950(1563)_==永禄6年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 永禄6年(1563)1月、尼子方の宇山、牛尾、立原らが富田城を出撃し、出雲三刀屋の南地王峠で三刀屋川を隔てて毛利勢と激戦を展開。>出雲白鹿城救援と一致?>当日戦況が有利に進み、次の日を期していたが、毛利勢の援軍が洗合から出陣したとの虚報を信じ、富田城に帰還。>尼子方にとって、これが毛利方の補給線を断つ好機であった。
 永禄6年(1563)1月、尼子勢が毛利軍に包囲された出雲白鹿城を救援するために援軍を派遣。この時山中鹿之助19歳、援軍の先鋒を願い出るも、大身の反対で叶わず。秋上庵介が従軍。退却時の殿軍で功があったと言われる。立原久綱は、尼子勢の三刀屋城攻撃において尼子義久の近習頭として先発隊を率いたのが史書に現れる最初。
 永禄6年、大友宗麟が毛利方の豊前苅田松山城を攻撃⇒毛利元就は掛合に在陣中の嫡男毛利隆元に北九州出陣を命じる。
 永禄6年3月上旬、毛利氏と大友氏の和議が成立。⇒毛利隆元は北九州の陣から出雲へ。
 永禄6年4月、尼子勢が出雲松江の津田表を夜襲。
 永禄6年(1563)8月13日、毛利元就、1万5千余を率いて白鹿城(城将松田誠保、城兵2千)総攻撃を開始。
 永禄6年8月4日、毛利隆元、安芸高田郡佐々部(広島県高宮町)で急死。享年41歳。>時に毛利元就は67歳。
 永禄6年8月6日、尼子方、富田城を出て松江の馬潟原で毛利勢と合戦。
 永禄6年8月13日、毛利元就、出雲白鹿城の総攻撃を命じる。毛利勢1万5千、城方は城将松田兵部丞誠保の手兵1千と牛尾太郎左衛門尉久清率いる富田の援兵8百余。
 永禄6年8月19日、尼子方、富田城を出て白鹿城の麓の船本で毛利勢と合戦。
 永禄6年8月28日、毛利軍と尼子軍、出雲国宍道で衝突。
 永禄6年9月1日、尼子方の熊野兵庫介が熊野城で毛利勢と合戦。
 永禄6年9月11日、毛利元就、大森銀山の鉱夫数百名を出雲に呼び寄せ、白鹿城の水の手を断つために穴を掘ることを命じる⇒白鹿城内でこれを察知し、地下道を作って毛利勢を迎え撃つ。
 永禄6年9月23日、尼子方、白鹿城救援のため、尼子倫久(義久の弟)を総大将に亀井秀綱/佐世清宗/牛尾幸清/宇山久兼/川本隆任ら尼子重臣の率いる7千余の第1陣、山中鹿之助/立原源太兵衛/大西1兵衛らの近習馬廻週率いる3千余の第二陣の総勢1万余の救援軍が出陣。和久羅から馬潟原に至る地点まで進出。毛利勢は最初尼子勢を相手にせず、十分引き付けてから反撃に転じ、毛利氏の両川吉川元春と小早川隆景が尼子勢を挟撃したことで、尼子勢第1陣が崩れ、山中鹿之助ら第二陣が殿軍となり奮戦。
 永禄6年10月13日、出雲白鹿城(尼子方)の小高丸が落ちる。
 永禄6年(1563)10月、山中鹿之助、立原久綱ら、毛利氏包囲下にあった白鹿城の救援作戦で敗北の尼子勢の殿軍を勤める。>9月の間違いか?
 永禄6年(1563)10月29日、白鹿城落城。城将松田誠保は隠岐へ去り、援軍の牛尾久清は富田城に送還される。一説では松田誠保ら城将が毛利方に投降したとも。>白鹿城落城の寸前、松田兄弟が毛利方に降参しようとした際、松田誠保の妻(尼子晴久の妹?)が「各はともかくもしたまへ、自らは自害せん」と叫んだと言われる。
 永禄6年11月、尼子方の兵糧船が因幡・但馬方面から回漕され、伯耆の弓ヶ浜海岸沖合に出現。⇒中海の制海権は既に毛利水軍が掌握。
 永禄6年(1563)11月15日、尼子方が因幡・但馬方面から伯耆弓ヶ浜に回漕された兵糧を富田城に運ぶため、弓ケ浜に出陣するも毛利軍に破られる(弓ヶ浜合戦)。>山中鹿之助も参加していたと思われる。

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