磁場の井戸:第一章 想い(五)/長編歴史小説
天正十年四月初旬、新緑が漸く目立ち始める頃、高松城の宗治のもとに城の東南方、高松城から肉眼でも明瞭に見える程の距離にある吉備津宮の神主堀家掃部が訪れた。 堀家掃部は秀吉からの誘いの書状を宗治に差し出した。 二人は武士と神官の違いはあれ、近隣のよしみで、旧知の間柄であり、堀家掃部はこの書状を秀吉方から頼まれても、 「無駄である。」 と言い、何度もこの使者を拒絶した。しかし、抗しきれず、仕方なく高松城まで秀吉からの書状を携えるのみの役目を引き受けた。 書状には宗治に対して備中一国を、傍らの副将中島大炊介に備後一国を宛行うという望外な恩賞の言質が認められていた。宗治はその書状に一通り目をとおし、読み終えたままの姿で、傍らの中島大炊介に手渡した。 大炊介もその書状に目を走らせた。そして、再び宗治の手に書状を戻した。宗治はそれを丁寧に元あった封書の中に収め、傍らの中島大炊介にチラリと目線をやった。大炊介はその目線に力強く頷き返した。宗治は再び堀家掃部に向き直り、大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出しながら、静かに言った。 「筑前守殿にお伝え願いたい。丁重なお誘い、誠に忝なく存ずる。筑前守殿、さらには織田殿にはそれがしこれまで全く遺恨はござらんが、毛利家から被った恩、忘却しがたく、義において、御味方に馳せ参ずることできかねる。向後、一切のお誘いは無用の事と思し召しいただきたい。」 堀家掃部の目を真っ直ぐに見つめ返しながら、宗治は封書ごとその書状を破り捨てていた。堀家掃部は愁眉を開いたように笑った。 「それでこそ、宗治殿にございます。」 宗治は堀家掃部に微笑みだけを返した。堀家掃部は使者としての使命を果たせなかったことを、むしろ喜ぶかのように、揚々として高松城を後にした。