磁場の井戸:第三章 水牢(三)/長編歴史小説

 宗治は寝室の前の縁側に座っていた。彼の視線は庭の隅の苔に向けられていた。既に闇が高松城を覆っている。その暗い庭の片隅、苔生した石のすぐ側に、気配なく深更の闇の中に溶け込んだ小さな男が跪いていた。
「秀吉は、原古才の辺りでしきりと足守川を堰き止めている様子でございます。また、殿も御覧になられているかと存じますが、足守川の流れに沿って延々と堤を普請しております。」
原古才は城の西、高松城の北側を包む山塊が野に隠れる辺りにある集落で、その在所は城からは尾根の裏側にあたり、望見することはできない。
 七郎次郎は、宗治の手にある燭にうっすらと照らし出された顔を、心持ち上げた。手燭の炎が初夏にしては乾いた風に揺られ、七郎次郎の顔の陰影が微かに変化した。風がやむのを待ち、再び七郎次郎は話し始めた。
「秀吉は足守川沿いに西は原古才から、東は蛙ヶ鼻まで堤を築き、原古才で堰き止めた足守川の水を高松城に引き込み、城の周囲を水浸しにする策のようでございます。」
蛙ヶ鼻は、城の東方、これも城の北側の山塊が野に果てる尾根にあたる。原古才から蛙ヶ鼻までは一里、もしできたとすれば遠大な人工の塘坡が城の周囲に出現することになる。
(そんなことが人間にできるのか。)
数年に一度、足守川の氾濫に悩まされるとはいえ、それは空が多量の雨をもたらした時のみの話であった。
「そんなことが人間の手でできると思うか。」
宗治は闇の中に再び問いかけた。その問いは、七郎次郎に発せられると同時に、自らの経験と戦に対する勘への問いかけだった。
「神仏のみぞ、知るものかと…。」
七郎次郎の返事は歯切れの悪いものだった。二人の心中に秀吉の纏う光彩が蘇り、
(ひょっとすると。)
という感情が言葉を失わせていた。
 数日後、堤は地上から二間、築堤に励む人々を見下ろすほどに成長していた。築堤現場に続く道筋には、荷車や自分の背に如何にも重たげな袋を携えた百姓や町人と思しき老若男女が行列を作っていた。
 城方は成す術もなく、織田勢の築堤を眺めていた。城兵の誰しもが、
(この高松城とその城下を湖底に沈めることなど、人間の力でできるわけがない。)
と思った。宗治の考えも、無論、他の城兵たちと同じだった。ただ、心の中に広がる言葉には言い表しがたい茫漠とした不安を抑えかね、念のため、高松城下の紺屋から紺板を集めて、それで小船を作る事を、さらには、兵糧や秣などの食料や硝煙、火薬の類をできるだけ城の高い場所に移すよう命じた。宗治は何か行動を起こすことで得体の知れない不安感と何も為すことのできない焦燥感から逃れようとした。
城兵の一部は真剣に宗治の命に従ったものの、大部分の兵は宗治の取り越し苦労を内心苦笑し、その命を適当に受け流した。備中の空は春霞でかすんでいるものの、その上は抜けるように青く、露ほどの雨の気配もなかったことが城兵達の気を弛緩させた。
(この空梅雨に余所者が何も考えずに堤を築いておる。)
城兵達は織田勢の普請の姿を見て、あざけり笑っていた。

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