950(1928)_==享禄1年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 大永8年(1528)1月、細川高国と細川晴元方の家宰三好元長が京で睨みあったまま越年し、和談を図る。
 大永8年(1528)3月、細川高国と細川晴元方の家宰三好元長の間で和談を進めていたが、敗れる。
 大永8年(1528)3月、下間兼頼(浄土真宗)が逝去//下間頼玄の従弟で一族の有力者であったが、その死により頼玄の子頼秀らが好き放題となる。
 大永8年、蓮淳(本願寺)の意を受けた下間頼秀が加賀に下り、宗主証如の名をかざし、加賀三カ寺に干渉して、本山の直接支配を進めようとする。//これに対して、超勝寺の実顕や本覚寺の蓮恵らが勢力拡大に乗り出し、門徒に名目だけ土地を寺へ寄進させ、年貢を領主に納めないという策に出る。これを知った領主は加賀三カ寺に苦情を寄せ、三カ寺は本山に訴えたが、下間頼秀が三カ寺の訴えを握りつぶし、三カ寺は本山に違背したとみなされる。
 大永8年5月14日、細川高国が近江に逃亡。//これに続き、高国が擁する将軍足利義晴も近江坂本に移る。
 享禄1年(1528)8月20日、大永から享禄に改元。
 享禄1年(1528)9月5日、本願寺証如が九条尚経(ヒサツネ)の猶子となる。当時証如は13歳。//九条家は五摂家の1つで尚経は前関白。本願寺から摂関家の猶子になった事例はなく、後奈良天皇や前内大臣三条西実隆らは賛成しなかったが、蓮淳が経済力にものを言わせて実現させた。//九条家の表向きの謝礼だけで、柳樽10荷、折り10合、太刀代3000疋。//本願寺の世間での地位は高まり、九条家と親密になる。
 享禄1年9月8日、足利義晴が朽木谷(滋賀県高島郡朽木村野尻)に逃れる。
 享禄1年11月、細川高国が近江から伊賀に逃れる。
 享禄1年12月、柳本賢治が入京を試み、三好元長勢に敗れ、河内や大和を転々とする。

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