>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
享禄2年(1529)1月、細川高国が伊勢へ逃れる。//この後、各地の守護大名を頼り越前や出雲に逃れていく。
享禄2年3月、足利義晴が近江衆の後援を受けて、一時的に京に迫る。//河内守護代木沢長政は不意を突かれて、逃亡し、そのまま失踪したが、長政が山科本願寺に逃げ込んだという風聞。
享禄2年、下間頼秀・頼盛兄弟(浄土真宗)が加賀へ下向。//加賀三カ寺(浄土真宗)に本山の意向を伝えるが、三カ寺は蓮如や実如の遺訓に背くとして同意せず。
享禄2年7月中旬、願得寺(浄土真宗)の実悟が加賀から信濃長沼の浄興寺(長野市大町付近)へ出かけ、親鸞の遺骨と存如が書写した「安心決定鈔」(アンジンケツジョウショウ)を受け継ぐ。
享禄2年8月10日、三好元長が細川晴元と仲違して阿波に帰国。//16歳となった細川晴元が、三好元長の言うことをきかなくなってきて不和になり始めた。
享禄2年9月、細川高国が、京を逃れて各地を流れた末、備前の浦上村宗(もともとは播磨守護代)に助けを乞う。
享禄2年9月、応真(浄土真宗)を専修寺住持とする後奈良天皇の綸旨が出る。
享禄2年10月、京の法華宗の僧徒多数が、武装して幕府に背き、市中に騒擾を起こしたとして、打ち首となる。
享禄2年12月18日夜、蓮悟は、蓮如から御文を下される夢を見る。//梅干しの例えが書かれていたとされる。
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
享禄2年(1529)1月、細川高国が伊勢へ逃れる。//この後、各地の守護大名を頼り越前や出雲に逃れていく。
享禄2年3月、足利義晴が近江衆の後援を受けて、一時的に京に迫る。//河内守護代木沢長政は不意を突かれて、逃亡し、そのまま失踪したが、長政が山科本願寺に逃げ込んだという風聞。
享禄2年、下間頼秀・頼盛兄弟(浄土真宗)が加賀へ下向。//加賀三カ寺(浄土真宗)に本山の意向を伝えるが、三カ寺は蓮如や実如の遺訓に背くとして同意せず。
享禄2年7月中旬、願得寺(浄土真宗)の実悟が加賀から信濃長沼の浄興寺(長野市大町付近)へ出かけ、親鸞の遺骨と存如が書写した「安心決定鈔」(アンジンケツジョウショウ)を受け継ぐ。
享禄2年8月10日、三好元長が細川晴元と仲違して阿波に帰国。//16歳となった細川晴元が、三好元長の言うことをきかなくなってきて不和になり始めた。
享禄2年9月、細川高国が、京を逃れて各地を流れた末、備前の浦上村宗(もともとは播磨守護代)に助けを乞う。
享禄2年9月、応真(浄土真宗)を専修寺住持とする後奈良天皇の綸旨が出る。
享禄2年10月、京の法華宗の僧徒多数が、武装して幕府に背き、市中に騒擾を起こしたとして、打ち首となる。
享禄2年12月18日夜、蓮悟は、蓮如から御文を下される夢を見る。//梅干しの例えが書かれていたとされる。
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