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9月, 2013の投稿を表示しています

950(1571)_==元亀2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  元亀2年、清水景治(清水宗治の嫡子)が生まれる。  元亀2年(1571)1月2日、織田信長が、近江横山城にいる木下秀吉に、大坂と北国(北陸)の往来を封鎖するよう命じる。  元亀2年2月7日、本願寺顕如が、朝倉義景から贈られた舜挙の絵2幅が届いたことに礼状を発送。//義景は昨年夏に舜挙の絵を発送していたが、道中混乱のため到着が遅れたか?  元亀2年(1571)2月7日、尼子家臣平野基久、伯耆国尾高城下の浄満原に夜襲をかけるが、尾高城主杉原盛重、尼子勢を城外に打ち破り、平野基久が討死。  元亀2月2月中旬、山中鹿之助、平野基久の弔い合戦のため尾高城(守将杉原盛重)を攻めるが、返り討ちにあい、尼子勢の馬田慶篤が討死。  元亀2年2月18日、石山本願寺の慶寿院(顕如の祖母)が逝去。享年79歳。//幼かった証如や顕如を後見。  元亀2年2月、浅井氏の属城佐和山城は元亀1年6月以来の籠城に耐えかね、城主磯野員昌は開城し、攻撃側の丹羽長秀と人質を交換し、高島に退きのく。織田信長は、磯野員昌の降を入れ、近江高島郡を与える。  元亀2年2月、織田信長が丹羽長秀に近江国佐和山城を与える。  元亀2年2月、足利義昭が参内。この際,辻固めに伊丹勝興が三千ばかりを率いて上京。供奉は細川藤賢・細川藤孝・伊勢三郎・飯川弥四郎・真木島孫六・安威兵部少輔・後藤治部少輔・沼田弥四郎・沼田弥七郎,奉行は諏訪時長・飯尾昭連。  元亀2年2月30日、織田信長,岐阜から入京して,明智光秀の陣を宿所とする。  元亀2年3月1日、織田信長,禁裏へ伺候。禁裏の修繕の作事を見て回る。  元亀2年3月16日、三好義継・松永久秀,織田信長を見舞う。申し次は村井貞勝。  元亀2年3月19日、高瀬城主米原綱寛、毛利勢に寝返った野村士悦を頼って開城。これにより吉川元春、高瀬城を攻略。城将米原綱寛は新山城に送られる。高瀬城は長い籠城で兵糧が底を尽きた。  元亀2年4月17日、上杉謙信が、伝馬と宿送の印鑑を定める。//印文は「勝軍地蔵・摩利支天・飯縄明神」  元亀2年4月1

950(1570)_==元亀1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄13年、この年4月23日に元亀に改元。  永禄13年(1570)、この年4月に元亀に改元。  永禄13年(1570)、織田信長、公家衆にその所領を書き上げることを命じる。  元亀1年、宇喜多直家、石山城主金光宗高を暗殺し、石山城を奪う。  永禄13年(1570)1月6日、毛利勢、尼子氏討伐のため、安芸吉田郡山城を出陣。折から深雪。  永禄13年(1570)、毛利元就、毛利輝元を総大将として、粟屋元真/国司元武以下譜代約6千、吉川元春と石見衆、小早川隆景と備後衆、宍戸隆家と備中衆、さらには天野元定、熊谷信直や安芸佐東川内以下の水軍2百艘で総兵力2万5千で尼子氏討伐を開始。  永禄13年(1570)1月7日、本願寺顕如が、織田信長に年賀の祝儀と太刀・馬を贈る。 永禄13年(1570)1月11日、上杉輝虎が、佐野昌綱の下野国唐沢山城を攻め、これを北条氏政に知らせた上で、武蔵岩槻城を太田資正に返還するよう要求。  永禄13年1月16日、本願寺顕如が、足利義昭に三淵晴員を通じて年賀の祝儀を献上。  永禄13年、織田信長が、阿波の門徒が三好三人衆に加担している点について石山本願寺を糾弾し、石山からの退去を求める。//顕如は怒り、評定の結果、信長が攻めて来れば戦う他なしと決定し、「此度、石山の境内を御城地になされたき思し召しに付き、御処望尤もに候えども、当地は仏意相応百縁の地に候はば、ひとえに御用捨下さるべし」と返答。  永禄13年1月23日、織田信長が足利義昭に5カ条の条書を提示。宛名は織田信長から朝山日乗と明智光秀となっており、足利義昭が袖判をおして承認する形になっている。//足利義昭、この条書きの内容に憤る。  永禄13年1月23日、織田信長が諸国の大小名に2月中旬の参洛をうながす書状を発信。畿内、近国の大名/国衆が中心だが、遠国では三河/遠江の徳川家康、甲斐の武田氏、北陸の神保、出雲尼子氏、備前衆(浦上氏など)があり。  永禄13年(1570)1月28日、毛利氏、出雲飯石郡多久和(現三刀屋町多久和:守将多久和大和守)の多久和城を攻撃。秋上庵介/尤道理介

950(1569)_==永禄12年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄12年、尼子氏と但馬の山名氏が同盟を結ぶ。  永禄12年(1569)1月4日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛太輔竜興、長井隼人ら、南方の諸浪人を催し、薬師寺九郎左衛門を先鋒として、将軍足利義昭の御座所六条に取り詰め、門前を焼き払い、寺中に乗り入れようとする。(三好三人衆とは三好長逸らで、堺の後援を受ける。このとき、六条に立て籠もる武将は、細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七。斎藤竜興は後に越前に下って、朝倉義景を頼ったが刀根山の合戦で戦死。しかし、竜興の弟(斎藤新五郎≒織田信孝の家老斎藤玄蕃允利堯か?)は道三の孫であることから、信長はこれを助けて、斎藤家の跡を継がせるため、生活をできるだけの領地を与えた。)  永禄12年(1569)1月4日、薬師寺九郎左衛門(三好方)が山県源内、宇野弥七両人を討ち取る。  永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆が京都に乱入し、足利義昭の住む六条本圀寺を襲う。(この際、細川典厩藤賢・津田左近・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中守および若狭衆の山県源内・宇野孫七らが切ってで、後巻きとして伊丹・荒木・茨木・細川兵部大輔(藤孝)・三好左京大夫らがかけ向かい、桂川辺りで1戦に及んで大利を得た(原本信長記)(1月6日が正解?)。)  永禄12年1月、三好左京大夫、細川兵部太輔、池田筑後、六条将軍御座所に救援に向かう。  永禄12年1月、京都桂川あたりにて、織田軍と三好軍がぶつかる。織田勢は、細川兵部太輔、三好左京大夫、池田筑後、伊丹、荒木、茨木ら。三好勢のうち、高安権安、吉成勘介、同弟、岩成弥介、林源太郎、市田鹿目介らを討ち取る。  永禄12年1月6日、三好三人衆と織田勢が、京の桂川付近で合戦。  永禄12年1月6日、織田信長、三好三人衆が京都に乱入した旨の飛脚の知らせをうける。(この日、大雪)  永禄12年1月6日、織田信長、大雪の中、美濃岐阜城を出発。  永禄12年1月8日

950(1568)_==永禄11年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄11年(1568)初め頃、越中の椎名康胤が一向一揆と結び、越後を脅かしたため、上杉輝虎が椎名方の松倉城を攻撃し、さらに神通川を渡って放生津(富山県新湊市)に陣を進める。  永禄11年(1568)2月、織田信長が、北伊勢に出陣し、神戸城に籠る神戸友盛を説いて神戸氏を下し、信長の三男信孝を友盛の養子とする。さらに、安濃津の長野氏の家臣が主人具房を追い、信長の弟信包を養子とする。//信長は北伊勢8郡を手中に収める。  永禄11年(1568)2月8日、摂津富田にいる三好三人衆方の足利義栄が、征夷大将軍の宣下を受け、14代将軍となる。  永禄11年(1568)3月16日、上杉輝虎が、椎名方の守山城(別名森山城、二上城、海老坂城、師子頭城:富山県高岡市東海老坂)への攻撃を開始。  永禄11年(1568)3月25日、上杉輝虎(越中国椎名氏を攻撃中)のもとに鳥坂城主中条藤資から、本庄城(村上市)城主本庄繁長が武田信玄の誘いに乗り謀反した旨の急報が届いたことを受け、急遽、春日山城に戻る。//本庄繁長は、揚北衆の中条藤資、色部勝長、黒川実氏や鮎川盛永らを味方に誘うものの、断られた。武田信玄は、本庄繁長を救援するため、本願寺勢力と連携し、勝興寺(富山県高岡市)に越後への侵攻を依頼しつつ、自ら海津城(長野県長野市)を出陣し、7/10には上杉方の飯山城(長野県飯山市)を攻撃した。  永禄11年4月、足利義秋が、越前一乗谷に下向した関白二条晴良から、義秋を将軍にとの意向を伝えられ、義秋がこれを拝受し、名を義昭と改める。//二人の将軍が並立。2月8日参照。//義昭は、朝倉義景が動かないため、上洛の援助を要請する内書を織田信長に発出。  永禄11年6月、吉川元春/小早川隆景ら豊後大友宗麟との対決のため北九州へ出陣。出雲国人衆米原/三沢/三刀屋らも動員。出雲大庭大宮(神魂(カモス)神社)の神官の一族秋上三郎左衛門尉綱平、毛利方の主力が北九州に出陣したことを京都の山中鹿之助/立原久綱らに通報。  永禄11年6月23日、足利義昭,細川藤孝・上野清信を使者として,

950(1567)_==永禄10年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄10年(1567)1月21日、織田信長が、嫡子信忠の室に武田信玄の息女お松を迎えることを約束する。  永禄10年(1567)、織田信長の妹お市の方が、浅井長政の近江小谷城に輿入れ。  永禄10年(1567)2月、毛利勢が出雲尼子攻略を終え、安芸吉田郡山城に凱旋  永禄10年(1567)春頃、織田信長が滝川一益を北伊勢に派遣。  永禄10年(1567)、毛利氏が播磨進出を企て、尼子方の播磨上月城を攻め落とす。  永禄10年(1567)2月12日、下野国唐沢山城城主佐野昌綱が、上杉輝虎に背く。//上杉輝虎は、佐竹義重、小山秀綱、太田資正に参陣を促し、唐沢山城を攻める。//佐竹義重はこの要請に応じず、結城義親の岩城白河城を攻めて、武田信玄に内通。//上杉輝虎は、佐竹義重との連携を絶ち、結城義親と連携して白川城救援を承諾。  永禄10年2月16日、三好義継が、一族の三好長逸ら三人衆に実権を握られていることを恨み、河内の高屋城を抜け出て、堺にいる松永久秀のもとに走る。  永禄10年(1567)2月24日、足利義昭が、再度、上杉謙信に対し、武田氏・北条氏と和睦し、京都回復を要請。  永禄10年2月28日、本願寺顕如が、能登守護の畠山義継から加賀門徒の助けを借りて能登に戻りたい旨の書状が届いたのに対して、他国への介入は遠慮したい旨を返答。  永禄10年3月、足利義昭,毛利元就に帰洛のための参陣を依頼する。  永禄10年3月18日、越前の朝倉方が、朝倉に反逆して本荘城(福井県坂井郡芦原町本荘)に拠った堀江景忠を討伐するために攻撃した。//高田専修寺派の真孝が仲介して、景忠を追放することで落着。  永禄10年4月6日、厩橋城城代北条高広が、上杉輝虎に背き、北条氏康に通じる。//上杉輝虎は、沼田城城将松本景繁、小中大蔵少輔、新発田右衛門大夫に北条高広討伐を命じる。  永禄10年5月16日、上杉輝虎が、色部勝長を唐沢山城城将に任命し、春日山城への帰路につく。  永禄10年6月5日、本願寺顕如が、越前朝倉氏に反逆し、能登に退去した堀江景忠に対し

950(1566)_==永禄9年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄9年(1566)、足利義昭,尾張の織田信長に帰洛のことを依頼。さらに、足利義昭,細川藤孝を使者として,織田信長・斎藤竜興の和睦を図る。  永禄9年(1566)、能登守護畠山氏の当主畠山義綱が父義続とともに家老の遊佐氏や長氏、温井氏らに追放され、幼少の義慶が擁立される。***以後、天正2年に義慶が逝去し、畠山氏の跡目は途絶える。  永禄9年(1566)、山中鹿之助、亀井家の養子となる(この説怪しい)。その後、天正2年(1574)に山中家に戻るとの説。  永禄9年(1566)前後、富田城の尼子勢のなかから多数の脱落者が発生し、毛利方に下る。重臣の牛尾幸清(尼子家家老職)/亀井秀綱/河本隆任/河副久盛/佐世清宗(尼子家家老職)/湯惟宗など。この時、山中鹿之助21歳。  永禄9年1月1日、尼子家筆頭家老の宇山久兼が、嫡男弥四郎とともに、毛利家への内通の罪で尼子義久の命により誅殺される。  永禄9年1月、尼子家重臣宇山久信が佞臣大塚与3右衛門の讒言により誅殺される。毛利元就の謀略との説も。この後富田城内から脱し、毛利方に下るものが多数。  永禄9年2月(?)、毛利元就が洗合の本陣で病に伏す。  永禄9年2月、上杉輝虎が、佐竹義重に参陣を促して、小田城(茨城県筑波郡筑波町)の小田氏治を攻める。//2月16日、小田城を攻略。//小田城落城後、関東諸将が上杉輝虎に対する軍役を約束。  永禄9年3月、毛利元就の病が回復<将軍足利義輝が曲直瀬道三を出雲に下向させる。  永禄9年3月、上杉輝虎が、千葉胤富支配下にある属城臼井城(千葉県佐倉市)の原胤貞を攻める。//千葉胤富と北条勢が原胤貞を救援  永禄9年3月1日、足利義昭,上杉謙信に上京を促す書状を出すとともに,織田信長と斎藤竜興の和睦を催促。  永禄9年3月10日、足利義昭が、上杉輝虎に使者を遣わし、京都の回復を要請。//輝虎はこれを承諾し、足利義昭に花ヶ前頼慶を遣わして進物を贈る。  永禄9年4月、織田信長が吉川元春に宛て、出雲攻略が進んでいることを賀する書