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5月, 2012の投稿を表示しています

さぬきうどん たも屋(支店)

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本日はJRA高松ウィンズの少し南にできた「たも屋」に行きました。 このブログの記事を増やすためにあえて「たも屋」を狙いました。 この「たも屋」、元祖は高松市内の朝日町にある埋め立て地にあるり、老舗ではないと思うのですが、さぬきうどんファンが一目置く存在だと思います。 最近、多店舗展開を始めておられるようで、立て続けに香川大学工学部の前や丸亀町商店街、そして、JRA高松ウィンズ付近に出店されています。 今日の「たも屋」は国道32号線に面しています。前述のとおりJRA高松ウィンズの少し南です。ただし、北行き車線からしか店に入れませんのでご注意ください。 オレンジ色の看板に黒で「たも屋」と書いた目印がありますので、容易に見つけることができると思います。 駐車場は広いので、車でのアクセスはノープロブレムです。 店の外観は一枚目の写真のとおりです。まだ、新しくてきれいです。 うどんのメニューは2枚目の写真です。わたしは初めてのお店ということで、いつも通り「かけ」を頼みました。暑くなってきたので、「ひやかけ」も考えましたが、やはりそのうどん屋さんを知るには「かけ」がやはり基本です。 わたしは、ここ「たも屋」のかけ出汁は、他店に比べてヘビーテーストだと思います。 出汁の色は、他店と同程度なのですが、味は出汁がよく聞いていて、一口啜ると、出汁の味が口一杯に広がるような感じがします。 濃い口が好みの拙者にはよく合う出汁です(^^)/ となりで我が子が食べていた「ぶっかけ(ひや)」も美味しそうでした。 ちなみに、3枚目の写真が拙者がオーダーした、「かけ(大)」と「ミンチカツ」でごさいます。 ネギと天カスとワカメは取り放題(常識の範囲内で)です。 2枚目の写真にあるメニューの右隅に書いている「かすうどん」(?)というのが気になりますねぇー( ̄^ ̄) 値段が結構高いのですが、どなたか食べた方がいらっしゃれば、どんなものか教えて下さいな。

ランナーはタバコはダメ!

昨夜は土曜日にも関わらず懇親会があり、10時まで飲まざるをえませんでした(-_-) 今朝は朝起きるのがとてもきつかったのですが、1週間全く走っていないことから、気力を振り絞って、7時前にベットから出て、ランに出発しました( ̄^ ̄) 1週間、全く走っていないと、筋肉が落ちるのか、足が前にスムーズに進まなくなりました。 しかも、ここ1週間、仕事や私事などなど多忙を極めるとともに、強烈なストレスに苛まれ、僅かではありますが、タバコに手を出すようになりました。(T_T) 息が切れて、尚更、ラップが落ちます。(結局、1km8分以上のぬるぬるペースでした!) やっぱり、ランナーは1週間に3回くらいは走らないと駄目ですね。 しかも、タバコは厳禁です(゜゜;)\(--;) 来週からまた休煙します( ̄^ ̄)

950(1568)_==永禄11年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄11年(1568)、足利義昭,織田信長に帰洛のことを再度依頼。  永禄11年(1568)2月、織田信長、北伊勢に出陣し、長野氏/神戸氏を下す。  永禄11年6月、吉川元春/小早川隆景ら豊後大友宗麟との対決のため北九州へ出陣。出雲国人衆米原/三沢/三刀屋らも動員。出雲大庭大宮(神魂(カモス)神社)の神官の一族秋上三郎左衛門尉綱平、毛利方の主力が北九州に出陣したことを京都の山中鹿之助/立原久綱らに通報。  永禄11年6月23日、足利義昭,細川藤孝・上野清信を使者として,明智光秀とともに織田信長に面会し,義昭を帰洛させるよう依頼した。(『細川家記』の記述で疑わしい。)  永禄11年7月12日、足利義昭,織田信長が帰洛のことを請け,まず美濃に移るため,近日越前を発つ旨,上杉謙信に書状で伝える。  永禄11年7月16日、足利義昭,越前一乗谷城を出発,近江に入り,浅井長政の館に泊まる。  永禄11年7月25日、越前へ和田伊賀守、不破河内守、村井民部、嶋田所之助を使わす。(これはおそらくあやまりで,7/25は織田信長が足利義昭に拝謁した日ではないか。)  永禄11年7月25日、足利義昭、美濃西庄(にしのしょう)立正寺に至る。(織田信長、足利義昭に鳥目千貫、太刀、鎧、武具、馬などを献上。)  永禄11年7月25日、足利義昭が越前朝倉氏のもとを離れ、美濃岐阜に到着。  永禄11年7月27日、織田信長,足利義昭に拝謁。(『細川家記』の記述。うたがわしい。)  永禄11年8月7日、織田信長、近江佐和山まで出陣。  永禄11年8月7日、織田信長、足利義昭の使者に添えて、信長の使者を、六角佐々木左京大夫承禎に義昭上洛のために人質の提出と馳走を命じるも、これより7ヶ日後、六角承禎はこれを断る。  永禄11年(1568)8月、山中鹿之助/立原久綱/三刀屋蔵人ら京都に会して尼子氏の再興を議し、大友宗麟と通じ東福寺の僧(新宮党誠久の遺児)を還俗させ、尼子孫四郎勝久として主君に推戴。(大3島神社に山中鹿之助奉納の大太刀が伝わる)

950(1567)_==永禄10年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 永禄10年(1567)2月、毛利勢が出雲尼子攻略を終え、安芸吉田郡山城に凱旋 永禄10年(1567)春頃、織田信長が滝川一益を北伊勢に派遣。 永禄10年、毛利氏が播磨進出を企て、尼子方の播磨上月城を攻め落とす。 永禄10年3月、足利義昭,毛利元就に帰洛のための参陣を依頼する。 永禄10年8月2日、織田信長,岐阜城を落とし,斎藤竜興を追い,美濃を平定する。斎藤竜興はその伯父長井隼人らと近江に逃れ、のちに三好氏を頼る。他書は稲葉山城落城を永禄7年としているがこれは誤り? 永禄10年8月、織田信長が北伊勢に出兵。 永禄10年9月、織田信長、美濃稲葉山城を攻略。 永禄10年10月10日、松永久秀が三好三人衆との戦いの中で東大寺大仏殿を焼き払う。//このちょうど10年後に松永久秀は織田信長に謀叛し、自害している。?

磁場の井戸:第一章 想い(三)/長編歴史小説

 宗治は、自らの城、備中高松城の書院で月清という僧と向き合っていた。  月清は現世の縁で言えば、宗治の実兄に当たる。人を斬ることを嫌い、戦を嫌った月清は、自らの才に比して武士としての全ての要素において優れる弟宗治に惜しげもなく清水家の家督を譲り、僧籍に入り、清水家と、もっと大きく言えば現世との縁を絶ち切っていた。  宗治は、さして珍しくもない月清の来訪に、普段同様、応接した。  四半刻ほど四方山話をしただろうか。二人の間に話題の払底を感じさせる無言の空気が流れた。その沈黙の薄い膜を月清という微風がゆっくりと揺らした。 「この戦、拙僧も宗治殿と共に高松城に籠もらせていただきたい。」 その言葉を聞くや、今まで柔和だった宗治の顔面が紅潮した。月清の表情は、宗治のそれと対極を成すかのように、静まりかえっている。 「今更、出家なされた月清殿をこの戦に巻き込んだのでは、家督を継いだ儂の面目が立ちません。」 宗治は激しい語調で兄であり、今は僧籍にある月清に反論した。宗治は、清水家の嫡流であったことに対する兄の後ろめたい気持ちが少しでも薄れることを望み、普段から月清を兄としてではなく、僧として扱うことに努めてきていた。 (今まで何の為にそうしてきたのか。) 宗治は自分の気持ちが月清に届いていなかったことがもどかしかった。月清はそんな宗治の胸の内が分かっているのか分かっていないのか、宗治の声が聞こえないように目の前に置かれた茶碗を両手で持ち上げ、顔の前で心持ち傾け、喉を潤した。そして、ゆっくりと元の位置に茶碗を戻すと、再び緩慢とも思える所作で傍らの団子に手を伸ばし、美味そうに頬張った。 「一度僧籍にお入りになられたからには、このまま僧として生をすべうし、清水家累代の先祖の菩提を弔っていただかなければ、儂が清水家の家督を継いだ意味がございません。」 木像のように反応を返してこない月清に対して、宗治はさらに詰め寄った。  口の中の団子を十分に味わい、喉を鳴らして飲み込むまで、月清は微笑を湛えた表情のまま顎だけを動かした。そして、団子が喉を通るのを確かめ、深沈としているが透き通った声で言った。 「宗治殿、拙僧は自分の身勝手から、清水家の家督を投げ出し、桑門に入ったのです。もし、宗治殿に家督を継いで貰わねば、拙僧こそ今の宗治殿の席で

祝:3000アクセス

おはようございます。 本日も天気晴朗。 日常の始まりです。 今日も朝からいつものとおり、自分のお弁当を詰め、家族の洗濯物を干し、会社に出発です(⌒‐⌒) 昨日、ついに、3000アクセスを突発しました(^^)d ブログを始めて半年。 勉強不足で、良いネタがあまりないですが、これからも頑張って参ります。 では、行って参ります。

足圧測定

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右足の親指と足の甲の痛みを感じるこの頃、市のスポーツ関連イベントに子供達を連れていったところ、幸運なことに、スポーツショップのSUPER SPORTS XEBIOさんが足圧測定と足の診断を開催していたので、診断してもらいました。 写真は拙者の診断結果です。 圧力が均等にかかっていて、それぞれの指にもしっかり力が伝わっており、また、アーチも高すぎず、低すぎず、バランスはよいと言うことでした(^^)v 全体の重心が少し前にあるようですが、男子は骨盤の形状の関係で少し重心が前気味になるそうで、これもそれほど気にすることはないとのことでした。 足の大きさは計測結果で26cmで、ランニングシューズの望ましいサイズが足の大きさプラス1cmということですので、拙者は27cmのランニングシューズを履くのがよいようです。 ちなみに足囲は247-248mmで、レギュラーサイズなので、サイズ27cmなら普通の靴を買えば問題ないということでした。 ちなみに、今履いているランニングシューズはもしかすると26.5cmかも…。 帰って調べてみます。 XEBIOさん、ありがとうございました。

右足の親指と足の甲に痛みが…

昨日、とってもゆっくり20Km走ったのですが、10-15kmあたりからどうも右足の親指が靴の爪先に当たって痛くなります。 そこで、右足の靴ひもを強めに結んで、出来る限りの足を固定して、親指が靴の爪先に当たらないようにしてやると、次は固く締めた圧迫で足の甲に痛みが出始めました。 このため、再び靴ひもを少し緩めて、足の甲をあまり圧迫しないように、でも、親指も靴の爪先にあまり当たらないように調整しながら、何とかランを継続し、20kmを走りきりました。 翌日も軽くランと思い、家を出発したのですが、足の甲が少し痛み、さらに、1kmくらいの所で少し鋭い痛みが走りました。 このため、ランは中断し、1時間ほどウォーキングすることにしました。ウォーキングならほとんど違和感を感じません。 帰宅後、ネットを見てみました。 両方ともよくある話みたいですね。 まず、親指。 拙者がみた限りで一番多かったのは靴が少し小さいというご意見でした。 例えば、止まっている時は靴の爪先に親指が当たらないけど、走ると靴の爪先に親指が当たってしまうようなケースもあるのでしょうか。 また、ある事例では靴の診断をしてもらったら、左右の足のサイズが0.5cm違うというケースもあるそうです。拙者の場合、左足の親指は大丈夫なので、もしかすると、右足のサイズが大きいのかもしれません。 解決案としては、「ワンサイズ大きな靴にする」、「爪を伸ばさないように心掛ける」、「土踏まずの部分が高めの中敷きを使用し、親指の先を下向き気味に修正する」、「親指を絆創膏やテーピングで保護する」などを見かけました。 とりあえず、初期投資が少なそうな絆創膏で様子を見ようと思っています。 次に足の甲ですが、拙者が調べた範囲では、靴が小さすぎ、または、靴ひもを強く絞めすぎというコメントが多かったように思います。 解決策は、「靴ひもを緩める」、「少し大きめの靴を履く」といった感じでした。 とりあえず、「痛みがあったら、無理をしない」というのが基本のようでしたので、靴ひもと同様に少しトレーニングを緩めてみます。 確かに、丸亀ハーフの時も同じ症状がありました。

鶏肉と茄子のカレー

久しぶりに料理しましたねー(^^)d 何か最近厨房に立つ機会がありませんでした。 では、鶏肉と茄子のカレーをいってみましょう。 【今回のレベル(司空の独断)】 ・準備:★★★☆☆(少し材料は細か目にした方が美味しいと思います) ・時間:★★★☆☆(カレーですから少しだけ煮込む時間は必要ですね) ・技術:★★☆☆☆(基本的には市販のルーを使ったカレーですから、それほど高度な技術は不要です♪) 【準備したもの(4-5人分)】 ・鶏肉(もも)…300g ・茄子…小5-6ヶ ・椎茸…小6ヶ ・玉ねぎ…1ヶ ・ニンジン…2本 ・市販のカレールー…適量 【作り方】 ・鶏肉を1cm程度の大きさに切り、油を敷いた鍋に入れて炒めます。 ・玉ねぎをみじん切りして、鍋に入れます。 ・人参、椎茸、茄子を5mm強の大きさに切り、鍋に入れて炒めます。 ・具材にだいたい火が通ったら、市販のカレールーに表示してある通りの水を鍋に入れます。 ・鍋の水が沸いたら、カレールーを入れて、ルーを溶かして出来上がり。  結局、カレーというのは、具材の組み合わせを工夫すれば、ほぼ無限大といってもいい種類ができるということですね\(^_^)/

950(1566)_==永禄9年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄9年、足利義昭,尾張の織田信長に帰洛のことを依頼。さらに、足利義昭,細川藤孝を使者として,織田信長・斎藤竜興の和睦を図る。  永禄9年、能登守護畠山氏の当主畠山義綱が父義続とともに家老の遊佐氏や長氏、温井氏らに追放され、幼少の義慶が擁立される。***以後、天正2年に義慶が逝去し、畠山氏の跡目は途絶える。  永禄9年、羽柴秀吉が墨俣1夜城を築城//蜂須賀小六、前野長康らが助力。  永禄9年(1566)、山中鹿之助、亀井家の養子となる(この説怪しい)。その後、天正2年(1574)に山中家に戻るとの説。  永禄9年(1566)前後、富田城の尼子勢のなかから多数の脱落者が発生し、毛利方に下る。重臣の牛尾幸清(尼子家家老職)/亀井秀綱/河本隆任/河副久盛/佐世清宗(尼子家家老職)/湯惟宗など。この時、山中鹿之助21歳。  永禄9年1月1日、尼子家筆頭家老の宇山久兼が、嫡男弥四郎とともに、毛利家への内通の罪で尼子義久の命により誅殺される。  永禄9年1月、尼子家重臣宇山久信が佞臣大塚与3右衛門の讒言により誅殺される。毛利元就の謀略との説も。この後富田城内から脱し、毛利方に下るものが多数。  永禄9年2月(?)、毛利元就が洗合の本陣で病に伏す。  永禄9年3月、毛利元就の病が回復<将軍足利義輝が曲直瀬道3を出雲に下向させる。  永禄9年3月1日、足利義昭,上杉謙信に上京を促す書状を出すとともに,織田信長と斎藤竜興の和睦を催促。  永禄9年4月、織田信長が吉川元春に宛て、出雲攻略が進んでいることを賀する書状を出す。  永禄9年4月21日、毛利勢と尼子勢が出雲富田城麓の中須で合戦。  永禄9年5月24日、尼子家臣鉢屋賀茂弥三郎が富田城下の七曲口で毛利勢を相手に奮戦。  永禄9年5月214日、立原久綱、富田城落城の約半年前、尼子義久より富田城七曲口の戦いでの久綱以下鉢屋加茂弥三郎の忠功を賞する感状を得る。  永禄9年5月末、毛利元就、風邪がもとで病床に。小早川隆景/吉川元春協議し、聖護院門跡道澄に仲介を依頼し

磁場の井戸:第一章 想い(二)/長編歴史小説

 天正一〇年一月、新年を祝う松に彩られた城下を闊歩し、七名の武将は城の大手に掛けられた橋を渡り、城門を潜った。城の名は「三原城」、備後国三原の瀬戸内海を望む風光明媚という言葉では言い尽くせない程に美しい海縁に築かれた城である。  七名はその城の書院に通され、一人の男を待った。彼らの来訪を労うように、書院には十分な暖がとられていた。ここまで「寒い」という一言さえも発さず、厳寒の山陽道を歩んできた七名には何よりの馳走に思えた。  間を置かず、ゆっくりとした足音が七名の待つ書院に近づいてきた。七名は顔を上げたまま、その足音が上座の障子を開けるのを見つめた。障子が開くと、冷涼な外気が部屋に流れ込んできた。男は部屋に入ると、暖を逃がすまいとするように手早く障子を閉め、上座に着いた。 「皆の衆、無沙汰であった。わざわざの来訪かたじけない。」 男は完爾とした表情を浮かべて言った。彼の表情と語調は心の底からの労いの感情に溢れていた。  男は、この城の城主で名を小早川隆景という。隆景は、毛利家という安芸国吉田荘三千貫の小名を、生涯かけて中国の雄にまで押し上げた傑物毛利元就の三男、すなわち元就逝去後、名跡を継いだ元就の孫輝元の伯父にあたる。  隆景は、幼少にして瀬戸内水軍の名家小早川家の分家の養子となり、その後、本家の家中騒動に乗じて、父元就の後援を受けながら、小早川本家の家督さえも継承して、今に至る。現在はこの三原に居を構え、毛利家における山陽方面の総大将として、また、毛利瀬戸内水軍の総帥として毛利家の大なる部分を担っていた。  隆景は柔らかい面もちのまま言葉を続けた。 「参集いただいたのは他でもない。皆も周知のとおり、今春にも上方より織田勢が中国を目指して出陣するとのこと。この戦は、毛利家の命運を賭けた大戦となろう。相手は既に六十余州の三分の一以上を手にした織田信長。これに対するには毛利家の所領を全て焦土と化して当たるしかあるまい。儂も身命を賭して、織田勢の火の粉から毛利家を守るつもりだ。」 隆景は、柔和な表情のまま言葉を切り、七名の反応を確かめるかのように、ゆっくりと視線を動かした。 「その戦の先鋒を切るのが、備中、備前の境目のお主達の城となることは間違いない。織田勢の大将羽柴秀吉は調略を専らにするとの噂が高く、お主らの中にも既に秀吉からの誘いが来ておるかも

久しぶりの20kmラン&お遍路さん休憩所

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GWから、ずーっと、 ー走らないと、走らないと。 と思い続けていたハーフ20kmを本日やっとランしました(^^)v 今年2月の丸亀ハーフマラソン以来の20kmです。 このため惨憺たる結果でした。2時間38分もかかりました。 ゴールがとても遠かったです。 最近忙しくて平日に走る時間がないのが、体力低下の原因でしょうか(;´д`) 身体がなまってます。 さて、、、 拙者はランしながら町並みを見るのが好きなので、一車線しかない細い道とかに入ることが多いです。 今日もJR鬼無駅付近、高松市飯田町辺りの住宅街を走りましたが、そこに四国霊場88箇所巡りのお遍路さんの休憩所がありました。 拙者が持っているお遍路さん休憩所のイメージは、 一、あずま屋風にベンチとテーブルがあって、雨をしのぐ屋根がある程度 二、プレハブの小屋、あるいは、同等程度の作りで、小屋の中で休憩できるようになっている。 というものでしたが、ここ飯田のお遍路さん休憩所はとてもきれいで立派なものでした。 平屋の豪邸といった雰囲気です。 お遍路さんをご接待するのは、四国の良さを全国の皆さまに知ってもらうためにも、大いに賛成です(⌒‐⌒) それにしても、立派な施設だったので、驚きました。

スマホ本体メモリーの容量が…(T_T)

スマホの動作速度が遅くなってきたことについて、ネットで色々と調べています。 そのなかで、今まで知らなかった事実が…。 スマホって機種によってメモリー容量が違うみたいですね。 よくよく考えてみると、パソコンと一緒でメーカーや機種によってスペックは異なるのが当然ですね。 ただ、パソコンみたいに同一機種でスペックが異なるものを販売していない(と、思われる)ので、はじめてのスマホ購入の時には気付きませんでした。 拙者の機種は比較的本体メモリーの容量が少ない機種かと思われます。 本体メモリーにしかインストールできないアプリが結構あるので、本体メモリーが少ない拙者はメモリーの使い方をかなり工夫しないと自由にアプリがインストールできないということに気付きました。 潤沢にメモリーを搭載している機種だとこんな苦労はないのかも…。 次の機種変更の時には注意したいと思います。 でも、やっぱり、アプリはSDガードに移動できるようにしておいて欲しいというのが、ユーザーの本音かも…。

消費税増税論と政局に思うこと

民主党さんが消費税増税を進めるなか、自民党さんは審議拒否を続けているようです。 ある閣僚の方は、現在の社会保障は赤字国債の上に成り立っていて、このままでは破綻してしまうので、社会保障制度の改革が必要であり、そのために消費税増税が不可欠であるといった内容のことを御発言されたと聞いた。 将来の世代に過度な負担をさせてはいけないというのは納得できるが、後世に負の遺産を残さぬよう、現役世代がその負担を背負わなければならないというような主旨のことも言っていたような気がする。 それも納得。 しかし、年金制度をはじめとする社会保障制度の改革の全体像が見えないなかで、 -まず消費税を上げる。 というのは、拙者は理解できません。 法律を変えれば、消費税が上がり、税収が増えるかもしれませんが、今の社会保障制度を維持したまま、消費税を増税するというなら、拙者は次の選挙で民主党には絶対に票を投じません。 今の現役世代にあまりにも過度な負担を求めすぎだと思います。 社会保障制度の改革の絵姿もないまま、    ・65才まで年金は払いません。 などと言われたら、我々現役世代は年金を払うことを拒否しますね。 そもそも、我々の世代は平均寿命まで生きても、払ったがくより、年金給付額の方が少ないと言われてますからね。 社会保障制度改革の前に消費税を増税するというのはありえないと思います。 自民党さんは次期選挙を消費税増税賛否選挙にするために、消費税関連の審議には応じないが、それ以外は審議に応じてはどうかと愚考します。 ギリシャが連立不可で混迷を深めていますが、我が国も海外の方々から見れば、何もかもを政局に利用して、 -何をやってんだか! って、見えるような気がします。

磁場の井戸:第一章 想い(一)/長編歴史小説

磁場の井戸 北白川 司空 第一章 想い  太古以来、無数の文化と利器をもたらし続けてきた大陸からの厳冷な西風は、この国と大陸とを深く隔てる広い海峡を渡る過程で海面から沸き上がる水分によって十分に飽和し、低く、重く、そして暗い雲を山陰一円にもたらす。湿分をたっぷりと含んだ西風はこの国の背骨とも言える峻険な中国山地の脊梁と激しく衝突し、その衝撃が多量の湿分と空気を分離し、風そのものに内在する冷気との相互作用により、山陰地方に驚愕に価する量の積雪と凍えるような厳冬をもたらす。  山陰に豪雪をもたらした西風は険しい山嶺を越えるとき、それまで蓄積し続けた多量の湿分のほとんどを消費し、人格を一変させたかのように乾燥しきった空気となって、中国山地の急勾配を砂塵を巻き上げながら転がり落ちるように、瀬戸内の堆積平野へと吹き下ろす。山陽に至る頃にはすでに風は一片の湿分も帯びず、その冷気と相まって肌に触れると切り裂くような痛みさえも感じさせる。  旅商人姿で葛籠を背負った男が一人、木枯らしが吹き荒ぶ山陽道を、巻き上がる砂埃を避けるように俯きながら、黙々と歩いていた。先刻まで指先に痺れるような感触があったが、ほどなくそんな感覚も麻痺していた。陽は明るく野面を照らし出すが、路を掃く風に暖かさを加えるだけの熱量を有しておらず、風は吹くたびに周囲の温もりを奪い去った。街道沿いに植えられた松の葉さえも寒さで縮み、鋭く尖り、その緑素をこれ以上ないまでに凝縮したかのような濃緑色を放っている。空気が一片の湿り気も孕んでないせいか、空は突き抜けるような青さで備中の上に広がる半球を覆っていた。  旅商人は名を七郎次郎という。彼自身姓も知らず、血縁もない。乱世はしばしば七郎次郎のような境遇を生み出した。しかし、七郎次郎は、自らの背負った運命に苦渋を感じることは、彼と同じ不幸に見舞われた人々よりも僅かだったと、信じていた。それは、七郎次郎が生みの親以上の人物に巡り会い、同じ業を持つ人々とは異なる路を歩むことができたからであろう。  その人物は、蒸し暑い夏の夕刻、河原に倒れていた幼い七郎次郎を拾い、慈父が我が子を育むが如く養った。七郎次郎の目に明瞭な輪郭が現れたとき、眼前に広がっていたのはその人物の慈悲に満ちた、そして、どこまでも澄み切った瞳だった。七郎次郎が、その溢れんばかりの情を湛えた表情

950(1565)_==永禄8年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄8年(1565)、毛利輝元と吉川元資(後の元長)が出雲富田城攻めに参陣。輝元と元資はこの時が初陣。  永禄8年(1565)、清水宗治、石川久孝の跡を継ぎ、高松城城主となる  永禄8年4月、毛利元就、本陣を富田城付近の星上山(京羅木山の西)に移し、八幡の浄安寺山、石原の滝山に布陣。  永禄8年(1565)4月17or18日、毛利元就、富田城を総攻撃を開始。3万余の毛利勢は3隊に別れ、小早川隆景は菅谷口(北の大手口)、毛利元就/輝元は御子守口(西の脇口)、吉川元春/元長父子は塩谷口(南搦め手)から進攻。尼子勢は菅谷口に尼子秀久、御子守口に大将尼子義久、塩谷口に尼子倫久を配して反撃。山中鹿之助、塩谷口の戦いで武功を上げる。  永禄8年4月18&19日、毛利勢と尼子勢が出雲市庭で小競り合い。鉢屋掃部が鉄砲で奮戦。鉢屋弥四郎も戦功を挙げる。⇒鉢屋掃部はその後尼子分国中の弦弓鉢屋親分(弓弦製造職の本宗)を申し付けられる。  永禄8年4月28日、富田城総攻撃を開始した毛利勢が洗合の本陣に1旦退却。  永禄8年5月19日、室町13代将軍足利義輝が、二条御所において三好修理大夫、松永秀久などの指令を受けた兵に襲われ、打ち取られる。享年31歳。//義輝の弟鹿苑院も平田和泉に殺害される。  永禄8年5月、南都一乗院門跡(足利義昭)、三好修理大夫・松永弾正(久秀)の監視の目をかいくぐり、逃亡。  永禄8年、南都一乗院門跡(足利義昭)、和田伊賀守を頼って、伊賀・甲賀路を経て、近江矢嶋に至る。また、佐々木六角承禎を頼むも、承禎は三好三人衆に脅されて,義昭を殺害しようとする。  永禄8年、南都一乗院門跡(足利義昭)、近江甲賀にて,還俗し,足利義秋と名乗る。  永禄8年、足利義昭,越後の上杉謙信に帰洛のことを依頼。  永禄8年、足利義昭、朝倉義景を頼って、越前に赴く。  永禄8年8月6日、毛利氏の武将杉原盛重が尼子方の伯耆江美城を攻め落とす。>伯耆の尼子方もこの時点で殆ど消滅。  永禄8年9月3日、毛利方の備中成羽城主3村家

950(1564)_==永禄7年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄7年(1564)、毛利隆元が逝去。  永禄7年(1564)、山中鹿之助、伯耆に入り杉原盛重と戦う。  永禄7年(1564)4月15日、立原久綱、尼子義久より富田城籠城の功を賞され、同時に兄幸隆より家督を相続した折の新恩の宛行いを約束されている。  永禄7年7月、三好長慶が病死。  永禄7年夏頃、安国寺恵瓊、10年ぶりに安芸へ戻り、毛利元就と初めて接見。

MediaGoとiTunes(続編)

SONYのXperiaでiTuneStoreで購入した楽曲を聞くことができないのか。。。 この問題について、色々とネットを調べたりしていましたが、超初歩的な所に答えが落ちていました。 SONYのXperiaのサイトに、 ※iTunes storeから購入した楽曲やApple Lossless形式、AIFF形式の楽曲、Media GO上で再生不可の動画は転送されませんのでご注意ください とありました(T_T) 当該ページは、「MediaGo Xperia」でGoogle検索したら出てきます。 でも、そのページのタイトルは、 「iTunseからMediaGoへ」 となっており、 「そこで今回は今まで使っていたiTunesからMedia GOへの移行方法や、実際にXperiaに音楽や動画を転送する流れをご紹介いたします!」 とあり、拙者のような無知な人間は、これを読んだら、MediaGoを使えば、iTunesからXperiaに楽曲を移動でき、今まで通りの操作がXperiaで可能なように感じてしまいます。 やっぱり普通の方法でiTunseStoreで購入した楽曲をXperiaで聞くことは不可能なのですね(TT)

新しいランニングコースを設定

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今日は新しいランニングコースを設定して走りましたので、書き留めておきます。 GWに長距離を走り込んで置こうと思っていたのですが、どうも身体がへばってしまい、12kmくらいが精一杯でした。 ということで、初冬のフルマラソン参加に向け、15km以上走っておくべく、いつもより頑張って走りました。 普段は八幡宮に着いたら引き返していたのですが、本日は八幡宮を通り越して、香東川まで行き、そこから川沿い上って、ぐるーと一周するコースをランしました(^^)/ 香東川沿いは車道のほかに河川敷にサイクリングロードが整備されていて、そこを走ることができるので、信号機や自動車を気にする必要がなく、快適にランできます。(写真の向かって右側の河川敷に幅1メートル強の舗装道路があります) また、所々に野球グラウンドやサッカー場などなどがあり、その場所に限っては土の上を走ることが可能です。 贅沢を言うと、コース全部がアスファルト舗装ではなく、少し柔らかめの素材でできていると足に優しいんですけどねぇ、、、。 ちなみに、この香東川のサイクリングコースは、噂に聞いたところだと、塩江温泉から瀬戸内海の海辺まで続いているとか、、、。 それを走ったらフルマラソン並みの距離かも知れません。ただ、勾配はきついですが、、、。

中西うどん

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ひさしぶりにセルフのうどんを食べました。 最近、平日の昼食は自分で弁当を作っているので、さぬき人であるにも関わらず、セルフうどんを食べる回数が本当に減りました。 たぶん、このブログに丸亀製麺に行って以来のことかと思います。 中西うどんは住所は香川県高松市のたぶん鹿角町という場所(あるいはその近隣)にあります。 以前は道路のカーブ沿いの三角地に建っていて、駐車場の形がいびつで狭く、混んでいる時は自動車だと少し入りにくい時がありました。 でも、今日行ってみてびっくりしました。 以前駐車場と店舗のあった三角地は全て駐車場になり、その南側に新しい店舗ができていました。さらに、道を挟んだ所にも大きめの駐車場がありました。 拙者はかけうどん3玉とちくわ天にしました。久しぶりに来たので、思いきって3玉です。 中西うどんは非常にベーシックな、基本に忠実な麺であり、出汁だと、拙者は思っています。 適度なコシと透明度の高い出汁、拙者が昔から食べている讃岐うどんの基本です。 ほかにひやかけ、ぶっかけ、ざる、ゆだめ、肉うどんなどがあります。 是非、機会があれば、行ってみてください。 駐車場が広くなったので、県外の方も行きやすくなったと思います。

土佐の方々の気質について(平成10-11年頃の感想です)

高知の観光名所のひとつに桂浜という場所があります。 高知城の南の方向、太平洋に面した小さな砂浜です。 ここには見えない外国に思いを馳せているような表情の坂本竜馬の銅像が立っています。 本物の竜馬もこの桂浜の浜辺に立ち、心の中で世界への思いを馳せていたに違いないとかんじさせてくれます。 私も、僭越ではございますが、竜馬の気分を味わうために桂浜から太平洋を漠然と眺めていました。 今でこそ、この海には大きな貨物船や下品なまでに目立つ黄色い浮標(航路ブイ)で少しにぎやかになっていますが、昔は何一つ浮かんでいない青一色の水面であったのでしょう。 この海を見ていると、現代人の持つ知識があれば、 -この海の向こうにはアメリカがあるのかなぁ。 などという感慨に浸ることができるかもしれません。 しかし、地球という意識のない昔の人々はそうはいかないと感じます。 この海の向こうに思いを馳せた人々は恐らく昔から多かったと拙者は思います。 そんな人々は、 -この海は果てしなく、無限に続いているのだろうか。 とか、 -この海の果てには、神や仏の国があるのではあるまいか。 とか、考えたりしたのではないでしょうか。 そういう、小さな疑問というのか、好奇心というのか、まあそういったものが土佐の方々の気質を作り上げる上で重要な要素になっているのではないかと思います。 土佐というのは地理的には比較的閉鎖された地域だと思います。 ある意味では、四方を海に囲まれた沖縄県(昔風に言うなら琉球かな)よりも閉鎖された土地であるような気がします。琉球は黒潮に乗って、土佐や紀伊まで交流していたというような話を聞いたことがあります。 土佐は、既知のとおり、南側は果てしなく続く太平洋です。 しかし、その反対側はというと、それはもう峻険な四国山地に完全に囲まれています。 例えば、昔、この四国山脈を越えて讃岐や伊予に出ようとすれば、有名(全国的に有名かどうかは別であるが、四国内では有名である)な大歩危、小歩危などという難所を始めとして、人が一人通れるかどうかという、羊腸たる道を歩いて旅する必要があったのではないかと思います。 他にも龍馬脱藩の道として知られる梼原街道などもありますが、これとて非常に細く、曲がりくねった街道です。 そんな地理的に閉鎖された土

950(1563)_==永禄6年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄6年(1563)1月、尼子方の宇山、牛尾、立原らが富田城を出撃し、出雲三刀屋の南地王峠で三刀屋川を隔てて毛利勢と激戦を展開。>出雲白鹿城救援と一致?>当日戦況が有利に進み、次の日を期していたが、毛利勢の援軍が洗合から出陣したとの虚報を信じ、富田城に帰還。>尼子方にとって、これが毛利方の補給線を断つ好機であった。  永禄6年(1563)1月、尼子勢が毛利軍に包囲された出雲白鹿城を救援するために援軍を派遣。この時山中鹿之助19歳、援軍の先鋒を願い出るも、大身の反対で叶わず。秋上庵介が従軍。退却時の殿軍で功があったと言われる。立原久綱は、尼子勢の三刀屋城攻撃において尼子義久の近習頭として先発隊を率いたのが史書に現れる最初。  永禄6年、大友宗麟が毛利方の豊前苅田松山城を攻撃⇒毛利元就は掛合に在陣中の嫡男毛利隆元に北九州出陣を命じる。  永禄6年3月上旬、毛利氏と大友氏の和議が成立。⇒毛利隆元は北九州の陣から出雲へ。  永禄6年4月、尼子勢が出雲松江の津田表を夜襲。  永禄6年(1563)8月13日、毛利元就、1万5千余を率いて白鹿城(城将松田誠保、城兵2千)総攻撃を開始。  永禄6年8月4日、毛利隆元、安芸高田郡佐々部(広島県高宮町)で急死。享年41歳。>時に毛利元就は67歳。  永禄6年8月6日、尼子方、富田城を出て松江の馬潟原で毛利勢と合戦。  永禄6年8月13日、毛利元就、出雲白鹿城の総攻撃を命じる。毛利勢1万5千、城方は城将松田兵部丞誠保の手兵1千と牛尾太郎左衛門尉久清率いる富田の援兵8百余。  永禄6年8月19日、尼子方、富田城を出て白鹿城の麓の船本で毛利勢と合戦。  永禄6年8月28日、毛利軍と尼子軍、出雲国宍道で衝突。  永禄6年9月1日、尼子方の熊野兵庫介が熊野城で毛利勢と合戦。  永禄6年9月11日、毛利元就、大森銀山の鉱夫数百名を出雲に呼び寄せ、白鹿城の水の手を断つために穴を掘ることを命じる⇒白鹿城内でこれを察知し、地下道を作って毛利勢を迎え撃つ。  永禄6年9月23日、尼子方

950(1562)_==永禄5年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄5年(1562)、小早川隆景と毛利隆元率いる毛利勢の北九州方面軍が撤兵し、石見の毛利元就本隊と合流。  永禄5年2月5日、毛利勢が尼子方の刺賀岩山城(城主多胡辰敬)を落とす。多胡辰敬は城を枕に討死。  永禄5年2月、毛利勢(この時には北九州方面軍と合流済み)が石見川上松山城を落とし、福屋隆兼の次男隆任を斬る。>これを見た福屋隆兼は乙明城を放棄し、尼子義久を頼るも毛利氏との和睦を望む尼子義久には受け入れられず、大和信貴山城の松永久秀のもとに走る。  永禄5年6月、尼子方の有力武将本城常光が毛利方に寝返り⇒これを受けて鰐走の牛尾氏、温泉津の湯氏が敗走し、石見が毛利方のものとなる。また、本城常光の寝返りにより、大森銀山が毛利方の手に落ちる。  永禄5年(1562)、毛利勢、石見を平定し、大挙して出雲に進出。  永禄5年6月、出雲西端に勢力のあった尼子方の赤穴久清が毛利方に寝返る。これと前後して、仁多の玉峰城主三沢為清、飯石の三刀屋城主三刀屋久扶、松江の満願寺山城主湯原春綱、●川の高瀬山城主米原綱寛らの出雲国人衆が相次いで毛利方に寝返り。また、伯耆の南条宗勝が東伯の羽衣石に、行松入道が尾高泉山に入城して尼子に敵対する。  永禄5年7月3日、毛利元就が出雲攻略のため1万5千を率いて安芸吉田郡山城を出陣。⇒石見路を阿須那、都賀を経て出雲入城して入国。  永禄5年7月21日、毛利元就、石見都賀に着陣。出雲赤穴城に向かう。  永禄5年7月28日、毛利元就、出雲赤穴城に着陣。その後、赤穴城の北東頓原にしばらく滞在し、同年12月1日進発。  永禄5年11月5日、毛利元就が本城常光とその1党を暗殺し、大森銀山を手中に収める。⇒これを見た旧尼子系列の諸将が自らの立場を危ぶみ、尼子方に再び寝返る。毛利方に留まったのは三沢為清、三刀屋久扶、米原綱寛、赤穴久清ら。⇒毛利元就はこの情勢を見て赤穴まで退陣。  永禄5年12月1日、毛利元就が再び赤穴を進発。⇒天倫寺山の洗合に本陣を移す。⇒長期戦を見越して、

950(1561)_==永禄4年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄4年(1561) 、吉川広家が生まれる。  永禄4年5月14日、織田信長、森部で美濃斎藤勢と戦う。  永禄4年5月23日、織田信長、軽海で斎藤勢と戦う。  永禄4年11月頃、小早川隆景らが率いる毛利勢が豊後大友宗麟と北九州で激戦を交える。  永禄4年11月、毛利方の乙明城主福屋隆兼が、所領の扱いを巡る不満から、尼子方に寝返り。小早川隆景ら毛利勢が北九州に出陣していた虚を突く。  永禄4年(1561)、尼子義久、旧領復活を目指し、播磨国内に進行。山中鹿之助は義久の近従として初陣し、上月城を攻撃。これが山中鹿之助と上月城の初めての出会い。  永禄4年、尼子方に寝返った福屋隆兼らが毛利方の邇摩郡温泉津城主吉川経安を攻める。>将軍足利義輝の意向で毛利氏との和睦を望んでいた尼子義久の意志に反したものだった。>これに対し毛利方は川本に兵を進めるとともに、吉川元春が大田に兵を進め、吉川経安を援助。  永禄4年12月、毛利勢が尼子方の福屋隆兼の支配下にあった中村、矢上を落とす。

毛利氏の城下萩(少し探訪)

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山口県萩市須佐からの帰途、萩市内を1時間ほど散策しました。 萩は何度か訪れたことがありますが、今回は1時間という限られた時間の中でこれまでしっかりとみることが出来ていない場所で何かを感じたいと思いました。 写真1枚目は郡司鋳造所遺構広場です。松陰神社の道を挟んで北側です。 ここで大砲を鋳造していたのかと推察しました。 写真2枚目は松蔭神社の入口の鳥居でございます。以前に比べると、周辺の駐車場も整備され、非常にアクセスしやすくなったと感じます。 松陰神社は何度か訪問しましたので、今回は入口でご挨拶のみ。。。 写真3枚目は品川弥二郎の生誕地。 児童公園まではよかったのですが、ゴミステーションになってしまったのはとても残念です。 次は明倫館です。 長州藩が誇る藩校だと認識しています。 現役の小学校の構内にあるというのは連綿と続く長門の徒弟教育のレベルの高さを感じさせていただけます。 明倫館は昔から今の場所にあったものと思っていましたが、最初は他の場所にあったようですね。 少し話がそれますが、司馬遼太郎先生の「十一番目の志士」で主人公が明倫館を訪れるという仮想の場面を思い浮かべました。 最後は萩駅。 当時の近代的な欧米様式をふんだんに取り入れた貴重な駅舎だと思います。 この建物を毎日使って通勤・通学する方々がとても羨ましい。 それほどの価値がある建物だとおもいます。 駅舎の前にある電話ボックスには昔ながらの電話機が設置されており、益々レトロです。 萩の町は本当にいいものが残っています。でも、すこしずつそのいいものが減少しているような気がするのは、拙者の気のせいでしょうか???

山口県萩市須佐のホルンフェルス断層とフィッシングパーク

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本日は山口県萩市須佐町を訪問です。 山口県萩市須佐町の海岸にこのホルンフェルスが断層になって地上に路頭している場所があるそうで、見学に行ってきました。 ホルンフェルスは堆積岩が熱による変質作用を受けて形成された岩石だそうです 詳しくはネットなどで調べてみてくださいf(^_^; また、その近くのフィッシングパークで子供向けの釣り体験イベントが開催されていたので、そちらの方にも参加いたしました。 国道191号線を萩市内から島根県益田方面に向かうとJR須佐駅がありまして、その駅前の信号交差点を左折し、少し細めの道路をナビの案内に従って海方向に走ると、途中にフィッシングパークが、海岸まで出るとホルンフェルスがございます。 まず、ホルンフェルスから(1枚目の写真)。 無料の駐車場に車を置いて、ホルンフェルスのある海岸まで徒歩で向かいます。 ただ、駐車場を下りてすぐの歩道の入口からホルンフェルスの遠景を眺めることができますので、それほど距離はありません。 行く前は、まぁそれほどでもないだろうと、たかをくくっていましたが、見てビックリですd=(^o^)=b 遠くからみてもかなり迫力があり、非常に立派な印象を受けました。 色も鮮やかだし、模様も非常に明瞭で、自然が産み出した偶然の美術作品といってもよいかもしれません。 次はフィッシングパークです。(2枚目の写真) 本日限定だと思うのですが、子供向けのイベントは参加料1000円で、鯛3匹または青物(ハマチ?)1匹まで釣って、お持ち帰り可能というルールでした。 鯛もハマチ?もイベント用として小さな生け簀の中に離しており、その生け簀に釣糸を垂らすという趣向でした。釣竿や糸、エサはパークで用意してくれていますので心配は無用です。 鯛は20cmサイズで、釣糸を垂らすとすぐに食いついてきて、まさに入れ食い状態でした。かなり小さな子供もいましたが、それでも5-10分くらいで規定の3匹を吊り上げて満足して帰っていきます。 ハマチ?はそうはいかないようで、食いつくまでに相当時間がかかっていました。また、サイズについては拙者が見たのは1匹だけなので全体的な傾向はわかりませんが、その1匹は25-30cmサイズでした。 施設の方々が予めハマチの難しさを説明しているので、だいたいの訪

周防国岩国の錦帯橋

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GWの真ん中に周防国岩国の錦帯橋に立ち寄りました。 天気に恵まれたこともあり、結構な人出です。 日本三名橋の一つに数えられる錦帯橋です。 木製のアーチ橋というのはおそらく世界的にも相当珍しいのではないかと思います。 そもそも昔のアーチ橋の設計思想は石材などのブロックをアーチ型に組み合わせて圧縮力でブロック間の力を伝達することによって、橋自体の自重や橋を通行する人や車の荷重を支える構造になっているので、比較的加工の容易な木材でアーチ構造を組むというのは発想としてなかなかないのかもしれません。 しかし、岩国藩は岩国城の足元を流れる錦川が大雨で増水し、岩国城と城下をつなぐ橋が流されたことから、大雨でも流されることのない構造の橋を模索し、辿り着いたのが中国杭州の西湖にかかる連続橋をヒントにした木製アーチ橋だったようです。 最初の完成は1673年(延宝1年)でぢたが、翌1674年の大雨で橋脚が損傷して流失したようです。 しかし、それを反省に、1674年に基礎の石積を補強するという改良を加えて再建した結果、それ以降、現在に至るまで、流出したことはないそうです。 アーチ構造を採用して橋桁と水面のクリアランスを確保するという発想、失敗を糧に工夫・改良を加えて、完成度を高めたことなど、見習うべきところがたくさんあると感じました。 さらには、美しさを兼ね備え、後世に誇れるものとなったというのは、技術者冥利に尽きるのではないでしょうか。 地図に残る仕事は時々ありますが、歴史に残る仕事というのは本当に難しいと思いますね。

950(1560)_==永禄3年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄3年(1560)、吉川元長が元服。加冦は叔父の毛利隆元。  永禄3年2月1日、松永久秀、三好義興が義輝の御供衆となる。  永禄3年2月3日、松永久秀が弾正少弼に任ぜられる。  永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を討ち取る。//蜂須賀小六、前野長康が今川軍に切込み、武功を上げる。  永禄3年12月24日、尼子晴久逝去。享年47歳?嫡男義久が後継。>尼子晴久の逝去を聞いた毛利元就の言葉からは両者の直接対決はなかった模様。  永禄3年、山中鹿之助、甚次郎改め幸盛と称す。  永禄3年、山中鹿之助、尼子義久に従軍し、伯耆国尾高城攻めに参加し、菊地音八を討ち取る。

「視神経乳頭陥凹拡大(緑内障の原因になるそうです)」的な生活

約1年前の人間ドッグで「視神経乳頭陥凹拡大(ししんけいにゅうとうかんおうかくだい)」により要再検査と診断されました。 眼圧が高いことが原因で発生するようです。 このため、近所の眼科を定期的に受診しています(T_T) 初診では、非接触の眼圧検査(眼に風を当てて眼圧を計測する検査?)と眼底写真撮影(人間d)、さらに黒くて丸い紙を使って両目の視野を確認し、最後に接触型の眼圧検査をしました。 眼底写真を見ると、確かに視神経乳頭陥凹と呼ばれる、眼球から視神経が出ていく箇所が周囲に比べて明るく写っていて、陥没しているのがわかります。 この陥凹が広がっていくと、緑内障になって、目が見えなくなるそうです。陥凹が広がるのは、眼圧の上昇や遺伝的な陥凹部の強度などにもよるようです。 ちなみに、拙者も片目ずつで視野の検査をしましたが、確かに陥凹拡大の影響で片目では視界がない部分が存在していることが自覚できました。 さて眼圧はというと、15-16mmHG(?)で一般的な値と比べると少しだけ高いという結果でした。 遺伝的な影響などで 「視神経乳頭」部が比較的弱い場合などもあるようで、眼圧がそれほどでなくても、陥凹拡大の症状がでることはあるようです。 ということで、初診では特段の結論は出ず、経過観察ということになりました。 その後、約3ヶ月ごとに定期検診を受けていましたが、眼圧・陥凹拡大の状況に変化はないようで、至近の検診では、次は半年後くらいに検査ということにまりました。 ちなみに、前回から検診の際に眼底のレーザスキャナのようなものが導入されていました。 これで眼球の厚さの分布などもわかるみたいです( ̄^ ̄) すごいですね!!! ちなみに近視の強い人は眼球が薄くなることが多いということでした。 聞き覚えなので間違っているかもしれません。詳しいことは専門のお医者様に聞いてくださいね。

茄子の酢醤油漬け

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酒の肴によし、子供達のサラダがわりによし♪ 春から夏にかけて最適な爽やかな一品です(^-^)/ 【今回のレベル(司空の独断)】 ・準備:★★★★☆(白髪ネギを刻んだり、茄子を素揚げにしたりと、なかなか手間はかかります。) ・時間:★★★☆☆(揚げ物があるとはいえ、それほどの手間ではありません(^^)) ・技術:★★☆☆☆ 【準備したもの(4-5人分)】 ・茄子…小4-5本 ・ネギ…2分の1 ・酢、醤油、料理酒…適量 【作り方】 ・ネギの表面に縦方向に 表面の繊維に沿って包丁の刃を少し入れ、ネギの皮の部分だけを剥がします。 ・剥がした皮を次は繊維と直角方向に4-5cmくらいの長さに切ります。 ・先程切ったネギの皮を次は皮の繊維方向に細かく千切りにすれば、白髪ネギの出来上がりです。 ・次に、広くて深めのお皿を用意し、深さ1cmくらいを目安に、醤油:酢=1:1くらいの割合で、タレを作ります。 ・お鍋に先程の醤油と酢を混ぜたものを入れ、日本酒を大さじ1-2杯ほど加えて一煮たちさせたあと、火を切ります。 ・先程のお皿に白髪ネギを入れて、タレを入れて、冷ましておきます。 ・次に、茄子を厚さ1cmくらいの輪切りにします。 ・180℃くらいの油で茄子を素揚げにします。茄子の回りに水が付いていると、油が激しく飛び散ります( ̄▽ ̄;)ので、そんな時はクッキングシートで軽く水気を取るとよいです。また、茄子はメチャクチャ油を吸うので、油から揚げるときはしっかりと油を切ってください。 ・クッキングシートで余分な油を落としたら、先程のタレに茄子を浸けてください。 ・15分も浸けておけば、十分に茄子にタレが染み込みます(^_^)/ →ニンニクの微塵切りや、白髪ネギを作ったあとのネギの芯の部分の微塵切りをタレに混ぜてもOKですo(^o^)o