>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
天正16年(1588)、豊臣秀吉、聚楽第造営。
天正16年(1588)、宗義調(よししげ)、死去。義智、宗氏を継ぐ。
天正16年、豊臣秀吉、宗義調(よししげ)に朝鮮との通信の再開を命じ、義智、朝鮮に赴く。//朝鮮は日本との国交を望まず、交渉は不調に終わる。朝鮮は、義智に和冦の盗賊の引き渡しを要求、義智、これを行うも、朝鮮は返使を日本に赴かさず。
天正16年(1588)4月14日、豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招く。//辻々の警備、六千人。天子は聚楽第に四泊。
天正16年4月16日、聚楽第行幸に伴い和歌の会を開催。//出席者;豊臣秀吉、織田信雄(内大臣)、徳川家康(大納言)、豊臣秀長(大納言)、宇喜多秀家(参議)、三好秀次(近江中納言)
天正16年4月20日、上杉景勝が上洛。//新発田城城主新発田重家討伐を完了し、越後を平定したことを機に上洛した?
天正16年5月8日、上杉景勝が、豊臣秀吉に拝謁。新発田重家討伐を報告。
天正16年5月26日、上杉景勝が、従三位参議に叙任された御礼のため、参内し、後陽成天皇から天盃を下賜。
天正16年6月15日、豊臣秀吉が、上杉景勝に、在京の賄料として近江国蒲生・野洲・高嶋三郡の中から1万石を宛行う。
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天正16年(1588)、豊臣秀吉、聚楽第造営。
天正16年(1588)、宗義調(よししげ)、死去。義智、宗氏を継ぐ。
天正16年、豊臣秀吉、宗義調(よししげ)に朝鮮との通信の再開を命じ、義智、朝鮮に赴く。//朝鮮は日本との国交を望まず、交渉は不調に終わる。朝鮮は、義智に和冦の盗賊の引き渡しを要求、義智、これを行うも、朝鮮は返使を日本に赴かさず。
天正16年(1588)4月14日、豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招く。//辻々の警備、六千人。天子は聚楽第に四泊。
天正16年4月16日、聚楽第行幸に伴い和歌の会を開催。//出席者;豊臣秀吉、織田信雄(内大臣)、徳川家康(大納言)、豊臣秀長(大納言)、宇喜多秀家(参議)、三好秀次(近江中納言)
天正16年4月20日、上杉景勝が上洛。//新発田城城主新発田重家討伐を完了し、越後を平定したことを機に上洛した?
天正16年5月8日、上杉景勝が、豊臣秀吉に拝謁。新発田重家討伐を報告。
天正16年5月26日、上杉景勝が、従三位参議に叙任された御礼のため、参内し、後陽成天皇から天盃を下賜。
天正16年6月15日、豊臣秀吉が、上杉景勝に、在京の賄料として近江国蒲生・野洲・高嶋三郡の中から1万石を宛行う。
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