>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
元亀3年?月、宇喜多秀家誕生。
元亀3年(1572)1月21日、吉田兼見、近江坂本に明智光秀を訪れる。
元亀3年閏1月6日、吉田兼見、明智光秀の坂本築城の見舞いに行って、酒肴を送る。
元亀3年閏1月26日、即位の旗桙の役を務める四郎二郎というものの給田が、法証寺領と号して勘落された(足利義昭が没収)事に対して、正親町天皇が武家伝奏万里小路惟房を通じて明智光秀に命じてこれを止めさせるよう求める。 元亀3年3月3日、吉田兼見,明智光秀を訪ねて近江坂本に赴くも,明智光秀不在。
元亀3年3月6日、織田信長,羽柴秀吉の守る近江横山城に入城。
元亀3年3月7日、織田信長,小谷山と山本山との間に陣して余呉・木ノ本などを放火。
元亀3年3月11日、織田信長,近江滋賀郡にて,和邇に陣を構え,木戸・田中に押し詰め,砦を作って,明智光秀・中川重政・丹羽長秀を入れおく。
元亀3年3月12日、織田信長,京都に入り,二条妙覚寺を宿所とする。
元亀3年4月、織田信長、河内国に出兵。細川兵部大輔藤孝・三淵大和守藤英・上野中務大輔秀政・明智光秀(以上、幕府衆)、佐久間右衛門信盛・柴田勝家(織田信長衆)、その他池田勝正・伊丹勝興・和田惟政らが参陣。
元亀3年4月13日、摂津中島城の細川昭元(右京大夫)が三好義継と和睦し,人質を交換。//その後、この和談はすぐに破れ,三好為三・香西元成は中島城をでて三好義継に属して昭元と戦う。また,三好義継は松永久秀とともに畠山昭高方の河内交野城を攻めた。
元亀3年4月、本願寺光佐,浅井長政・朝倉義景に対して,しきりに近江坂本への出兵を促す。
元亀3年4月16日、織田信長,柴田勝家・佐久間信盛・明智光秀・細川藤孝・三淵藤英・上野秀政らを河内交野城に派遣し,これを救わせる。
元亀3年(1572)6月12日、尼子勝久/山中鹿之助ら、因幡国に侵入し、武田高信らと戦う。以後、因幡国各地を転戦。
元亀3年、山中鹿之助、あぶれ者をかき集め、小舟を盗み、因州の海岸に出没。岩本の川向こうに日比野という商家富農が多い在所に目をつけ、ここを押さえて根城にし、海賊を働き近隣の郷村に夜討をかけ強盗を働く。⇒およそ天下太平を望むべき姿勢にはあらず。///その後、山中鹿之助の勢いは強大となり、桐山城を奪取し、兵を蓄えて1城の主に成り上がった。この時山中鹿之助33歳。背丈高く、骨格逞しく、大きな眼は光鋭く人を刺し、顔面は髭に覆われ、胸から手足まで深く体毛が生えていた。海賊大将山中鹿之助の名は因幡の士民を震え上がらせた。⇒この時の行為が因幡の民心を山中鹿之助から離させるのでは!!!
元亀3年7月20日、織田信長,近江横山城(羽柴秀吉在番)に入り,柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・明智光秀・木下秀吉らに小谷城を攻めさせる。//この際,明智光秀・木下秀吉らを琵琶湖に働かせ,海津・塩津・竹生島以下を攻めさせる。
元亀3年7月21日、織田信長、近江に出陣し、小谷城を攻撃。
元亀3年7月25日、織田信長が近江虎御前山に塁を築く。
元亀3年7月、朝倉義景が越前から北近江に来援し,浅井長政を助けて,織田信長と対陣。
元亀3年7月、明智光秀,堅田の猪飼甚介らを率いて琵琶湖に舟を浮かべ,海津・塩津などでゲリラ戦を展開。
元亀3年8月、因幡鳥取城主武田高信が但馬阿勢井城を攻めるも、嫡子武田又太郎、一族および部将格の兵を多く失う。以前より武田高信は但馬の阿勢井城主塩冶肥前守と争っていた。武田高信の大敗を聞いた尼子勝久/山中鹿之助らが因幡に侵入を開始。
元亀3年(1572)、山中鹿之助が海賊となって丹後から因幡に上陸し、但馬亡命中の山名豊国を助け、鳥取城主に返り咲かせ、この冬京都にも戻る。
元亀3年9月16日、織田信長、近江小谷城攻めの途中で一時岐阜に帰陣。
元亀3年10月3日?、武田信玄、甲府を出陣し、上洛の途につく。
元亀3年10月、毛利氏/浦上氏/宇喜多氏が講和。
元亀3年12月、尼子勝久、山中鹿之助/立原久綱/神西三郎左衛門/亀井信一郎/横道兄弟/牛尾大炊助らを率いて京都を発し、但馬に向かう。
元亀3年12月22日、上洛を目指す武田軍と織田/徳川連合軍が三河三方ヶ原で激突し、織田/徳川連合軍が敗北。
元亀3年12月、武田信玄、遠江三方ヶ原の捷報を、浅井長政・朝倉義景・本願寺光佐・松永久秀らに喧伝。
コメント
コメントを投稿