950(1572)_==元亀3年==(最新版)
>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_< 元亀3年?月、宇喜多秀家誕生。 元亀3年(1572)1月10日、本願寺顕如が、長子教如の得度に対する謝恩として、朝廷に300疋を献上。//教如の得度は永禄13年2月であり、得度の謝恩は名目で、朝廷との結び付きを強めるための献金。 元亀3年1月14日、本願寺顕如が、武田信玄に宛てて、織田信長が春に摂津・河内に出陣するとの風聞に対して、背後からの牽制を要請。合わせて、上杉謙信に攻められている越中の椎名康胤を助けて欲しい旨も要請。さらに、信玄に黄金50両、息子勝頼に黄金20両を贈る。 元亀3年1月18日、織田信長が、将軍足利義昭の名で、武田氏、北条氏、上杉氏の和睦を呼びかける。 元亀3年(1572)1月21日、吉田兼見、近江坂本に明智光秀を訪れる。 元亀3年1月23日、六角義賢が、門徒とともに近江の金ケ森と三宅(守山市三宅町)に籠る。//織田方は、佐久間信盛がこれを攻めるも容易に落ちず。 元亀3年閏1月3日、上杉謙信が、武田方の属城上野国石倉城を攻略し、城郭を破却して、厩橋城に凱旋。その後、武田・北条軍と利根川を挟んで対陣したが、同年4月に帰国。 元亀3年閏1月6日、吉田兼見、明智光秀の坂本築城の見舞いに行って、酒肴を送る。 元亀3年閏1月13日、将軍足利義昭が、毛利輝元と小早川隆景宛に、讃岐まで兵を出すよう要請する書状を送る。 元亀3年閏1月26日、即位の旗桙の役を務める四郎二郎というものの給田が、法証寺領と号して勘落された(足利義昭が没収)事に対して、正親町天皇が武家伝奏万里小路惟房を通じて明智光秀に命じてこれを止めさせるよう求める。 元亀3年3月3日、吉田兼見,明智光秀を訪ねて近江坂本に赴くも,明智光秀不在。 元亀3年3月6日、織田信長,羽柴秀吉の守る近江横山城に入城。 元亀3年3月7日、織田信長が4万の兵を率いて浅井久政・長政父子討伐のため近江に着陣。 元亀3年3月7日、織田信長,小谷山と山本山との間に陣して余呉・木ノ本などを放火。 元亀3年3月12日、本願寺顕如が、朝倉義景に書状と太刀・馬など十種十荷の贈物を送る。//近