磁場の井戸:第一章 想い(三)/長編歴史小説



 宗治は、自らの城、備中高松城の書院で月清という僧と向き合っていた。
 月清は現世の縁で言えば、宗治の実兄に当たる。人を斬ることを嫌い、戦を嫌った月清は、自らの才に比して武士としての全ての要素において優れる弟宗治に惜しげもなく清水家の家督を譲り、僧籍に入り、清水家と、もっと大きく言えば現世との縁を絶ち切っていた。
 宗治は、さして珍しくもない月清の来訪に、普段同様、応接した。
 四半刻ほど四方山話をしただろうか。二人の間に話題の払底を感じさせる無言の空気が流れた。その沈黙の薄い膜を月清という微風がゆっくりと揺らした。
「この戦、拙僧も宗治殿と共に高松城に籠もらせていただきたい。」
その言葉を聞くや、今まで柔和だった宗治の顔面が紅潮した。月清の表情は、宗治のそれと対極を成すかのように、静まりかえっている。
「今更、出家なされた月清殿をこの戦に巻き込んだのでは、家督を継いだ儂の面目が立ちません。」
宗治は激しい語調で兄であり、今は僧籍にある月清に反論した。宗治は、清水家の嫡流であったことに対する兄の後ろめたい気持ちが少しでも薄れることを望み、普段から月清を兄としてではなく、僧として扱うことに努めてきていた。
(今まで何の為にそうしてきたのか。)
宗治は自分の気持ちが月清に届いていなかったことがもどかしかった。月清はそんな宗治の胸の内が分かっているのか分かっていないのか、宗治の声が聞こえないように目の前に置かれた茶碗を両手で持ち上げ、顔の前で心持ち傾け、喉を潤した。そして、ゆっくりと元の位置に茶碗を戻すと、再び緩慢とも思える所作で傍らの団子に手を伸ばし、美味そうに頬張った。
「一度僧籍にお入りになられたからには、このまま僧として生をすべうし、清水家累代の先祖の菩提を弔っていただかなければ、儂が清水家の家督を継いだ意味がございません。」
木像のように反応を返してこない月清に対して、宗治はさらに詰め寄った。
 口の中の団子を十分に味わい、喉を鳴らして飲み込むまで、月清は微笑を湛えた表情のまま顎だけを動かした。そして、団子が喉を通るのを確かめ、深沈としているが透き通った声で言った。
「宗治殿、拙僧は自分の身勝手から、清水家の家督を投げ出し、桑門に入ったのです。もし、宗治殿に家督を継いで貰わねば、拙僧こそ今の宗治殿の席で決死の覚悟をもって織田勢を迎えなければならなかったはず。この運命を宗治殿だけに背負わせて、清水家の菩提を弔ったとて、拙僧は御先祖に会わせる顔がございません。拙僧は世を捨てたとはいえ、一個の人でございます。その一個の人が実弟を生贄にして生き長らえては、人の道に外れましょう。」
月清の論理は宗治に反論を許さないだけの理が通っていた。
 宗治は返答に窮し、太く筋の浮かんだ両腕を胸の前に組み、書院の前の庭に目を移した。庭の一隅、いつの季節でもそこだけは建物の影になっていて、いつの頃からか羅紗のように肌理細やかな薄緑色の苔が、こぢんまりとした集落を成していた。深淵の水面のように深みのある薄緑色を眺めていると、宗治はどんなときも落ち着きを取り戻すことができたが、それでも月清の翻意を促すための言葉を見つけることはできなかった。
 月清も、宗治の目線を辿るようにして、庭の一隅を眺めた。月清はその苔に往時以来の歳月の流れを見た。月清の胸の内に、宗治が経てきた乱世の宿業の数々が去来し、自らの身代わりとなってそれを受容し続けてきた宗治に対する自虐とともに、身を引き裂かれるような苦しさが喉にこみ上げた。
(宗治殿、申し訳ない。)
月清の瞳が知らぬまに濡れていた。
「才太郎、共に死なせてくれぬか。」
月清は、庭を眺めている宗治をその幼名で呼び、許しを乞うた。それは、宗治が家督を継いで以来、自分の身代わりとなった数十年間の艱難に対する詫びが隠り、多量の水分を含んだ重い、湿り気を帯びた言葉だった。宗治の身代わりとなって死ぬことのできない月清にとっては、共に西方浄土に旅立つことだけが、宗治の人生に対する精一杯の償いだった。
 月清の頬に流れる幾筋の涙の跡をみて、雷電に打たれたように宗治の心の芯が大きく揺れた。宗治は言葉を探すことをやめた。月清の真心は宗治をして首肯せしめた。

 月清が居なくなった部屋で、宗治は再び庭を眺めていた。
 宗治は、正月、三原城から戻って数日後、七郎次郎が月清と同様に死出の旅路の供をしたいと懇願したことを思い出していた。
(儂だけが死ねば、済むではないか。)
宗治は、小早川隆景という敬慕する人物への報恩のために、この戦に自らの命を賭すことを決意していた。


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