いて、久秀を信貴山に呼び寄せた

家庭菜園 令和1年5月11日

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暑くなってきました。 もうすぐ蚊も出てくるでしょうね。 今週末の家庭菜園はまずまずの賑わいです。 おくて玉ねぎの五割方、葉が折れ、収穫時期を迎えました。 ニンニクは葉の先が枯れてきましたが、収穫にはもう少しです。 スナップエンドウは枯れ始めました。もう終わりのようです。 夏野菜はまだまだ油断できません。 キュウリはまだ元気。茄子は少し元気がないので心配。トマトは三株のうち一株が元気がなくなってます。トウモロコシは四分の一くらいが枯れかけています。 バジルの苗は難しいですね。四株植えて、二株は完全に枯れました。 本日は、追加でゴーヤの苗を植え付けです。 茄子、かいたそーかなぁ。 別のポットで育てていた大豆の苗が出ました。枝豆が楽しみです。

第十五章 三条河原(1)

 京三条河原には浮浪人や罪人など日の当たる場所で生きることができなくなった人々が身を寄せ合うように暮らしている。そういう場所だけに表世間には出回らない機微な情報も散在しており、そういう類いの話題を求めて裏世間の人間も出入りする。  清太と弥蔵は安次の案内で鴨川の土手から、葦葭などを粗雑に葺いた掘っ建て小屋が、不規則に乱立する河原へと下っていく。安次は河原から堤防を上がってくる河原者達と擦れ違うたびに明るく声を掛け、簡単な挨拶を交わしていく。 「安次、なかなか顔が利くな。」  清太が安次を軽く持ち上げると、安治は清太の言葉に満更でもない様子だが、 「この河原でひと月も寝食すれば、住人同士、自然と馴染みになりやす。」 と、忙しげに首を振って否定する。  安次は、無数の掘っ立て小屋を支持する細い材木が乱雑に入り組む狭隘な通路を、迷いなく抜けて、何の変哲もない一棟の小屋の前で立ち止まる。安次に拠れば、娘は、この小屋の住人で三条河原の顔役的存在である老夫に、刀剣の収集を依頼したと言う。 「爺様、安次です。今、戻りやした。」  小屋の中から年寄り特有の嗄れた咳払いと応えが聞こえる。安治は清太と弥蔵を外で待たせて、単身で小屋に入る。  京までの道中、安次は幾度か逃走を試みたが、いつも少し逃げた所で弥蔵に追い越され、道を塞がれた。それを繰り返し、最終的に、 ―二人を娘と対面させるまでは、逃がれることはできぬ。 と、安次は観念した。弥蔵は、安治が逃走を諦めるまで泳がせていただけに過ぎない。いずれにしても、安治は逃走する意思を失っている。  安次は間もなく小屋の出入口から顔だけを出して、清太と弥蔵を小屋の中に招き入れる。小屋の内部は清太が想像していたよりも暗く、狭い。その小空間で、地面に敷いた敷物の上に一人の老夫が立て膝で座っている。清太達の立ち位置は、老夫の座っている場所とさほどの距離はないが、老夫の周辺は光量が十分に絞られているため、清太の鍛え上げた視力でも老夫の表情は窺えない。反対に、老夫には出入口付近に立っている清太達の表情が手に取るように分かるはずである。 「概略は安次から聞いた。娘のことを知りたいとな。」  陰気な口調だが、拒否は感じられない。 「娘に興味がある訳ではない。その娘が集めている刀剣に関心があると言っておこう。」  弥蔵が老夫の出

塩江温泉方面ラン! 令和1年5月5日

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十連休の後半、5月5日。 あまりランができていなかったため、一念発起ではないですが、久しぶりに温泉付きランを結構。 昨年11月頃に再開したはずの塩江温泉にある「行基の湯」を目指しました。 まずは、いわゆる「塩江街道」(確か、国道193号線)を通って、道の駅しおのえまで、「行基の湯」は川を挟んで、道の駅「しおのえ」に隣接しています。 「行基の湯」に行くこと以外、何も決めていなかったのですが、道の駅に向かう途中で、国道脇に「不動の滝→1キロ」という看板を見つけて、距離的にも丁度よいということで、ランの目的地は「不動の滝」に決定。 行基の湯の駐車場に自動車を止めて、まずは、「不動の滝」までラン! 不動の滝、手頃な距離にありながら、なかなか綺麗な滝でした。難を言えば、滝壺の隅にある流れの澱みに流木やゴミがたまっていました。少々残念ですが、細部にこだわらず、全体を眺めれば、本当にきれいな滝でした。 往復約3.5キロのランで、少々物足らずではありましたが、行基の湯へ! 再開ということで、浴槽も脱衣所もきれいで、露天風呂もあります。泉質もよくて、肌がすべすべになりました。

第十四章 盗人(2)

 数日後、孝高は、一粒種の嫡子松寿丸を織田氏に預ける旨を、秀長に申し出る。無論、織田氏への人質である。 「肝が据わっておられる。」  重治は、信長や秀吉が山陽道や播磨の情勢を最も不安に感じているこの時期に、人質を差し出すことを願い出た孝高の深慮遠謀と覚悟を高く評価した。  秀長も織田氏に種々の劣後要因がある中、松寿丸の存在を奇貨とし、信長のもとに間違いなく送り届けることを約束する。これにより、孝高に対する信長、秀吉の信頼はますます厚くなるはずであり、孝高としても全面的な支援が受けやすい。  後刻、孝高が重治のもとを訪れる。 「もし、黒田家に万一のことがあれば、松寿丸のことをお願いいたします。」  孝高の真剣な眼差しには、単なる懇願とは異なり、常ならぬ気配が感じられる。 「わたしは織田様こそが唯一この戦国の世に終止符を打つお力を備えていると信じます。その天下平定の一助となるべく、知略を尽くして粉骨砕身する所存。しかし、わたしの仕掛ける際どい謀に対してあらぬ噂が流れることもございましょう。そのような折でも、竹中殿だけはわたくしを信じていただきたいと、こうしてお伺いした次第です。」 「なぜ、わたしを頼られる。」  重治は孝高の真意を探る。 「知謀を尽くして天下太平を目指す同志と感じました。」  重治は 「わたしは非才です。」 と、冷静に受け流す。孝高が、 「策士は時に人に誤解され、貶められます。羽柴家中、いや、日ノ本六十余州の中でそのことを理解していただけるのは竹中殿のみと見ました。どうかわたしの六尺の孤をお願いいたします。」  と語り、両拳を床について頭を下げる。  この一事が重治をして孝高を真の盟友にせしめる端緒となった。  同席していた清太は二人の純度の高い思想に感銘し、自身も天下太平の一助とならんことを改めて誓った。  羽柴氏の重臣達は松寿丸を伴い、近江への帰路についた。  清太と弥蔵は一行と別れて、姫路城の外れにある牢屋を訪ね、牢格子を挟んで、一人の小男と対面している。小男は、先日、播磨の名刹書写山圓教寺に忍び込み、刀剣を盗み出そうとした罪で捕縛された盗人である。  小男に拠れば、 「京三条河原に宝剣を高値で買い取る娘がいる。」 という。小男は素人ではないが、大した腕前ではなく、単に対価に目が眩んで、山陽道筋の古社名

第十四章 盗人(1)

 山陽道の景色は様々な場所で明瞭な色彩を持って往来の旅人達に季節の移ろいを感じさせ始めている。  秀吉の異父弟羽柴秀長を筆頭に、竹中重治、蜂須賀正勝ら、羽柴氏の重臣達が百人前後の兵卒を従え、軽塵を上げて西へと向かう。大津でこの一行に合流した清太は集団の中央よりやや前方の位置にあって重治の轡を取りながら駆け足で進む。 「存外、多くの兵を伴われましたな。」  清太は半分だけ振り返りながら、騎乗の重治に話し掛ける。 「秀吉殿が謹慎中の身なので、目立った行動は控えるべきところだが、播磨国人衆に我々の健在を示すためには最低限の人数は伴わざるを得まい。まあ、たった百ほどの将兵では播磨国人衆に対する自慢にも恫喝にもならぬかもしれぬが…。」  鞍上、重治が痩身を揺らしながら、自嘲気味に語る。 「勝家殿と謙信との対決は近い。勝家殿はやはり野戦を挑むらしいが、以前にも話したとおり、勝家殿が野戦で謙信に太刀打ちできるとは到底考えられぬ。北陸で勝家殿が大敗すれば、山陽道で織田氏に傾斜しつつある流れが逆流しかねぬ。それを少しでも食い止めるのが、この百余人だ。」 「しかし、たかだか百人とは言え、兵馬を動かしたことが信長様のお耳に入れば、さらにご勘気を被りませぬか。」  清太が自分の懸念を素直にぶつけて、重治の見解を確認する。 「秀吉殿は、「鬱々と逼塞していては、逆に信長様に謀反の準備などと誤解されかねぬゆえ、信長様が目を瞑ることができる範囲で動いておかねばならぬ」と、読んでいる。信長様がどこまでお許しになるのかは、わたしには分からぬ。いざとなれば、この百人は「単なる護衛」と言い逃れればよい。それでも秀吉殿がさらなるご勘気を被るようなら、秀吉殿の御運もそれまでよ。」  清太は説明を聞きながら、「百人」という数字を、 ―重治様なりに播磨国人衆への示威と信長様の許容範囲との微妙な均衡を計った上での結論。 と解釈する。  重治が続ける。 「羽柴家中には様々な才能を持った優秀な人材が綺羅星の如く揃っている。この道中で重臣達の言動をよく観察しておくとよい。」  重治は、将来、峡で甲丞になる清太のため、さらに広い視野を涵養するという観点も含めて、播磨下向に随行させていることを暗に清太に示す。  清太は一行とともに播磨に入ると、竹中家中の「池田清太」として、一行の到着を知らせ

家庭菜園 平成31年4月29日

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このGWで、夏野菜を植えて、根付かせたいと思っています。 今年の夏は、唐辛子、トマト、茄子、バジル、トウモロコシの苗を植えました。 キュウリは、水やりが大変であることと、ピーク時に出来すぎて食べきれないことを理由に、今年はパス。 あと、枝豆(大豆)の準備もしておきます。昨年に取れた黒豆があったので、ビニールのポットに肥料を混ぜた土を入れて、種を植えました。一昨年、種で植えて失敗し、昨年度は苗から植えて成功したので、その反省を踏まえました。 ニンニクは花芽が出始めたので、ハサミで切りました。花芽は料理に使えるので、持ち帰ります。今回は麻婆豆腐に混ぜました。ニンニクはこれから根の食べる部分が大きく成長する時期だと思われます。 奥手の玉ねぎはまだまだ葉が倒れる気配はなく、まだ、玉も大きく成長していません。こちらもここからが勝負でしょう。 ニンニクと玉ねぎに追肥をしておきました。 スナップエンドウは順調に実を付けています。 ジャガイモは植える時期がおそかったためか、葉がすごく小さいです。 イチゴもたくさん出来ていたのですが、時間がなくて収穫を断念。

信州軽井沢へ 平成31年4月30日

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信州軽井沢へ。 600キロ強の高速道路の旅。 7時30分頃出発して、途中4箇所ほど渋滞があり、軽井沢到着は17時前。特に、京都南から滋賀の草津JCTまでの渋滞が酷かった。 しかし、10連休の高速道路で想像していたよりも、渋滞していなかったような気がする。 たた、高速道路の移動というのは、味っ気がないもので、今回、生まれて初めて中央道や長野道を走ったが、木曽あたりは高い山々に囲まれていること、松本や上田、軽井沢などは広大な盆地であるなど、地形的な特徴を感じながら走っただけで、知的好奇心という点ではあまり高揚することはない。 上田、軽井沢の一部は平安時代に官営の牧場である「御牧」であったことを思い返し、現代風の建物や田畑がない原野であった頃を想像すると、古代、この周辺は阿蘇の山麓や北海道の牧場のような風景が広がっていたのでしょう。 さて、腹が減っては、ということで、中軽井沢到着後、すぐに、信州蕎麦の老舗「かぎもとや」に立ち寄り、大天ざるで満腹です。 ざるそばが届くのが遅かったので、写真には映っていません。 蕎麦はそば粉の割合が多い、もちもちとした触感の、ぷつぷつと切れやすい、昔ながらの蕎麦でした。 わたしの印象では、阿波國祖谷あたりの祖谷蕎麦に似ていました。