>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_<
>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<
天正8年(1580)、対馬の僧玄蘇、宗氏の依頼を受け朝鮮を訪問。
天正8年(1580)、佐久間信盛、織田信長から追放され、高野山に追われる。//この後、高野山も追放され、熊野の奥に蟄居を命じられる。
天正8年(1580)、林通勝、織田信長から追放される。//弘治2年(1560)に織田信長の弟織田信行を立てようとした罪にて。
天正8年(1580)1月2日、大坂石山本願寺に下向していた正親町天皇の勅使庭田重保と観修寺晴豊が、京に戻り参内して、和睦の成行きを奉答
天正8年(1580)1月6日、羽柴秀吉、自ら兵を率いて播磨三木城で最も高い場所にある宮ノ上砦を占領。以後、同砦から三木城を攻撃。城内は既に飢餓状態③
天正8年1月17日、播磨三木城主別所長治が、三木城落城にあたり、羽柴秀吉に対して兵の助命を条件に、城主別所長治や弟友之、叔父賀相とともに自害//長治、享年23歳
天正8年1月17日、羽柴秀吉が、別所長治の播磨三木城を二年半の城攻めの末に、攻略//城 天正8年2月、織田方の細川藤孝・忠興父子が、丹後八幡城(京都府宮津市宮村)を攻略し、一色義定を降伏させる//丹後が織田信長の支配下となる
天正8年(1580)、羽柴秀吉、亀井茲矩に因幡国鹿野城の守備を命じ、毛利勢に包囲されつつもこれを死守。
天正8年2月、織田信長、村井貞勝に本能寺の修理を命じる。
天正8年3月1日、正親町天皇の勅使として前関白近衛前久と庭田重保、観修寺晴豊が大坂石山本願寺に下向//目付として織田方の松井友閑と佐久間信盛が同行//教如(23歳)が大坂の明け渡しに大反対し、下間頼廉がこれに同調するとともに、寺内町六千戸、一万人の町衆も反対したため、容易に決着せず
天正8年3月1日、織田信長が大和郡山に出陣し、その先鋒が河内の萱振にある恵光寺(浄土真宗)とその寺内町を焼き払う//石山本願寺に対する示威行動
天正8年3月2日、実悟(蓮如の実子、89歳)が、河内門真において「本願寺作法之次第」を書き上げる
天正8年3月3日、織田信長が、摂津有岡に立ち寄る
天正8年3月17日、織田信長が、大坂退去に難色を示す石山本願寺に対して、大坂退去だけは絶対に譲れない旨を勅使に伝え、血判書を勅使に差し出す
天正8年、織田信長が、正親町天皇の勅使として大坂に下っている近衛前久に、石山本願寺の大坂退去は7月の盆以前に完了すること、退去後に背信が無ければ、加賀の江沼・能美二郡は返付すること、退去とともに尼崎・花隈二城を明け渡すことなど七カ条の最終条件を手紙にして送付
天正8年閏3月2日、織田方の池田信輝が、石山本願寺方が籠る摂津花隈城を攻撃//織田方の石山本願寺に対する示威行動
天正8年閏3月3日、朝廷が、本願寺顕如らに対して、織田方との和睦について「思うことがあれば正直に申し出るように」と諭す
天正8年閏3月5日、本願寺顕如が、織田信長が提示した、石山本願寺の大坂退去は7月の盆以前に完了すること、退去後に背信が無ければ、加賀の江沼・能美二郡は返付すること、退去とともに尼崎・花隈二城を明け渡すことなど七カ条を受諾し、勅使に宛てて、「当寺御赦免に成られるに付き、七カ条之通り御別儀有る可からざる由、恐悦之至り候、…」との書状を提出//下間仲之わ織田方との和睦派、下間頼廉は反対派
天正8年閏3月5日、石山本願寺の下間仲之・頼竜・頼廉(浄土真宗)が、織田方とに和睦にあたり、織田方から提示された条件を全て表裏なく履行すること、織田方から人質をとるが大坂を無事に退出すれば返すことなどを約束した血判の誓紙を、勅使に提出
天正8年閏3月6日、織田方の青山虎が、安土から大坂に到着
天正8年閏3月7日、石山本願寺が、織田方の青山虎に誓紙を提出し、祝儀として織田信長から末松山の盆石や一文字茶碗などが贈られる
天正8年閏3月9日、織田方の柴田勝家が、加賀を北上し、野々市(石川県石川郡野々市町本町)と気越(石川県石川郡金沢市木越)において門徒衆を多いに破る//石山本願寺が和睦を受諾した直後
天正8年閏3月11日、織田信長が、佐久間信盛と九鬼義隆に大坂の海陸の封鎖解除を、加賀の柴田勝家や播磨の羽柴秀吉にも矢留を命じる//本願寺顕如も、各地の門徒に停戦の指令を発信
天正8年閏3月11日、織田信長が、加賀の返付について石山本願寺宛に朱印状を送る//加賀の柴田勝家は進撃して北上を続けており、信長は加賀を返付するつもりはなかったことも考えられる
天正8年閏3月11日、織田信長と石山本願寺が朝廷の斡旋により和睦する。//この際、坊官の下間仲之、下間頼廉、下間頼龍が本願寺側代表として講和の誓紙に署名血判。
天正8年閏3月13日、本願寺教如が、織田方の柴田勝家が加賀に進撃しているとの報せを受けて激昂し、「当寺を彼方へ相あたし退出候はば、表裏は眼前に候、左様に候ときは、数代聖人の御座ところを、かの者共の馬のひづめにかけし果てんこと、あまりにあまりにくちおしく嘆き入り候」との書状を雑賀衆に送る
天正8年閏3月20日、本願寺宗主顕如上人が坊官の下間頼廉、頼龍、仲之の三人に宛てて、子々孫々まで責任を持つ旨の書状を発信。
天正8年閏3月25日、本願寺顕如が、織田信長の加賀侵攻に憤る息子教如に対して、「此所にをき身命を果て候へば、一流断絶之事、あさましく候て、」と諭す
天正8年4月、羽柴秀吉、西播州平定のため、姫路城を根拠地とし、三木通秋が守る英賀城と赤松氏の一族宇野祐清が守る長水山城を攻め、4月下旬から5月初旬にかけてこれらを陥落。⇒英賀城城下の町人・百姓の大半を除名し、姫路城下に呼び寄せる。長水山城落城時には、兄弟一類被官以下迄残らず斬首した(紀伊続風土記)とある。
天正8年4月1日、本願寺顕如が、織田方の柴田勝家の軍勢が金沢に迫って火を放ったことに対して抗戦している門徒衆に、加賀は返付される約束であることを理由に自重を求める
天正8年4月2日、本願寺教如が、加賀と能登の門徒衆に対して、反織田の決起を促す
天正8年4月、織田信長と石山本願寺の和睦が破れることを心配した朝廷が、誠仁(さねひと)親王を石山本願寺に派遣し、大坂退去を急がせる//信長の提示した条件は7月の盆前までに退去することとなっていた//顕如は安芸への下向について毛利氏に相談したが、宇喜多直家の寝返りを理由に毛利氏が拒んだため、紀州鷺森に退去することに決する//顕如は、大坂退去は勅命であり踏みとどまれば宗門は破滅すると説得したが、教如は聞き入れず、親鸞の御座所で相果てる所存といい、親鸞の御影を大坂に残せと要求したが、顕如がこれを拒否
天正8年4月8日、本願寺顕如が、織田信長に対して大坂退去を通告し、雑賀が迎え船を用意//合わせて残りの者も7月中旬までに退去することを伝える
天正8年4月9日、未明、本願寺顕如が、親鸞の御影を奉じて大坂石山本願寺を退去し、渡辺の津へ向かう//内室や幼い准如らが同行//顕如38歳//渡辺の津から雑賀の鈴木孫市らが警固する迎え船に乗船//織田信長は、佐久間信盛や九鬼義隆にこれを警固させる//教如は、富田教行寺証誓・堅田慈敬寺証智・下間頼竜・太田源三大夫らの雑賀衆が大坂に残留
天正8年4月10日、本願寺顕如らが、雑賀の迎え船で紀伊鷺森に到着
天正8年4月、大坂に残留した本願寺教如が、諸国の門徒に対し、顕如は旅に出ただけで、親鸞の御影は大坂にあるとの書状を送付
天正8年4月15日、紀伊鷺森の本願寺顕如が、越中をはじめ諸国の門徒に対し「新門主不慮之企、并いたづら者のいひなしに同心せられ、…」と書き、同心しないよう命じるとともに、親鸞の御影は鷺森に移したことを伝える
天正8年4月23日、織田方の柴田勝家の軍勢が加賀の金沢御坊(浄土真宗)を攻略//佐久間盛政が金沢御坊に入る
天正8年5月3日、織田信長が、大坂を退去しない本願寺教如に憤り、諸国に石山本願寺に助勢することを禁じるよう布告
天正8年、本願寺顕如が、大坂を退去しない息子教如と義絶
天正8年6月24日、長宗我部元親、明智光秀を奏者として鷹16聯と砂糖3千斤を織田信長に贈る。
天正8年7月2日、織田方の池田信輝が、門徒衆の残党が籠る摂津花隈城を力攻めで攻略//花隈城に逃げ込んでいた荒木村重は毛利氏を頼って尾道に逃れる//続いて摂津尼崎城も落城
天正8年7月2日、本願寺顕如が、藤井左衛門ら三人を使者として安土に派遣し、今回の和睦を周旋した勅使達とともに信長に拝謁して盛国の太刀と馬代銀千両(1億円くらい?)を贈る//信長は返礼として黄金三百両(3億円くらい?)
天正8年7月13日、織田方の軍勢が、石山本願寺の直近東南方向にある辻(大阪市旭区清水)と安田(大阪市鶴見区安田)の砦を攻略//これを見て、本願寺教如も、織田信長に屈し、鷺森の顕如に知らせるとともに、近衛前久を通じて和睦を申し入れる
天正8年7月17日、織田信長が、本願寺教如に和睦の条件を提示//先の七カ条とほぼ同一で、唯一、町衆を現状のまま立ち置くとの条件が加えられた
天正8年7月18日、織田信長が、石山本願寺攻めの最前線にいる筒井順慶に停戦を命じる
天正8年7月24日、近衛前久が、織田信長と本願寺教如の間の講話に関する覚書を教如に送付//退去の期限は8月10日とされた
天正8年8月2日、織田方の矢部善七郎が、大坂石山本願寺受け取りの使者として、石山に入る
天正8年8月2日、未の刻、本願寺教如が、大坂石山本願寺を退去//23歳//懐に名物の茶碗を一つだけ入れ、従者七人とともに、雑賀からの迎え船に乗り込む//その日のうちに石山本願寺から火の手が上がり、堂塔伽藍と寺内町に燃え広がり、2日一晩燃え続け、石山本願寺と寺内町六千戸の悉くが焼失した//教如は和泉佐野に落ちる
天正8年8月2日、織田信長が石山本願寺に火をかけ、焼亡。
天正8年10月18日、羽柴秀吉、播州龍野で楽市楽座を認める文書を発行
>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<
天正8年(1580)、対馬の僧玄蘇、宗氏の依頼を受け朝鮮を訪問。
天正8年(1580)、佐久間信盛、織田信長から追放され、高野山に追われる。//この後、高野山も追放され、熊野の奥に蟄居を命じられる。
天正8年(1580)、林通勝、織田信長から追放される。//弘治2年(1560)に織田信長の弟織田信行を立てようとした罪にて。
天正8年(1580)1月2日、大坂石山本願寺に下向していた正親町天皇の勅使庭田重保と観修寺晴豊が、京に戻り参内して、和睦の成行きを奉答
天正8年(1580)1月6日、羽柴秀吉、自ら兵を率いて播磨三木城で最も高い場所にある宮ノ上砦を占領。以後、同砦から三木城を攻撃。城内は既に飢餓状態③
天正8年1月17日、播磨三木城主別所長治が、三木城落城にあたり、羽柴秀吉に対して兵の助命を条件に、城主別所長治や弟友之、叔父賀相とともに自害//長治、享年23歳
天正8年1月17日、羽柴秀吉が、別所長治の播磨三木城を二年半の城攻めの末に、攻略//城 天正8年2月、織田方の細川藤孝・忠興父子が、丹後八幡城(京都府宮津市宮村)を攻略し、一色義定を降伏させる//丹後が織田信長の支配下となる
天正8年(1580)、羽柴秀吉、亀井茲矩に因幡国鹿野城の守備を命じ、毛利勢に包囲されつつもこれを死守。
天正8年2月、織田信長、村井貞勝に本能寺の修理を命じる。
天正8年3月1日、正親町天皇の勅使として前関白近衛前久と庭田重保、観修寺晴豊が大坂石山本願寺に下向//目付として織田方の松井友閑と佐久間信盛が同行//教如(23歳)が大坂の明け渡しに大反対し、下間頼廉がこれに同調するとともに、寺内町六千戸、一万人の町衆も反対したため、容易に決着せず
天正8年3月1日、織田信長が大和郡山に出陣し、その先鋒が河内の萱振にある恵光寺(浄土真宗)とその寺内町を焼き払う//石山本願寺に対する示威行動
天正8年3月2日、実悟(蓮如の実子、89歳)が、河内門真において「本願寺作法之次第」を書き上げる
天正8年3月3日、織田信長が、摂津有岡に立ち寄る
天正8年3月17日、織田信長が、大坂退去に難色を示す石山本願寺に対して、大坂退去だけは絶対に譲れない旨を勅使に伝え、血判書を勅使に差し出す
天正8年、織田信長が、正親町天皇の勅使として大坂に下っている近衛前久に、石山本願寺の大坂退去は7月の盆以前に完了すること、退去後に背信が無ければ、加賀の江沼・能美二郡は返付すること、退去とともに尼崎・花隈二城を明け渡すことなど七カ条の最終条件を手紙にして送付
天正8年閏3月2日、織田方の池田信輝が、石山本願寺方が籠る摂津花隈城を攻撃//織田方の石山本願寺に対する示威行動
天正8年閏3月3日、朝廷が、本願寺顕如らに対して、織田方との和睦について「思うことがあれば正直に申し出るように」と諭す
天正8年閏3月5日、本願寺顕如が、織田信長が提示した、石山本願寺の大坂退去は7月の盆以前に完了すること、退去後に背信が無ければ、加賀の江沼・能美二郡は返付すること、退去とともに尼崎・花隈二城を明け渡すことなど七カ条を受諾し、勅使に宛てて、「当寺御赦免に成られるに付き、七カ条之通り御別儀有る可からざる由、恐悦之至り候、…」との書状を提出//下間仲之わ織田方との和睦派、下間頼廉は反対派
天正8年閏3月5日、石山本願寺の下間仲之・頼竜・頼廉(浄土真宗)が、織田方とに和睦にあたり、織田方から提示された条件を全て表裏なく履行すること、織田方から人質をとるが大坂を無事に退出すれば返すことなどを約束した血判の誓紙を、勅使に提出
天正8年閏3月6日、織田方の青山虎が、安土から大坂に到着
天正8年閏3月7日、石山本願寺が、織田方の青山虎に誓紙を提出し、祝儀として織田信長から末松山の盆石や一文字茶碗などが贈られる
天正8年閏3月9日、織田方の柴田勝家が、加賀を北上し、野々市(石川県石川郡野々市町本町)と気越(石川県石川郡金沢市木越)において門徒衆を多いに破る//石山本願寺が和睦を受諾した直後
天正8年閏3月11日、織田信長が、佐久間信盛と九鬼義隆に大坂の海陸の封鎖解除を、加賀の柴田勝家や播磨の羽柴秀吉にも矢留を命じる//本願寺顕如も、各地の門徒に停戦の指令を発信
天正8年閏3月11日、織田信長が、加賀の返付について石山本願寺宛に朱印状を送る//加賀の柴田勝家は進撃して北上を続けており、信長は加賀を返付するつもりはなかったことも考えられる
天正8年閏3月11日、織田信長と石山本願寺が朝廷の斡旋により和睦する。//この際、坊官の下間仲之、下間頼廉、下間頼龍が本願寺側代表として講和の誓紙に署名血判。
天正8年閏3月13日、本願寺教如が、織田方の柴田勝家が加賀に進撃しているとの報せを受けて激昂し、「当寺を彼方へ相あたし退出候はば、表裏は眼前に候、左様に候ときは、数代聖人の御座ところを、かの者共の馬のひづめにかけし果てんこと、あまりにあまりにくちおしく嘆き入り候」との書状を雑賀衆に送る
天正8年閏3月20日、本願寺宗主顕如上人が坊官の下間頼廉、頼龍、仲之の三人に宛てて、子々孫々まで責任を持つ旨の書状を発信。
天正8年閏3月25日、本願寺顕如が、織田信長の加賀侵攻に憤る息子教如に対して、「此所にをき身命を果て候へば、一流断絶之事、あさましく候て、」と諭す
天正8年4月、羽柴秀吉、西播州平定のため、姫路城を根拠地とし、三木通秋が守る英賀城と赤松氏の一族宇野祐清が守る長水山城を攻め、4月下旬から5月初旬にかけてこれらを陥落。⇒英賀城城下の町人・百姓の大半を除名し、姫路城下に呼び寄せる。長水山城落城時には、兄弟一類被官以下迄残らず斬首した(紀伊続風土記)とある。
天正8年4月1日、本願寺顕如が、織田方の柴田勝家の軍勢が金沢に迫って火を放ったことに対して抗戦している門徒衆に、加賀は返付される約束であることを理由に自重を求める
天正8年4月2日、本願寺教如が、加賀と能登の門徒衆に対して、反織田の決起を促す
天正8年4月、織田信長と石山本願寺の和睦が破れることを心配した朝廷が、誠仁(さねひと)親王を石山本願寺に派遣し、大坂退去を急がせる//信長の提示した条件は7月の盆前までに退去することとなっていた//顕如は安芸への下向について毛利氏に相談したが、宇喜多直家の寝返りを理由に毛利氏が拒んだため、紀州鷺森に退去することに決する//顕如は、大坂退去は勅命であり踏みとどまれば宗門は破滅すると説得したが、教如は聞き入れず、親鸞の御座所で相果てる所存といい、親鸞の御影を大坂に残せと要求したが、顕如がこれを拒否
天正8年4月8日、本願寺顕如が、織田信長に対して大坂退去を通告し、雑賀が迎え船を用意//合わせて残りの者も7月中旬までに退去することを伝える
天正8年4月9日、未明、本願寺顕如が、親鸞の御影を奉じて大坂石山本願寺を退去し、渡辺の津へ向かう//内室や幼い准如らが同行//顕如38歳//渡辺の津から雑賀の鈴木孫市らが警固する迎え船に乗船//織田信長は、佐久間信盛や九鬼義隆にこれを警固させる//教如は、富田教行寺証誓・堅田慈敬寺証智・下間頼竜・太田源三大夫らの雑賀衆が大坂に残留
天正8年4月10日、本願寺顕如らが、雑賀の迎え船で紀伊鷺森に到着
天正8年4月、大坂に残留した本願寺教如が、諸国の門徒に対し、顕如は旅に出ただけで、親鸞の御影は大坂にあるとの書状を送付
天正8年4月15日、紀伊鷺森の本願寺顕如が、越中をはじめ諸国の門徒に対し「新門主不慮之企、并いたづら者のいひなしに同心せられ、…」と書き、同心しないよう命じるとともに、親鸞の御影は鷺森に移したことを伝える
天正8年4月23日、織田方の柴田勝家の軍勢が加賀の金沢御坊(浄土真宗)を攻略//佐久間盛政が金沢御坊に入る
天正8年5月3日、織田信長が、大坂を退去しない本願寺教如に憤り、諸国に石山本願寺に助勢することを禁じるよう布告
天正8年、本願寺顕如が、大坂を退去しない息子教如と義絶
天正8年6月24日、長宗我部元親、明智光秀を奏者として鷹16聯と砂糖3千斤を織田信長に贈る。
天正8年7月2日、織田方の池田信輝が、門徒衆の残党が籠る摂津花隈城を力攻めで攻略//花隈城に逃げ込んでいた荒木村重は毛利氏を頼って尾道に逃れる//続いて摂津尼崎城も落城
天正8年7月2日、本願寺顕如が、藤井左衛門ら三人を使者として安土に派遣し、今回の和睦を周旋した勅使達とともに信長に拝謁して盛国の太刀と馬代銀千両(1億円くらい?)を贈る//信長は返礼として黄金三百両(3億円くらい?)
天正8年7月13日、織田方の軍勢が、石山本願寺の直近東南方向にある辻(大阪市旭区清水)と安田(大阪市鶴見区安田)の砦を攻略//これを見て、本願寺教如も、織田信長に屈し、鷺森の顕如に知らせるとともに、近衛前久を通じて和睦を申し入れる
天正8年7月17日、織田信長が、本願寺教如に和睦の条件を提示//先の七カ条とほぼ同一で、唯一、町衆を現状のまま立ち置くとの条件が加えられた
天正8年7月18日、織田信長が、石山本願寺攻めの最前線にいる筒井順慶に停戦を命じる
天正8年7月24日、近衛前久が、織田信長と本願寺教如の間の講話に関する覚書を教如に送付//退去の期限は8月10日とされた
天正8年8月2日、織田方の矢部善七郎が、大坂石山本願寺受け取りの使者として、石山に入る
天正8年8月2日、未の刻、本願寺教如が、大坂石山本願寺を退去//23歳//懐に名物の茶碗を一つだけ入れ、従者七人とともに、雑賀からの迎え船に乗り込む//その日のうちに石山本願寺から火の手が上がり、堂塔伽藍と寺内町に燃え広がり、2日一晩燃え続け、石山本願寺と寺内町六千戸の悉くが焼失した//教如は和泉佐野に落ちる
天正8年8月2日、織田信長が石山本願寺に火をかけ、焼亡。
天正8年10月18日、羽柴秀吉、播州龍野で楽市楽座を認める文書を発行
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