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ぶっかけうどん 大円

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本日はぶっかけうどん大円に行って参りました。 このうどん店は、安部首相が立ち寄って、四国新聞に掲載されました。 以前から一度行ってみたいなあと思っていたのですが、漸く機会に恵まれました。 普通、初めての店では「かけ」を頼むのですが、店の前にある幟に「ぶっかけうどん」と書いてあるので、今日は「ぶっかけ」でいきました。 店はこじんまりとした佇まいです。(はっきり記憶していませんが、テーブル席が5〜6席×6人掛けとカウンター席) 麺は、比較的太いめんで、まわりはすこし柔らかく、芯がしっかりして、歯触りがよく、しかも、こしを感じさせてくれます。 ぶっかけ出汁はすっきり、あっさりした味わいで、口から喉にすっーと入っていく感じで、とっても美味でした。 大円はセルフ店ではないので、トッピングはありません。最初からスタミナぶっかけ(肉がメイントッピング)、スペシャルぶっかけ(エビ天がメイントッピング)などがありました。 拙者はトッピングの代わりにおでんをセルフで2本、すじ肉と焼き豆腐をいただきました。特に焼き豆腐は濃い目の出汁が十分に染み込んでいて、これもまた美味、美味。 ほかに、安部総理スペシャルというのもあり、こちらは沢山のトッピングが載せられているようです。

砂ずりのガーリックマーガリン炒め

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酒の肴によく合う砂ずりですが、本日はニンニクと炒めてみました。 【用意したもの】(一回の晩酌分程度) ・砂肝:200gくらい ・にんにく:1欠片 ・マーガリン:適量 【レベル】 ・準備:★★★☆☆(砂肝をスライスする時間でーす(^^)/) ・時間:★★★☆☆(砂肝スライスと炒める時間でーす(^^)/) ・技術:★★☆☆☆(切って、味を付けて、混ぜて、炒めるだけなので、特段の技術は不要でーす(^^)/) 【作り方】 ・砂肝は厚さ3-5mm程度にスライスしておきます。(味付けの観点、火の通りの観点から厚さ3-5mmくらいがちょうどよいと思っています。) ・フライパンにマーガリンを2さじほど入れ、火にかけます。 ・マーガリンが溶け始めるくらいのタイミングでニンニクを入れ、弱火でじっくりと火を通します。(ニンニクはじっくりと火を通して香りと味を十分に出すのが基本です。) ・ニンニクの香りがマーガリンに移ったら、砂ずりを投入して中火で炒めます。途中、塩コショウをして味を整えます。 ・砂ずりに十分火が通ったら、完成です! ニンニクの香りが食欲とお酒を誘います。子供たちにも大人気!

チキン南蛮

唐揚げばかりでは飽きてしまうので、ネット情報を参考にしながら、チキン南蛮を作ってみました。 【用意したもの】(五人分+α) ※本体 ・鶏の胸肉:700g(もも肉の方が味があって美味しいですが、経済性を考えて胸肉を選択!) ・卵:1〜3個 ・小麦粉:適量 ※南蛮酢(それぞれ適量) ・醤油:大さじ5〜6 ・酢: 大さじ5〜6 ・砂糖:大さじ2〜3 ・みりん:少々 ※タルタルソース ・マヨネーズ:適量 ・酢:適量 ・人参:適量 ・玉ねぎ:適量 ・水菜:適量(キュウリもOK!) ・ゆで卵:1〜2個 【レベル】 ・準備:★★★★☆(タルタルソースのみじん切りがまぁまぁ手間と言えば手間ですねぇ〜) ・時間:★★★★☆(揚げ物ですから、時間は少々かかります) ・技術:★★★★☆(味の決め手は南蛮酢とタルタルソースでーす) 【作り方】 ・鶏肉を一口大に切って、塩コショウをして下味をつけ、小麦粉を全体にまぶして置きます。(鶏肉は切らなくてもいいですが、私は一口大に切って、南蛮酢やタルタルソースとよく絡まるようにしておく方が好みです) ・鍋かフライパンに南蛮酢の材料を入れて、一煮立ちさせます。 ・溶き卵に鶏肉をくぐらせて、低温〜中温の油でじっくりと揚げていきます。揚がったら油を切り、南蛮酢に浸けておきます。 ・揚げ物を続けながら、タルタルソースを作ります。まず、野菜とゆで卵を全て細かくみじん切りにします。野菜とゆで卵を深めの鉢(どんぶりのような食器がよいと思います)に入れ、材料全体が浸かる程度にお酢を入れます。塩コショウで味を整え、最後にマヨネーズでお好みの味に仕上げてください。私は具沢山のタルタルソースが大好きです。 あとは南蛮酢に浸けておいた鶏肉を皿に盛り、タルタルソースをかければできあがり。 我が家では、みんな、美味しいと喜んでいました。

950(1580)_==天正8年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正8年(1580)、対馬の僧玄蘇、宗氏の依頼を受け朝鮮を訪問。  天正8年(1580)、佐久間信盛、織田信長から追放され、高野山に追われる。//この後、高野山も追放され、熊野の奥に蟄居を命じられる。  天正8年(1580)、林通勝、織田信長から追放される。//弘治2年(1560)に織田信長の弟織田信行を立てようとした罪にて。  天正8年(1580)1月2日、大坂石山本願寺に下向していた正親町天皇の勅使庭田重保と観修寺晴豊が、京に戻り参内して、和睦の成行きを奉答  天正8年(1580)1月6日、羽柴秀吉、自ら兵を率いて播磨三木城で最も高い場所にある宮ノ上砦を占領。以後、同砦から三木城を攻撃。城内は既に飢餓状態③  天正8年1月17日、播磨三木城主別所長治が、三木城落城にあたり、羽柴秀吉に対して兵の助命を条件に、城主別所長治や弟友之、叔父賀相とともに自害//長治、享年23歳  天正8年1月17日、羽柴秀吉が、別所長治の播磨三木城を二年半の城攻めの末に、攻略//城 天正8年2月、織田方の細川藤孝・忠興父子が、丹後八幡城(京都府宮津市宮村)を攻略し、一色義定を降伏させる//丹後が織田信長の支配下となる  天正8年(1580)、羽柴秀吉、亀井茲矩に因幡国鹿野城の守備を命じ、毛利勢に包囲されつつもこれを死守。  天正8年2月、織田信長、村井貞勝に本能寺の修理を命じる。  天正8年3月1日、正親町天皇の勅使として前関白近衛前久と庭田重保、観修寺晴豊が大坂石山本願寺に下向//目付として織田方の松井友閑と佐久間信盛が同行//教如(23歳)が大坂の明け渡しに大反対し、下間頼廉がこれに同調するとともに、寺内町六千戸、一万人の町衆も反対したため、容易に決着せず  天正8年3月1日、織田信長が大和郡山に出陣し、その先鋒が河内の萱振にある恵光寺(浄土真宗)とその寺内町を焼き払う//石山本願寺に対する示威行動  天正8年3月2日、実悟(蓮如の実子、89歳)が、河内門真において「本願寺作法之次第」を書き上げる  天正8年3月3日、織田信長が、摂津有岡に立ち寄る  天正8年3月