950(1571)_==元亀2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_<
>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 元亀2年、清水景治(清水宗治の嫡子)が生まれる。
 元亀2年(1571)1月2日、織田信長が、近江横山城にいる木下秀吉に、大坂と北国(北陸)の往来を封鎖するよう命じる。
 元亀2年2月7日、本願寺顕如が、朝倉義景から贈られた舜挙の絵2幅が届いたことに礼状を発送。//義景は昨年夏に舜挙の絵を発送していたが、道中混乱のため到着が遅れたか?
 元亀2年(1571)2月7日、尼子家臣平野基久、伯耆国尾高城下の浄満原に夜襲をかけるが、尾高城主杉原盛重、尼子勢を城外に打ち破り、平野基久が討死。
 元亀2月2月中旬、山中鹿之助、平野基久の弔い合戦のため尾高城(守将杉原盛重)を攻めるが、返り討ちにあい、尼子勢の馬田慶篤が討死。
 元亀2年2月18日、石山本願寺の慶寿院(顕如の祖母)が逝去。享年79歳。//幼かった証如や顕如を後見。
 元亀2年2月、浅井氏の属城佐和山城は元亀1年6月以来の籠城に耐えかね、城主磯野員昌は開城し、攻撃側の丹羽長秀と人質を交換し、高島に退きのく。織田信長は、磯野員昌の降を入れ、近江高島郡を与える。
 元亀2年2月、織田信長が丹羽長秀に近江国佐和山城を与える。
 元亀2年2月、足利義昭が参内。この際,辻固めに伊丹勝興が三千ばかりを率いて上京。供奉は細川藤賢・細川藤孝・伊勢三郎・飯川弥四郎・真木島孫六・安威兵部少輔・後藤治部少輔・沼田弥四郎・沼田弥七郎,奉行は諏訪時長・飯尾昭連。
 元亀2年2月30日、織田信長,岐阜から入京して,明智光秀の陣を宿所とする。
 元亀2年3月1日、織田信長,禁裏へ伺候。禁裏の修繕の作事を見て回る。
 元亀2年3月16日、三好義継・松永久秀,織田信長を見舞う。申し次は村井貞勝。
 元亀2年3月19日、高瀬城主米原綱寛、毛利勢に寝返った野村士悦を頼って開城。これにより吉川元春、高瀬城を攻略。城将米原綱寛は新山城に送られる。高瀬城は長い籠城で兵糧が底を尽きた。
 元亀2年4月17日、上杉謙信が、伝馬と宿送の印鑑を定める。//印文は「勝軍地蔵・摩利支天・飯縄明神」
 元亀2年4月19日、武田信玄が、東三河に出陣し、足助城(愛知県東加茂郡足助町足助)を攻略//さらに、吉田城(豊橋市今橋町)に迫ったため、徳川家康が駆け付け、懸命に城を守ったため、信玄は退却。
 元亀2年4月29日、尼子勢は新山城の包囲網を崩そうと、羽倉山城を攻撃したが、失敗。
 元亀2年5月6日、江北十ヶ寺の門徒が、誓願寺に集まり、織田信長に対して決起し、1万9千が堀秀村の守る鎌刃城(滋賀県坂田郡米原町番場)を攻め立てる。//同時に浅井長政も姉川まで出陣し横山城の木下秀吉を威圧。//木下秀吉は横山から鎌刃に救援に赴いたところ、一揆勢が織田信長が来たと勘違いして敗走//秀吉は門徒の耳や鼻を1800ほど切り落とし、信長に献上したところ、信長が非常に喜んだ。
 元亀2年5月、(?)この頃、近江湖南の門徒が織田信長に対して蜂起。//川那辺秀政が、石山本願寺から金ケ森に派遣され指揮を採った。
 元亀2年5月12日、織田信長が、佐久間信盛や柴田勝家ら5万の兵を率いて、長島門徒討伐のため、津島(愛知県津島市津島)に出陣。//門徒勢は、輪中の一つ一つを砦として徹底抗戦。
 元亀2年5月16日、織田信長が、伊勢長島の門徒を攻める織田勢に対して、総退却を命じる。//織田勢は柴田勝家が負傷、大垣城主氏家ト全が討死し、大敗北し、5月16日に総退却。
 元亀2年5月17日、松永久秀が、武田信玄に対して、上洛の際には懇ろに申し合わせたい旨の書状を密かに送る。//この後、すぐに久秀は織田信長から離反。
 元亀2年6月上旬、尼子方の隠岐弾正忠、毛利勢に寝返る。これで隠岐からも尼子方の勢力が消滅。
 元亀2年6月10日、織田信長方の和田維政が、三好三人衆に奪われていた吹田城(大阪府吹田市元町)を奪還。
 元亀2年、三好義継や松永久秀が、織田信長方から三好三人衆方に寝返り、織田信長方の河内守護で高屋城城主の畠山昭高を攻める。//石山本願寺周辺の摂津・河内では義継・久秀の寝返りにより反信長勢力が勢いを取り戻す。//対して、織田方は京の明智光秀が筒井順慶を後押しして、久秀の本拠大和を脅かす。
 元亀2年6月11日、本願寺顕如が、越前の朝倉義景に対して「今度の縁辺之儀、弥以て深重申し談ず可く、自他之趣入眼の段、珍重に候」との書状を送り、永禄10年の冬に約した長子教如と義景の娘三位の祝儀を交わすとともに、この縁談に尽力した若狭国守の武田元明と義景の母広徳院にも書状を送る。//下間頼総が使者となる。
 元亀2年6月14日、毛利元就逝去。享年75歳。吉川元春はこの報を高瀬城で聞く。吉川元春は元就17日の孝養に尼子勝久に味方する大山の教悟院を討伐すると宣言し出兵。
 元亀2年6月16日、織田信長、明智光秀に宛てて、榎並(大阪府守口市)は三好為三の本知であるからそれを与えたく、前に為三に与えた伊丹近所の領地と交換するようにせよという書状を発信。
 元亀2年7月3日、三好三人衆方の松永久秀が、織田方の筒井順慶の動きを警戒し、大和に戻る。//松永久秀は信貴山城に、嫡子久通は多聞大和山城に入る。
 元亀2年7月4日、近江の六角義賢が、織田信長との和約を破る。
 元亀2年7月10日、織田信長、上野秀政・明智光秀の両人に宛てて、曇華院領山城国大住荘は直納のことと定めるよう下知。
 元亀2年7月23日、吉川元春、大山衆徒教悟院や伯耆国8橋(ヤバセ)城に籠もる尼子方の福山次郎左衛門茲正/横道権ジョウ高宗/その弟横道源介らを討滅するため、軍勢を米子の東4㌔ほどの小一神山(西伯郡)に進め、その南8㌔ほどの寺内城(西伯郡)に拠る尼子方の残党の攻撃を開始。
 元亀2年7月29日、朝倉義景が、3万2千の兵を率いて近江小谷山に隣接する大嶽(オオヅク)に布陣。
 元亀2年7月晦日、足利義昭、三好為三に宛て、織田信長の書状の通り相違ない旨、さらに、明智光秀に詳細は聞く旨の書状を与える。
 元亀2年8月4日、松永久秀・三好義継が大和辰市にて筒井順慶と戦い、大敗し、松永久秀が筒井城を失う。
 元亀2年8月、三好三人衆方に寝返った松永久秀が、大安寺(奈良県大安寺町)に進み、筒井順慶を攻める。//順慶が勝利。
 元亀2年8月、筒井順慶が松永久秀・三好義継を破ったあと、織田信長に従う。
 元亀2年8月、明智光秀が近江坂本城の城主に任命され、同城に入る。
 元亀2年8月上旬、吉川元春、山中鹿之助が末石城で指揮を採っていると聞き、山中鹿之助を討てば尼子方は崩壊すると考え、大山衆徒教悟院をさしおいて、山中鹿之助が籠もる末石城を囲む。//吉川元春の謀の可能性もある。山中鹿之助自身、吉川元春は大山衆徒教悟院討伐が目的と考えていたようであり、大いに油断していた模様。
 元亀2年8月中旬、山中鹿之助、吉川元春に末石城を攻められ、落城必至と見て、毛利方の宍戸隆家(元就の娘婿)/口羽通良を通じ降伏を申し入れる。吉川元春は直ちに首を刎ねることを命じるも、隆家/通良の反対を受け、一命を許し、周防徳地千貫/伯耆に千貫の計2千貫を与える約束で末石城を明け渡し。その後、杉原盛重の居城尾高城に監禁。
 元亀2年8月18日、織田信長が、羽柴秀吉の在留している近江国横山城に陣し、浅井長政の小谷城を攻める。
 元亀2年8月18日、吉川元春、末石城を攻囲。山中鹿之助、吉川元春に下り、捕虜となる。
 元亀2年8月18日、毛利勢により伯耆国寺内城を落城。
 元亀2年8月21日、伯耆国8橋(ヤバセ)城の福山/横道兄弟、尼子勝久の籠もる新山城に退去。
 元亀2年8月、山中鹿之助、監禁されていた尾高城から脱出。ある夜、山中鹿之助は赤痢に罹ったといい、厠に立ち始める。番人も最初は警戒していたが、5〇度、百度を超え、百7、81度を超えると油断し、その隙を縫って山中鹿之助は脱出した。⇒これ以降、ある時期までの山中鹿之助の消息は不詳。///その後丹後国に逃亡。
 元亀2年8月、山中鹿之助、吉川元春の手から脱出し、京都に向かう。
 元亀2年(1571)8月21日、新山城落城。尼子勝久ら新山城を逃れて鈴重城山に陣するも、追われて隠岐へ向かい、さらに京都に逃れる。///その他、新山城を捨てて簾カ岳(美保関町)に逃れる。やがて簾カ岳も追われ、加賀(島根町)の桂島に逃走。ここでも毛利勢の追撃を受け、ついに隠岐に退き、続いて京都に上る。⇒⇒隠岐へ渡ったかどうかは不明。///この後、尼子勝久/山中鹿之助ともに出雲の土を踏むことはない。
 元亀2年8月28日、織田信長が、近江小谷城を攻めていたが、浅井・朝倉勢に戦意がないのを見て、横山城から佐和山に移る。
 元亀2年8月28日、織田方の高槻城城将和田惟政が、信長の命により、三好三人衆方の池田城(大阪府高槻市城内町)城主池田知正を攻めるために出陣。//池田勢は城から出陣し、郡山(大阪府茨木市郡山)で両軍が衝突し、和田勢が大敗し、和田惟政が討死。//池田勢の中に荒木村重や中川清秀がいた。//池田勢は、勢いに乗って、茨木城を奪い、高槻城に迫るが、京から三淵藤英が来援し、和田家中の高山友照・右近父子や惟政の子惟長がこれを守る。
 元亀2年9月12日、織田信長が、3万の兵を率いて近江坂本に陣を進め、比叡山を焼き討ち。//叡山は元亀1年に浅井・朝倉方に味方した//叡山は黄金を積んで許しを乞うたが、信長は聞き入れず、坂本の町に放火、日吉社などを焼き、根本中堂をはじめ十二谷にある堂塔伽藍を焼き尽くし、僧俗男女を問わず撫で斬りにした。//9月15日まで焼き討ち。
 元亀2年9月21日、織田信長が、高宮左京亮とその一党を近江佐和山に誘い出し、一人残らず殺す。//高宮左京亮は、先の大坂の陣で本願寺側に寝返った。
 元亀2年9月24日、明智光秀、千ばかりの兵を率いて、高槻城(大阪府高槻市)に入る。
 元亀2年9月25日、一色藤長・一色昭秀・上野秀政ら幕府衆が摂津に出陣。
 元亀2年9月30日、三淵藤英が奈良に出陣。
 元亀2年夏過ぎ、尼子勝久/山中鹿之助/立原源太兵衛ら尼子氏一党の十人余りが近江国横山にて羽柴秀吉と初対面し、織田信長へのとりなしを依頼⑥//織田信長はこの時点では近江浅井氏、越前朝倉氏のほか甲斐武田氏、大坂の石山本願寺など4方に敵を抱えている状況であり、毛利氏との敵対は得策ではないとして、尼子氏一党の扱いを羽柴秀吉に一任⑥
 元亀2年10月、正親町天皇、甘露寺経元宛てに、同寺領に関する女房奉書を与える。それによれば、『(明智)光秀は同寺を延暦寺の末寺と号して同寺領を違乱した。しかし、同寺は延暦寺の末寺ではないから、光秀にことわって違乱を止めさせよ』とのこと。
 元亀2年10月3日、北条氏康が逝去。氏政が家督を相続。
 元亀2年10月15日、織田信長、京都市民に米を貸し、その利息で禁裏の供御に宛てることに決し、明智光秀・島田秀満・塙直政・松田秀雄四人の連署で、禁裏の賄いとして、米を市中に預ける、ただし一町に五石ずつとする、当方案内に従い出頭して米を請取れ、利息は三割とする、来年正月から毎月一町から一斗二升五合ずつ進納せよ、元米は永代預けておく旨を告知。
 元亀2年10月15日、山科言継、岐阜に下り、青蓮院・妙法院・曼殊院のことおよび甘露寺の寺領が明智光秀により横領された件について、相談。//青蓮院・妙法院・曼殊院の三門跡寺院と甘露寺は延暦寺の末寺ではなかったが、明智光秀が延暦寺の末寺として、その寺領を召し上げたようである。
 元亀2年10月29日、織田信長、山科言継に小袖・袷・肩衣・袴などを送り、また、明智光秀に銭二百疋(二貫文)を送る。
 元亀2年10月29日、織田信長、明智光秀および細川藤孝を呼び、茶の湯を催す。//このころ、明智光秀・細川藤孝・村井貞勝は岐阜に逗留?
 元亀2年11月1日、錦小路町月行事与三郎以下が連署で、米二百一五石の受取状を、明智光秀・島田秀満・塙直政宛に提出。
 元亀2年11月、太田城(茨城県常陸太田市)城主佐竹義重が武田信玄に通じ、小田原城主北条氏政や小田城主小田氏治らを攻める。//小田氏治は上杉謙信に救援を要請。
 元亀2年、上杉謙信が、小田城主小田氏治らの要請に応じて、三国峠を越え、上野総社(群馬県前橋市)に布陣し、武田軍と対峙。
 元亀2年11月24日、本願寺顕如が、朝倉義景や朝倉景鏡、浅井久政・長政父子に織田信長を非難する書状を送る。
 元亀2年12月、奈良大乗院門跡の使者が越前に下ろうとしたところ、織田信長が大坂と北国の往来を封鎖していたため、使いを果たせずに奈良に戻る。
 元亀2年12月、明智光秀、近江坂本に城をかまえ(築城を始める)、山門領を知行した。(『年代記抄節』による)
 元亀2年12月、上杉謙信が、武田方の石倉城(群馬県前橋市)を攻略し、厩橋城に入る。//謙信は関東で越年。
 元亀2年12月、織田信長、佐久間信盛に近江国金森以下の地を与え、野洲・栗本両郡など山門領をも欠所として与え、さらに、進藤・青地・山岡らを信盛の与力とした。
 元亀2年12月10日、正親町天皇、山科言継に宛てて、『(明智)光秀が青蓮院・妙法院・曼殊院の三門跡領を延暦寺領として横領したとのことであるが、これを止めるよう(織田)信長へ(足利)義昭から斡旋するようにさせた』という書状を出し、またこのことについて直接織田信長に綸旨を与える。(『言継卿日記』による)
 元亀2年12月27日、北条氏政が、上杉謙信との盟約を破棄し、武田信玄と誓紙を交わして、同盟関係を復活。

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