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950(1930)_==享禄3年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  享禄3年(1530)1月21日、上杉謙信が、越後守護代長尾為景の末子として、春日山城(上越市中屋敷)で誕生。幼名虎千代。母は栖吉城(長岡市栖吉)城主長尾氏の娘虎御膳。//この頃、越後守護上杉定実の実家上条城(柏崎市)城主上条定憲が謙信(虎千代)の父長尾為景に敵対する豪族たちを結集し、各地で長尾為景と交戦中。  享禄3年(1530)2月5日、室町将軍足利義晴が、長尾為景(後の上杉謙信の父)と晴景(後の上杉謙信の兄)に小袖を贈る。//為景・晴景父子は幕府に返礼物を献上。  享禄3年6月29日、細川高国が、浦上村宗の援助を受けて播磨で挙兵。//細川晴元と和して京に戻っていた柳本賢治が高国を討伐すべく出陣するも、高国は三木城に賢治を誘いだして殺す。  享禄3年、柳本賢治が細川高国に播磨三木城で殺害される。  享禄3年7月14日、下間頼秀・頼盛兄弟の専横を見た叔父の頼慶の息子達を初めとする下間一族が、加賀三カ寺の穏健策に与し、両者の確執が表面化。  享禄3年8月下旬、細川高国と浦上村宗が、摂津神呪寺(西宮市神呪町)に陣を張る。  享禄3年9月、細川高国と浦上村宗が、摂津富松(尼崎市東富松)に陣を張る。  享禄3年9月28日、室町将軍足利義晴が、長尾為景(後の上杉謙信の父)の室に唐織物を贈る。  享禄3年10月25日、京六角堂の執行僧である池坊専応が宮中に召されて花を立てる。//立花と呼ばれ、後の生け花に転じていく。  享禄3年11月、細川高国が、11月に大物(ダイモツ)城(尼崎市大物町)を落した。  享禄3年(1530)11月6日、上条城主(柏崎市黒滝)上条憲定が長尾為景(上杉謙信の実父)打倒を旗印に挙兵。 享禄3年11月6日、長尾為景は越後柏崎に陣を張り、蘆名盛氏の臣山内舜通に諸城を送る。  享禄3年12月7日、越後本庄城城主本庄房長が、起請文を色部憲長に提出し、長尾為景に背かないことを誓う。

砂肝の唐揚げ

スーパーで砂肝が二割引きになっていたので、酒の肴に唐揚げにしてみました。 【用意したもの】 ・砂肝:200gくらい ・片栗粉:適量 【レベル】 ・準備:★★★☆☆(砂肝をスライスする時間でーす(^^)/) ・時間:★★★☆☆(砂肝スライスと揚げる時間でーす(^^)/) ・技術:★★☆☆☆(切って、味を付けて、混ぜて、揚げるだけなので、揚げ物さえ嫌でなければ、特段の技術は不要でーす(^^)/) 【作り方】 ・砂肝は厚さ5mm程度にスライスしておきます。(味付けの観点、火の通りの観点から厚さ5mmくらいがちょうどよいと思っています。) ・スライスした砂肝に塩コショウをして混ぜます。(多すぎかなぁと思うくらいが適量だと思います。) ・味付けした砂肝に片栗粉をまぶして、順次160-170℃くらいの油で揚げていきます。(混ぜすぎると片栗粉が固まってふんわりと仕上がりません。適度にスライスしていますので、すぐに揚がります。 こんがりと揚がれば、出来上がりです。 拙者は軟骨の唐揚げよりも、砂肝の唐揚げが大好きです。これは好みの問題かもしれません とっても簡単に出来ますので、是非ともお試しあれ(⌒▽⌒) 美味しいですよ(^^) でも、写真を取り忘れちゃった。

950(1929)_==享禄2年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  享禄2年(1529)1月、細川高国が伊勢へ逃れる。//この後、各地の守護大名を頼り越前や出雲に逃れていく。  享禄2年3月、足利義晴が近江衆の後援を受けて、一時的に京に迫る。//河内守護代木沢長政は不意を突かれて、逃亡し、そのまま失踪したが、長政が山科本願寺に逃げ込んだという風聞。  享禄2年、下間頼秀・頼盛兄弟(浄土真宗)が加賀へ下向。//加賀三カ寺(浄土真宗)に本山の意向を伝えるが、三カ寺は蓮如や実如の遺訓に背くとして同意せず。  享禄2年7月中旬、願得寺(浄土真宗)の実悟が加賀から信濃長沼の浄興寺(長野市大町付近)へ出かけ、親鸞の遺骨と存如が書写した「安心決定鈔」(アンジンケツジョウショウ)を受け継ぐ。  享禄2年8月10日、三好元長が細川晴元と仲違して阿波に帰国。//16歳となった細川晴元が、三好元長の言うことをきかなくなってきて不和になり始めた。  享禄2年9月、細川高国が、京を逃れて各地を流れた末、備前の浦上村宗(もともとは播磨守護代)に助けを乞う。  享禄2年9月、応真(浄土真宗)を専修寺住持とする後奈良天皇の綸旨が出る。  享禄2年10月、京の法華宗の僧徒多数が、武装して幕府に背き、市中に騒擾を起こしたとして、打ち首となる。  享禄2年12月18日夜、蓮悟は、蓮如から御文を下される夢を見る。//梅干しの例えが書かれていたとされる。

950(1928)_==享禄1年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  大永8年(1528)1月、細川高国と細川晴元方の家宰三好元長が京で睨みあったまま越年し、和談を図る。  大永8年(1528)3月、細川高国と細川晴元方の家宰三好元長の間で和談を進めていたが、敗れる。  大永8年(1528)3月、下間兼頼(浄土真宗)が逝去//下間頼玄の従弟で一族の有力者であったが、その死により頼玄の子頼秀らが好き放題となる。  大永8年、蓮淳(本願寺)の意を受けた下間頼秀が加賀に下り、宗主証如の名をかざし、加賀三カ寺に干渉して、本山の直接支配を進めようとする。//これに対して、超勝寺の実顕や本覚寺の蓮恵らが勢力拡大に乗り出し、門徒に名目だけ土地を寺へ寄進させ、年貢を領主に納めないという策に出る。これを知った領主は加賀三カ寺に苦情を寄せ、三カ寺は本山に訴えたが、下間頼秀が三カ寺の訴えを握りつぶし、三カ寺は本山に違背したとみなされる。  大永8年5月14日、細川高国が近江に逃亡。//これに続き、高国が擁する将軍足利義晴も近江坂本に移る。  享禄1年(1528)8月20日、大永から享禄に改元。  享禄1年(1528)9月5日、本願寺証如が九条尚経(ヒサツネ)の猶子となる。当時証如は13歳。//九条家は五摂家の1つで尚経は前関白。本願寺から摂関家の猶子になった事例はなく、後奈良天皇や前内大臣三条西実隆らは賛成しなかったが、蓮淳が経済力にものを言わせて実現させた。//九条家の表向きの謝礼だけで、柳樽10荷、折り10合、太刀代3000疋。//本願寺の世間での地位は高まり、九条家と親密になる。  享禄1年9月8日、足利義晴が朽木谷(滋賀県高島郡朽木村野尻)に逃れる。  享禄1年11月、細川高国が近江から伊賀に逃れる。  享禄1年12月、柳本賢治が入京を試み、三好元長勢に敗れ、河内や大和を転々とする。

950(1988)_==天正16年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正16年(1588)、豊臣秀吉、聚楽第造営。  天正16年(1588)、宗義調(よししげ)、死去。義智、宗氏を継ぐ。  天正16年、豊臣秀吉、宗義調(よししげ)に朝鮮との通信の再開を命じ、義智、朝鮮に赴く。//朝鮮は日本との国交を望まず、交渉は不調に終わる。朝鮮は、義智に和冦の盗賊の引き渡しを要求、義智、これを行うも、朝鮮は返使を日本に赴かさず。  天正16年(1588)4月14日、豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招く。//辻々の警備、六千人。天子は聚楽第に四泊。  天正16年4月16日、聚楽第行幸に伴い和歌の会を開催。//出席者;豊臣秀吉、織田信雄(内大臣)、徳川家康(大納言)、豊臣秀長(大納言)、宇喜多秀家(参議)、三好秀次(近江中納言)  天正16年4月20日、上杉景勝が上洛。//新発田城城主新発田重家討伐を完了し、越後を平定したことを機に上洛した?  天正16年5月8日、上杉景勝が、豊臣秀吉に拝謁。新発田重家討伐を報告。  天正16年5月26日、上杉景勝が、従三位参議に叙任された御礼のため、参内し、後陽成天皇から天盃を下賜。  天正16年6月15日、豊臣秀吉が、上杉景勝に、在京の賄料として近江国蒲生・野洲・高嶋三郡の中から1万石を宛行う。

新歌舞伎座

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東京に出張! 目的地は銀座! 台風の影響か、風が強く、羽田着陸時に飛行機がかなり揺動! 東京は曇天! 風が強く涼しいが、湿度が高く感じられ、清涼感はなし! 帰りに新歌舞伎座を発見! なかなか銀座に来ることがないので、初見参! もっと閑静な場所にあるイメージがあったが…。 自動車の往来は激しい。 新歌舞伎座の周囲は高層ビルばかり。 感想としては、へぇーこんな感じなんだ。 まあ、京都の南座が四条通りに面した街中にあることを考えれば、新歌舞伎座がこういう往来の多い場所にあるのも、色々な意味で頷けるような気はしますなぁ。 出張ですので、もちろん新歌舞伎座の中にはお邪魔していません。

ざるラーメン ゴマだれ風味

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ある日曜日の昼御飯。 冷麺のようなものを購入済みでしたので、計画通り、冷麺です。 ちなみに、マルチャンのざるラーメン 焙煎ごまだれいう商品です! これに幾つかのトッピングを載せました。 【レベル】 ・時間:★★☆☆☆ ・準備:★★☆☆☆ ・技術:★☆☆☆☆ 【用意した物(3-4人分)】 ・マルチャン ざるラーメン(二人前):2袋 ・玉子:3個 ・ベーコン:3枚(冷蔵庫に残っていた分) ・きゅうり:1本 【作り方】 ・キュウリは千切りにします。 ・玉子は錦糸玉子にします。 ・ベーコンは千切りにして、炒めておきます。 ・麺は袋に書かれているとおりに茹でて、冷やしすのもかねて洗います。 あとは大きなお皿に麺を入れ、キュウリ、錦糸玉子、ベーコンをトッピングして、完成(^^)/ あとはもともと付いている焙煎ゴマだれで食します。 特段の技術はいらない既製品のラーメンの一工夫です。

愛媛県四国中央市新宮町は霧の森

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旧愛媛県新宮村、現在の愛媛県四国中央市新宮町にある道の駅霧の森を訪問しました。 高知自動車道の新宮ICから約800mと交通事情は頗る良好です。 目的は新宮の道の駅霧の森の大名物「霧の森大福」をゲットすることです。 新宮ICに到着したのは10:40過ぎでした。ネットやブログでは、「開店時間の10:00には行列ができていて、遅くとも11:00には到着しておくことが望ましい。」といった報告が見受けられましたので、かなり焦りました。 10:50頃には道の駅霧の森に到着しました。駐車場にはまずまずの台数の自動車が停まっていました。そこから馬立川の歩道橋を渡り、道の駅霧の森へ参ります。 道の駅霧の森には、今回のお目当ての霧の森大福関係売店と茶フェという名称のカフェ、広場、さらには温泉などがございました。 道の駅霧の森の敷地はかなり広く、全体として人影は疎らに感じました。 しかしながら、売店の入り口では続々とお客さんが入ってきて、大福が売り切れるのではないかと感じました。 10:50くらいの段階では、とりあえず欲しいと思っていた数量の霧の森大福を購入することができました(^-^)v よかったー! 霧の森大福を購入後、道の駅霧の森内を散策。 お茶のミュージアムで少しお勉強。 昔この辺で作っていたお茶は発酵させるみたいで、宇治茶や八女茶と違い、烏龍茶に近い香りがいたしました。 今は普通の緑茶を作っているようです。 その後は、「茶フェ」という名前のカフェでお茶します。わたしは季節限定の「冷茶 極上かりがね(400円)」を注文です(^^) 心地よい緑茶の苦味とすっきりとした後味が、暑い夏には最高でーす(^^)/ あと、スイーツ類も充実していました。「チャーズケーキ」や抹茶・焙じ茶アイス、お茶プリンなどバリエーション豊富! 女子には最高でしょう! 道の駅霧の森にはこのほかにもレストランや川遊び場、温泉などの施設がありました。レストランはには、茶蕎麦や猪肉の丼などのメニューがありました。本日は行けませんでしたが、また次回にはチャレンジしたいと思いまーす。 さらに、…。 色々と周辺施設を調べていると、霧の森の近くにはキャンプ場もあるみたいです。 道の駅霧の森がとても綺麗に掃除されているので、少し離れていますが、

950(1987)_==天正15年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正15年(1587)??月、豊臣秀吉が九州島津氏征伐のために西国へ下向。  天正15年(1587) ??月、亀井茲矩、豊臣秀吉の島津攻めに従軍。  天正15年(1587)3月18日、豊臣秀吉が、九州出陣の途次に厳島に詣で、安国寺恵瓊に厳島に大経堂の建立を命じる。  天正15年??月、宗義調(よししげ)、西国征伐の秀吉の陣に馳せ参じる。  天正15年4月、上杉景勝が、天正9年に織田信長に内通して背いた、新発田城(新発田市大手町)城主新発田重家討伐に向かう//落城せず。  天正15年5月8日、薩摩島津氏が豊臣秀吉に降伏する。  天正15年5月、吉川元長が、九州の役、日向の陣中において、父元春と同じ悪性の腫物を患い、倒れる。(島津氏の降伏と相前後)  天正15年6月15日、吉川元長が九州の役の途中、日向都於都で病没。享年四十歳で臥せっていたが、逝去。吉川家は弟の広家が名跡を継ぐ。p  天正15年6月、小早川隆景が伊予に代えて、筑前一国、肥前二郡、筑後二郡を与えられる。  天正15年??月、小早川隆景の養子元総は名を秀包と改め、久留米城主となる。  天正15年??月、吉川経言は兄元長の家督を継ぎ、名を広家と改める。元長の生前、豊臣秀吉は筑前一国を元長にとの意向だったが、元長の死により吉川家への恩賞は沙汰やみとなる。  天正15年6月、安国寺恵瓊が伊予和気郡に加え、小早川隆景の領国のうち三千石を与えられる。  天正15年8月、肥後一揆発生。  天正15年8月、上杉景勝が、大軍を率いて、新発田城(新発田市大手町:城主新発田重家)攻略に向かう。  天正15年9月7日、上杉景勝が、新発田重家方の属城、加治城(新発田市宮内)を攻略。  天正15年9月14日、上杉景勝が、小田切三河守盛昭の守る赤谷城(新発田市上赤谷)を攻略。  天正15年10月23日、上杉景勝が、五十公野道如斎の守る五重公野城(新発田市五十公野)を攻略。  天正15年10月24日、上杉景勝が、新発田城の本格的な攻撃を開始。  天正15年

磁場の井戸:第三章 水牢(三)/長編歴史小説

 宗治は寝室の前の縁側に座っていた。彼の視線は庭の隅の苔に向けられていた。既に闇が高松城を覆っている。その暗い庭の片隅、苔生した石のすぐ側に、気配なく深更の闇の中に溶け込んだ小さな男が跪いていた。 「秀吉は、原古才の辺りでしきりと足守川を堰き止めている様子でございます。また、殿も御覧になられているかと存じますが、足守川の流れに沿って延々と堤を普請しております。」 原古才は城の西、高松城の北側を包む山塊が野に隠れる辺りにある集落で、その在所は城からは尾根の裏側にあたり、望見することはできない。  七郎次郎は、宗治の手にある燭にうっすらと照らし出された顔を、心持ち上げた。手燭の炎が初夏にしては乾いた風に揺られ、七郎次郎の顔の陰影が微かに変化した。風がやむのを待ち、再び七郎次郎は話し始めた。 「秀吉は足守川沿いに西は原古才から、東は蛙ヶ鼻まで堤を築き、原古才で堰き止めた足守川の水を高松城に引き込み、城の周囲を水浸しにする策のようでございます。」 蛙ヶ鼻は、城の東方、これも城の北側の山塊が野に果てる尾根にあたる。原古才から蛙ヶ鼻までは一里、もしできたとすれば遠大な人工の塘坡が城の周囲に出現することになる。 (そんなことが人間にできるのか。) 数年に一度、足守川の氾濫に悩まされるとはいえ、それは空が多量の雨をもたらした時のみの話であった。 「そんなことが人間の手でできると思うか。」 宗治は闇の中に再び問いかけた。その問いは、七郎次郎に発せられると同時に、自らの経験と戦に対する勘への問いかけだった。 「神仏のみぞ、知るものかと…。」 七郎次郎の返事は歯切れの悪いものだった。二人の心中に秀吉の纏う光彩が蘇り、 (ひょっとすると。) という感情が言葉を失わせていた。  数日後、堤は地上から二間、築堤に励む人々を見下ろすほどに成長していた。築堤現場に続く道筋には、荷車や自分の背に如何にも重たげな袋を携えた百姓や町人と思しき老若男女が行列を作っていた。  城方は成す術もなく、織田勢の築堤を眺めていた。城兵の誰しもが、 (この高松城とその城下を湖底に沈めることなど、人間の力でできるわけがない。) と思った。宗治の考えも、無論、他の城兵たちと同じだった。ただ、心の中に広がる言葉には言い表しがたい茫漠とした不安を抑えかね、念のため、高松城下の紺屋から紺板を集

950(1986)_==天正14年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正14年(1586)、日本国使橘康広、その国王秀吉の書を持ちて、来る。//懲毖録にあり。康広は宗氏の家臣柚谷康広で帰国後、朝鮮が秀吉の書にある約定を無視したことから、秀吉に殺される。  天正14年(1586)6月、島津義久が羽柴秀吉の最後通告を無視し、豊後大友領に侵入。  天正14年(1586)6月25日、九州の役開戦。黒田孝高と安国寺恵瓊が検使となる。  天正14年(1586)、吉川元春、元長父子が九州の役に出陣。  天正14年8月、羽柴秀吉が越中国の佐々成政攻略を開始。  天正14年8月、上杉景勝が、天正9年に織田信長に内通して背いた、新発田城(新発田市大手町)城主新発田重家討伐に向かう//落城せず。  天正14年8月25日、佐々成政は剃髪し、降伏する。  天正14年(1586)9月9日、羽柴秀吉が豊臣姓を賜る。  天正14年(1586)10月、安国寺恵瓊が九州の役に出陣。  天正14年、長宗我部元親の軍勢が戸次川で島津勢と衝突。  天正14年冬、吉川元春が悪性の腫物を患い、九州の役の陣中の小倉城で逝去。  天正14年、戸次川の戦いで長宗我部元親らが率いる四国勢が惨敗。  天正14年12月25日、豊臣秀吉が太政大臣に就任。

公園に突如としてヘリコプターが…

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本日午後3時頃、峰山公園付近を通っていると、ヘリコプター特有の風切り音が…。 峰山公園の真ん丸い広場に、突如、ヘリコプターが着陸。 ヘリコプターの周囲には一般の人が近付かないようにレスキュー隊が何人か立っていました。 公園で遊んでいた人は真ん丸広場の外の方でヘリコプターを眺めています。 ヘリコプターが着陸すると、中からこれまたレスキュー隊! そうこうしていると、次は公園の入り口の方からヘリコプターに近付く救急隊員! 訓練にしては、一般人への安全対策が中途半端な気もするし、かといって、重病人や大怪我人がいるなら、峰山公園にヘリコプターでくるよりも、救急車で直接、市民病院や中央病院に運んだ方が速いような気がします。 ということで、至った結論は山間部、あるいは、島嶼部の重篤患者を搬送してきたドクターヘリか? しかし、ドクターヘリなら、県庁のヘリポートに降りた方が効率がよいような気もしたりします。 関係者の方、もし、差し支えなければ、教えて下さい。

文化の香り高き至高のアプリーe国宝 by 国立博物館

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この貴重なアプリを作ろうと考えられた国立の博物館の先生あるいは学芸員の方々にただただ平身低頭です。  拙者のような素人は、国がどのような国宝・文化財を所蔵・保有されているのか知る由もありません。  しかしながら、国立の博物館には、我々があずかり知らないような銘品の数々が保管されているのですね。  各宝物の価値は理解できませんが、昔、興味があって色々と調べていた刀剣類は非常に興味をもって見せていただきました。  また、絵画、書籍、彫刻など広い分野の国宝が整理されていて、勉強になります。  さらに、スマホでスクリーンショットを使えば、国宝を壁紙にすることができるのではないかと…。  著作権の関係があるかもしれないので、国宝そのものの画像は掲載しませんが、アプリの画面は添付写真の感じでーす。

950(1554)_==天文23年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文23年(1554)初頃?、石見津和野三3本松城主吉見正頼(おそらく大内方)が陶晴賢討伐のため挙兵。⇒大内氏重臣陶晴賢がこれを討伐するため出陣。  天文23年(1554)2月12日、室町第13代将軍・足利義藤が義輝に改名。近江朽木で流遇中。  天文23年(1554)5月、毛利元就が陶晴賢討滅のため挙兵>このとき陶晴賢は石見三3本松城主吉見正頼を攻めていた。  天文23年(1554)9月、毛利元就が安芸桜尾城の西方折敷畑で陶方の勇将宮川房長を殲滅。  天文23年(1554)11月1日、尼子国久ほか尼子新宮党が、毛利元就の謀略により、尼子晴久によって誅殺される>尼子氏では毎年11月1日に次年のことを評議するため一門衆、家老衆が富田城に集まることになっており、尼子国久も登城したが、その帰途、尼子晴久の命を受けた大西1兵衛、本田豊前守がこれを襲う。ここで嫡男誠久も討ち取られる。⇒その他は新宮谷に帰り、籠城。  天文23年11月2日、出雲尼子氏内紛で尼子晴久側の富田勢が新宮谷に押し寄せたが、半数以上を討ち取られるが、夜中になって新宮党は全滅。⇒誠久の四or五男孫四郎が乳母の懐に抱かれて新宮谷を落ち、備後の徳分寺を頼り、成人の後出家して上洛し、東福寺の小僧となる。これが尼子勝久と伝えられる。>>尼子新宮党の滅亡の異説として、尼子誠久が普段から武功を誇り、尼子将士の反感を買っていたことや、尼子国久が誠久の弟与四郎を偏愛するあまり誠久の嫡男に伝えた領地を与四郎に与えようとしたため、憤った誠久の嫡男が尼子晴久に国久謀反のことを讒言したとの説もあり。  天文23年、新宮党尼子国久(経久の次男)とその子誠久、敬久が毛利元就の謀略により、尼子当主晴久により誅される。  天文23年12月、北条城(柏崎市北条)城主北条高広が、武田氏の誘いに乗って、長尾景虎に謀反する。  天文23年12月5日、武田氏家臣甘利昌忠と長尾景虎に謀反した北条高広が春日山城攻略の謀議を行う。

950(1553)_==天文22年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文22年(1553)、室町第13代将軍・足利義藤(のち改名して義輝)が細川晴元と協力して三好長慶との戦いを開始。その後敗れて近江朽木に逃れ、以降5年間を近江朽木で過ごす。  天文22年(1553)1月1日、杵築大社法楽の連歌会が催され、宗養が「八8雲にもけふ九重の霞かな」と発句。  天文22年(1553)2月10日、長尾晴景(上杉謙信の実兄)が病死。享年45歳と伝えられる。法名千厳院殿華獄光栄。//長尾景虎(のちの上杉謙信)が越後の大名となる。  天文22年(1553)春頃、大内家重臣陶隆房が、当主大内晴英の1字をもらい陶晴賢と改名。  天文22年(1553)4月、尼子晴久が備後の失地回復を目的として、出雲仁多郡横田に出陣、先方は甲山に到着。⇒備後比叡尾山城主の三吉氏が毛利元就に援軍を依頼。<<尼子晴久は備後甲山城主山内隆通や川西旗返城主江田隆連らが尼子方に味方したことを契機に備後出陣。  天文22年(1553)4月9日、武田信玄が、葛尾(カツラオ)城(埴科郡板城町)を落とす。//同年8月5日、城主村上義清は越後に逃れる。  天文22年4月20日、長尾景虎が、延暦寺座主二品堯尊(ニホンギョウソン)親王からの依頼で、山門大講堂造営費として黄金200枚を寄進。  天文22年4月22日、上杉軍と武田軍が八幡(更埴市)で合戦//長尾景虎や武田晴信が出陣したか否かは不明。  天文22年5月、長尾景虎が、天文21年4月の従五位下弾正少弼叙任の御礼に、金余(カナマリ)親綱を上洛させ、朝廷へ剣、黄金、巻絹を、将軍義輝へ長光の太刀一腰、河原毛の馬1疋、青銅3000疋(30貫)、大鷹1本を、将軍夫人へ樽代500疋を贈る。同時に、大館晴光に太刀一腰、鳥目500疋、大鷹1本、大覚寺義俊に青銅1000疋、渡辺盛綱・神崎光勝・富森信盛らにもそれぞれ鳥目200疋を贈り、斡旋の労を謝した。  天文22年(1553)5月21日、尼子晴久、備後比婆郡口和町泉山城を攻撃するも、毛利勢破れ、甲山に退却。⇒この後、旗返の

磁場の井戸:第三章 水牢(二)/長編歴史小説

 高松城の南、穏やかなせせらぎを為しながら滞ることなく流下する足守川に沿うように、無数の影が蠢いていた。例年になく雨が少ないせいか、人々の動きにより砂埃が巻き上げられ、高松城からは群の周囲が薄い黄色の膜に包み込まれているように望見された。遠目からは、薄い膜の向こうで動く大勢の人間が蟻列のようにも見えた。その蟻たちは、皆、白い蜜を抱え、整然と一方向に向かって歩んでいる。蜜は土俵だった。今、この蟻列を為す人々にとって、土俵は銭と米に化ける甘い蜜そのものだった。  当初、秀吉の触れに、近隣の百姓達は騙し討ちにあうことを恐れ、容易に土俵を届けようとはしなかった。しかし、中には欲に目が眩む者もあり、道端の土を俵に詰めて織田勢の陣に持ち込む者が出た。そして、その者は命を失うことなく、しかも約束通りの相応の銭と米とを荷車に乗せ、満面の笑みを浮かべながら在所まで戻ってきた。これでも、疑う者がいたが、何度土俵を持ち込んでも、秀吉がこれを銭と米に兌換することがわかると、百姓から商人、果ては漂白の聖などに至るまでが、地に這い蹲り、せっせと土を掻き集めては俵の中に詰め込んだ。織田勢の陣には大量の土嚢が殺到したが、それでも秀吉は約束を違えることなく、触れ通りに代価を支払った。  この噂が瞬く間に街道筋を走り、備中はおろか備前、美作、果ては播州から、俵に土を詰めた百姓、商人達が秀吉の陣に殺到した。 (頃合いも良し。)  大量の土嚢が自らの陣に集積するのを確かめた後、秀吉は構想の具現化に着手した。着工は五月八日。土俵を買い上げるという触れを出してから五日、足守川沿いは土俵を携えた人々で溢れかえり、緒に就いたばかりの普請場は恐ろしいばかりの活況を呈した。  高松城からそれを遠望している城兵たちは、黄色く霞む足守川を眺めながら、顔を見合わせて言い合った。 「奴らは何をしているのか。」 (城を攻めるため、そして、身を守るための甲殻としてはあまりにも大規模すぎる。) と城兵たちでさえ感じていた。 (何を考えているのか。) 宗治は舞い上がる土埃を見つめながら、秀吉の策の一部だけでも想像しようとしたが、彼の常識的思考の範疇では、それを窺い知ることはできなかった。

回鍋肉風野菜炒め

先週の日曜日に、弁当のおかずにもなりそうなものということと豚肉の細切れがお安いということで、少し趣向を変えて回鍋肉風の野菜炒めを作ってみました。 【レベル】 レベル的には標準です。難しくはありません。 ・準備:★★★☆☆ ・時間:★★★☆☆ ・技術:★★★☆☆ 【材料】(5〜6人分くらい) ・豚肉細切れ、または、切落とし:1000kg ・キャベツ:1玉 ・玉ねぎ:1〜2玉 ・ピーマン:3〜4個 ・味噌:大さじ5杯くらい (本式ならテンメンジャンですが、そこまではこだわりません。拙者は普通の日本味噌を使います。) ・醤油:大さじ5杯くらい ・日本酒:大さじ5杯くらい ・砂糖:大さじ5杯くらい 【作り方】 段取りは、基本的に材料を切って、炒めるだけです! ・キャベツは2cm角くらいにざく切りにします。 ・玉ねぎ、ピーマンは細切りにします。 ・フライパンに油を適量敷いて熱し、豚肉を炒めます。少々塩コショウをします。我が家では中華鍋形のフライパンを使っているので、大量のお肉もまずまず簡単に炒めることができます。また、大量の材料を炒めるとき、拙者は、小まめに混ぜてもなかなか火が通らないので、中火にした上でフライパンに蓋をしてそのまま少し置き、熱を通して、焦げない程度、時間が経ったら、混ぜるという行為を繰り返すようにしています。 ・豚肉に火を通している間に、大きめの器に調味料を入れて、混ぜ合わしてよく溶かしておきます。 ・豚肉に火が通ったら、玉ねぎ、ピーマン、キャベツをフライパンに入れ、火が通るまで炒めます。 ・お野菜に火が通ったら、合わせ調味料をフライパンに入れて、よくかき混ぜます。 ※日本味噌を使うと、中華風の回鍋肉という訳にはいきませんが、日本味噌は日本味噌でなかなか美味しい味噌炒めに仕上がります。 ※豚肉からたくさん出てきますから、カロリーは相当高いかも。育ち盛りの子供達には最適ですね。