磁場の井戸:第三章 水牢(二)/長編歴史小説

 高松城の南、穏やかなせせらぎを為しながら滞ることなく流下する足守川に沿うように、無数の影が蠢いていた。例年になく雨が少ないせいか、人々の動きにより砂埃が巻き上げられ、高松城からは群の周囲が薄い黄色の膜に包み込まれているように望見された。遠目からは、薄い膜の向こうで動く大勢の人間が蟻列のようにも見えた。その蟻たちは、皆、白い蜜を抱え、整然と一方向に向かって歩んでいる。蜜は土俵だった。今、この蟻列を為す人々にとって、土俵は銭と米に化ける甘い蜜そのものだった。
 当初、秀吉の触れに、近隣の百姓達は騙し討ちにあうことを恐れ、容易に土俵を届けようとはしなかった。しかし、中には欲に目が眩む者もあり、道端の土を俵に詰めて織田勢の陣に持ち込む者が出た。そして、その者は命を失うことなく、しかも約束通りの相応の銭と米とを荷車に乗せ、満面の笑みを浮かべながら在所まで戻ってきた。これでも、疑う者がいたが、何度土俵を持ち込んでも、秀吉がこれを銭と米に兌換することがわかると、百姓から商人、果ては漂白の聖などに至るまでが、地に這い蹲り、せっせと土を掻き集めては俵の中に詰め込んだ。織田勢の陣には大量の土嚢が殺到したが、それでも秀吉は約束を違えることなく、触れ通りに代価を支払った。
 この噂が瞬く間に街道筋を走り、備中はおろか備前、美作、果ては播州から、俵に土を詰めた百姓、商人達が秀吉の陣に殺到した。
(頃合いも良し。)
 大量の土嚢が自らの陣に集積するのを確かめた後、秀吉は構想の具現化に着手した。着工は五月八日。土俵を買い上げるという触れを出してから五日、足守川沿いは土俵を携えた人々で溢れかえり、緒に就いたばかりの普請場は恐ろしいばかりの活況を呈した。
 高松城からそれを遠望している城兵たちは、黄色く霞む足守川を眺めながら、顔を見合わせて言い合った。
「奴らは何をしているのか。」
(城を攻めるため、そして、身を守るための甲殻としてはあまりにも大規模すぎる。)
と城兵たちでさえ感じていた。
(何を考えているのか。)
宗治は舞い上がる土埃を見つめながら、秀吉の策の一部だけでも想像しようとしたが、彼の常識的思考の範疇では、それを窺い知ることはできなかった。

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