950(1565)_==永禄8年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 永禄8年(1565)、毛利輝元と吉川元資(後の元長)が出雲富田城攻めに参陣。輝元と元資はこの時が初陣。
 永禄8年(1565)、清水宗治、石川久孝の跡を継ぎ、高松城城主となる
 永禄8年4月、毛利元就、本陣を富田城付近の星上山(京羅木山の西)に移し、八幡の浄安寺山、石原の滝山に布陣。
 永禄8年(1565)4月17or18日、毛利元就、富田城を総攻撃を開始。3万余の毛利勢は3隊に別れ、小早川隆景は菅谷口(北の大手口)、毛利元就/輝元は御子守口(西の脇口)、吉川元春/元長父子は塩谷口(南搦め手)から進攻。尼子勢は菅谷口に尼子秀久、御子守口に大将尼子義久、塩谷口に尼子倫久を配して反撃。山中鹿之助、塩谷口の戦いで武功を上げる。
 永禄8年4月18&19日、毛利勢と尼子勢が出雲市庭で小競り合い。鉢屋掃部が鉄砲で奮戦。鉢屋弥四郎も戦功を挙げる。⇒鉢屋掃部はその後尼子分国中の弦弓鉢屋親分(弓弦製造職の本宗)を申し付けられる。
 永禄8年4月28日、富田城総攻撃を開始した毛利勢が洗合の本陣に1旦退却。
 永禄8年5月19日、室町13代将軍足利義輝が、二条御所において三好修理大夫、松永秀久などの指令を受けた兵に襲われ、打ち取られる。享年31歳。//義輝の弟鹿苑院も平田和泉に殺害される。
 永禄8年5月、南都一乗院門跡(足利義昭)、三好修理大夫・松永弾正(久秀)の監視の目をかいくぐり、逃亡。
 永禄8年、南都一乗院門跡(足利義昭)、和田伊賀守を頼って、伊賀・甲賀路を経て、近江矢嶋に至る。また、佐々木六角承禎を頼むも、承禎は三好三人衆に脅されて,義昭を殺害しようとする。
 永禄8年、南都一乗院門跡(足利義昭)、近江甲賀にて,還俗し,足利義秋と名乗る。
 永禄8年、足利義昭,越後の上杉謙信に帰洛のことを依頼。
 永禄8年、足利義昭、朝倉義景を頼って、越前に赴く。
 永禄8年8月6日、毛利氏の武将杉原盛重が尼子方の伯耆江美城を攻め落とす。>伯耆の尼子方もこの時点で殆ど消滅。
 永禄8年9月3日、毛利方の備中成羽城主3村家親が伯耆大江城を落とす。>これにより富田城は完全に孤立
 永禄8年9月、毛利元就、再び洗合を出陣し、富田城の向かい城滝山に本営を構え富田城を攻める⇒その後捗々しい戦果のないまま、再度洗合に引き上げ。
 永禄8年9月21日、山中鹿之助、毛利方の将品川大膳を討ち取る。品川大膳、丈五尺九寸の大男、色黒く筋骨逞しく、目尻は上がり、眉は逆立ち、全身に熊のような毛が生えていた。力あくまで強く、猪の首を素手でねじ切ったとも言われる。ある日、富田川の対岸を赤糸縅の鎧に鹿の角の前立ての兜をつけた丈五尺あまりの美丈夫なる武将を見て、山中鹿之助と思い、そこでタラギ狼介勝盛と名を改め、毎日山中鹿之助の姿を求めるうち、3、四人連れだって哨戒している山中鹿之助を見つけ、1騎打ちを求める。最終的には山中鹿之助が勝利を収めるが、状況は軍書によってまちまち。共通した見解は、狼介は弓矢を持って1騎打ちにのぞんだ、山中鹿之助には助太刀(秋上庵介が助太刀したという説が有力)がいた、狼介は討ち取られた、山中鹿之助もかなりの傷を被った。
 永禄8年(1565)、尼子勢はゲリラ戦を各所で展開するも、毛利勢の包囲網を崩すには至らず。
 永禄8年、尼子方の河副久盛が美作英田郡林野の倉敷城を捨て、富田城に帰還。

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