磁場の井戸:第一章 想い(一)/長編歴史小説


磁場の井戸
北白川 司空
第一章 想い

 太古以来、無数の文化と利器をもたらし続けてきた大陸からの厳冷な西風は、この国と大陸とを深く隔てる広い海峡を渡る過程で海面から沸き上がる水分によって十分に飽和し、低く、重く、そして暗い雲を山陰一円にもたらす。湿分をたっぷりと含んだ西風はこの国の背骨とも言える峻険な中国山地の脊梁と激しく衝突し、その衝撃が多量の湿分と空気を分離し、風そのものに内在する冷気との相互作用により、山陰地方に驚愕に価する量の積雪と凍えるような厳冬をもたらす。
 山陰に豪雪をもたらした西風は険しい山嶺を越えるとき、それまで蓄積し続けた多量の湿分のほとんどを消費し、人格を一変させたかのように乾燥しきった空気となって、中国山地の急勾配を砂塵を巻き上げながら転がり落ちるように、瀬戸内の堆積平野へと吹き下ろす。山陽に至る頃にはすでに風は一片の湿分も帯びず、その冷気と相まって肌に触れると切り裂くような痛みさえも感じさせる。
 旅商人姿で葛籠を背負った男が一人、木枯らしが吹き荒ぶ山陽道を、巻き上がる砂埃を避けるように俯きながら、黙々と歩いていた。先刻まで指先に痺れるような感触があったが、ほどなくそんな感覚も麻痺していた。陽は明るく野面を照らし出すが、路を掃く風に暖かさを加えるだけの熱量を有しておらず、風は吹くたびに周囲の温もりを奪い去った。街道沿いに植えられた松の葉さえも寒さで縮み、鋭く尖り、その緑素をこれ以上ないまでに凝縮したかのような濃緑色を放っている。空気が一片の湿り気も孕んでないせいか、空は突き抜けるような青さで備中の上に広がる半球を覆っていた。
 旅商人は名を七郎次郎という。彼自身姓も知らず、血縁もない。乱世はしばしば七郎次郎のような境遇を生み出した。しかし、七郎次郎は、自らの背負った運命に苦渋を感じることは、彼と同じ不幸に見舞われた人々よりも僅かだったと、信じていた。それは、七郎次郎が生みの親以上の人物に巡り会い、同じ業を持つ人々とは異なる路を歩むことができたからであろう。
 その人物は、蒸し暑い夏の夕刻、河原に倒れていた幼い七郎次郎を拾い、慈父が我が子を育むが如く養った。七郎次郎の目に明瞭な輪郭が現れたとき、眼前に広がっていたのはその人物の慈悲に満ちた、そして、どこまでも澄み切った瞳だった。七郎次郎が、その溢れんばかりの情を湛えた表情に実の親以上の愛情を感じたことは、生物の本能の為す必然だったのかもしれない。
 長じて七郎次郎はその人物の郎党として働いた。その人物は七郎次郎に人間としての生き様を自らの挙措、言動により教示した。七郎次郎にとって、父とも言えるその男は、
「義」
の一点において自分の人生を律していた。ときに、その人物は「義」に苦しみ、またあるときは「義」を愉しんだ。そんな彼の生き方を七郎次郎は間近に見、そして感じた。去就常無い戦国乱世において、この人物の行いこそが天の意に叶う唯一の方法であると七郎次郎は感じ、この人物との奇縁を享受してくれた天に感謝した。
(この人の為に命を捨てる。)
道端に倒れ、畜生の如く腐乱するはずであった彼の肉体を拾い、慈しみ育ててくれた男に対して、いつの頃からか七郎次郎は命を差し出すことで、報恩することを誓った。それが、この人物が無言の内に教えてくれた人としての道だと、七郎次郎は確信していた。
 寒々とした街道の彼方で、七人の武士が馬の背に揺られていた。七郎次郎はそこから数町の距離を置き、傍目からは見知らぬ旅人であるかのように七つの影につかぬよう、離れぬよう歩いていた。馬上の影の中に、唯一、七郎次郎が幼少より見慣れた輪郭が浮かび上がっている。七郎次郎にはその輪郭が他の六つの影に比べて、一際大きく、目を細めるほどに凛とした光彩を放っているように映った。
 その光彩を放つ男は、真綿帽のような白雪をその頂に載せた遠方の山並みに微笑を湛えた視線を泳がしながら、冬の山陽道の冴え冴えとした景色を愉しんでいた。左手には瀬戸内の海面が冷たい木枯らしを受けて、白い飛沫を散らしながら、尖った波を立てていた。尖った三角波は透き通った空気を貫く陽光を乱反射し、至る所で熱量を感じさせない純白の光を四方に散乱していた。
 空気が透き通っているせいか波の光が眩しい。その輝きから逃れるように彼は目線を汀の方へ移し、白味の高い褐色の砂浜の波打ち際に沿って西の方に顔を向けた。その視線の先に海岸線に身を寄せ合うようにして茶褐色の家屋が群れていた。
「三原城か。」
男は誰に言うわけでもなく、一人小さな声を発した。城は冬季特有の群青色をした瀬戸内の海面に、蔵六が顔だけを覗かすように、申し訳なさそうな風情で、ぽっかりと浮かんでいる。遠目に見ると、小舟が長閑と海の上に浮かんでいるようでもある。
(幾ほどぶりかな。)
彼はこれから会う男のことを思った。
 澄み切った空気が周囲の景色の発する色彩を一層強調するせいか、彼の目にはいつになくその城が美しく映じた。

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