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5月, 2013の投稿を表示しています

950(1552)_==天文21年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文21年(1551)、下間仲之が生まれる。//下間仲之は、親鸞の直弟子蓮位房法阿の直系の子孫で代々本願寺の坊官を務め下間少進と称した家系で、後に石山本願寺の最高幹部の一人として顕如を助けて活躍した。  天文21年(1552)1月、室町第13代将軍足利義藤(のちに改名して義輝)が、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻る。(天文18年に京を追われていた)  天文21年(1552)1月10日、関東管領上杉憲政が小田原城(神奈川県小田原市)城主北条氏康に敗れ、長尾景虎を頼って上野国平井城(群馬県藤岡市)から逃亡する。//景虎は、平子(タイラク)孫太郎と庄田定賢らを沼田城(群馬県沼田市)に派遣。  天文21年(1552)3月3日、陶隆房が大友宗麟の弟晴秀を大内家当主として山口に迎える。/前年9月に大内義隆を討取ったことを考えると若干遅めか。  天文21年(1552)3月3日、織田信秀逝去。享年42歳。当時19歳の織田信長が跡目を相続。織田信長は三男ながら嫡出だった。  天文21年(1552)4月2日、尼子晴久、室町幕府から出雲/隠岐/因幡/伯耆/備前/美作/備後/備中の守護職の補任を受ける。>大内氏が陶晴賢の謀叛のため混乱していた。>この時には既に毛利元就は次男元春が吉川家を、三男隆景が竹原・沼田の両小早川家を相続させていた。  天文21年(1551)4月23日、長尾景虎(後の上杉謙信)が、百五代後奈良天王から従五位下弾正少弼に叙任される。  天文21年、尼子晴久(詮久)が出雲大社の掟を定める。  天文21年6月、長尾景虎が、上洛の安全を確保するため、越前の朝倉宗滴(教景)に鷹と鳥屋(鳥籠)を贈る。  天文21年(1552)6月20日、長尾景虎が、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政の失地回復のため、平子(タイラク)孫太郎、庄田定賢らを沼田城(群馬県沼田市)に派遣する。  天文21年7月、毛利元就が備後滝山城(深安郡志川:城主宮光音氏)を攻め落とす。  天文21

950(1551)_==天文20年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文20年(1551)8月1日、長尾景虎が、天文19年に謀反した坂戸城主長尾政景に誓詞を送り、降伏する。//長尾政景は天文19年12月に謀反。//景虎は長尾政景が義兄であること、老臣たちの切なる助命嘆願があったので、許して臣下とした。  天文201年(1551)8月29日、大内氏重臣陶隆房が謀反の旗を揚げ、周防富田の若山城を出陣。午の刻(正午頃)山口に突入。杉重矩・内藤興盛らとともに法泉寺を攻める。  天文201年9月1日、大内義隆、陶隆房の叛乱・追撃により長門深川の大寧寺で自害。享年45歳。//武功夜話では天文18年9月1日に大内義隆が長門国大寧寺で自害とある。  天文20年12月、上杉景虎が、上洛の安全を確保するため、近江の六角定頼に太刀と鷹を贈る。

950(1550)_==天文19年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文19年(1550)、毛利元就、有力家臣の井上衆を専横のかどで誅伐。  天文19年(1550)、尼子晴久(詮久)、出雲大社の遷宮を執行。  天文19年(1550)2月26日、越後守護上杉定実が逝去。法名永徳院殿天仲玄清。越後守護上杉家は断絶。  天文19年(1550)2月28日、長尾景虎が室町十三代将軍足利義輝から白傘袋(シロガサブクロ)と毛氈の鞍覆(クラオオイ)の使用を許される。//事実上の国主待遇。  天文19年5月、室町第12代将軍・足利義晴が近江常在寺にて死去。  天文19年12月、越後守護代長尾一族の長尾政景(景虎の姉仙桃院の嫁ぎ先で、仙桃院は後の上杉景勝の母となる)が坂戸城(南魚沼郡六日町)に立て籠もり、謀反する。//長尾景虎(のちの上杉謙信)の母の実家である栖吉長尾家の勢力拡大に長尾政景が不満を覚えたことなどが理由か?

大阪マラソン&神戸マラソンエントリー(^^)/

かなり以前に大阪マラソンにエントリーしていたのですが、本日、神戸マラソンへのエントリーを完了しました。 神戸マラソンのエントリー締め切りが5/20までだったので、気付いてよかったー(^^; 大阪マラソンは15万人を超えるエントリーがあったみたいですね。 神戸マラソンもエントリー開始3日後の4/23時点で定員1万8千人を超えたようなので、こちらも相当な数のエントリーになるものと想像されます。 去年は高知龍馬マラソンでしたが、今年は都会のマラソンに当たるかなぁ?

AndoroidスマホとiPadとWINパソコンで文書編集主体のクラウド活用!

ライフワークの小説執筆と戦国歴史年表の作成、それに、blog更新などなど、文書作成・修正の時間を可能な限り確保したいという状況で、これまで、Andoroid端末を中心にして各種作業を進めてきましたが、Andoroid端末ではどうしても入力に時間がかかるので、クラウドを使って、Andoroid端末でもパソコンでもWifi仕様のIPadでも作業ができる環境を整えたいと考え、自分の理想に近いシステムを検討しました。 まず、自分の環境は、 ○歴史年表は変更履歴を残しておきたいので、変更履歴の記録機能があるワープロソフトを使用。 ○小説執筆は以前よりAndoroid端末を中心にテキストファイルで作成・編集 ○ブログは主にGmailを使用して投稿し、編集・整理作業をパソコンで実施 という状況です。 歴史年表の変更履歴の記録については使い慣れたMS-Wordの機能が使い勝手がよいので、この方針は変えないこととし、Ipad、Andoroidでの編集は断念します。 小説の執筆は柔軟性を重視し、テキスト形式は基本としているので、基本的にはどの端末でも編集可能にしたいと思っていました。 クラウドのシステムはネットで検索したところ、 ・GoogleDrive ・Dropbox ・AUcroud を発見しましたが、AUcroudについては写真や画像を中心としたクラウドで文書の編集はできそうにない(もし、できるようならすいません。ただ、説明を読んだ限りでは文書の編集ができるようには思えませんでした。)。メジャー路線でGoogleDriveはDrive用ファイルは編集できるのですが、テキストファイルの編集がうまくできませんでした。Drive用のファイルで編集すればよいとも考えましたが、Andoroid用のGoogleDriveは容量が大きすぎて拙者の本体容量の小さいSonyExperiaにはあまりにもしんどすぎました。 最後はDropboxに辿り着きました。しかし、DropboxはiPad側にテキストエディターが必要ということが判明!このiPad用のテキストエディターを探すのになかなか時間がかかり、一旦は諦めかけていたのですが、気を取り直して再度ネットで調べ直してみると、無料の「iテキストエディター」というテキストエディターを発見! D

950(1549)_==天文18年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文18年(1549)、三好長慶、遊佐長教(長慶の岳父)が、細川高国の養子氏綱を擁立し、細川晴元家臣三好政長(晴元の軍事面を支えていた)を摂津榎並で討ち取る(江口の戦い)。  天文18年6月、三好長慶・細川氏綱が、足利義晴・義藤(のち改名して義輝)父子、細川晴元を京都から再び追う。将軍父子は近江坂本に逃亡し、常在寺に留まる。  天文18年(1549)9月4日、毛利勢が尼子方の山名理興の備後本城を落とす。⇒山名理興は出雲に走り、備後の尼子勢力の一大拠点が消滅。  天文18年冬頃、大内氏重臣の陶隆房が謀反の準備を進め、重臣杉重矩、内藤興盛もこれに賛同。武断派の三重臣が謀反に賛同。

950(1548)_==天文17年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文17年(1548)、吉川元長誕生。幼名鶴寿丸、長じて、少輔次郎と名乗る。父は吉川元春で嫡男。  天文17年(1548)12月30日、長尾景虎(越のちの上杉謙信)が、越後守護上杉定実の調停で、栃尾城から春日山城に入って兄晴景と「父子の義」を結び、守護代長尾家を相続。

950(1547)_==天文16年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文16年(1547)、武田信玄が甲州法度之次第を制定。  天文16年(1547)、吉川経家が生まれる。

磁場の井戸:第三章 水牢(一)/長編歴史小説

第三章 水牢 「秀吉が近隣の在所に土俵一俵を銭一〇文・米一升で買い上げるとの触れを出しました。」 天正一〇年四月二八日深更、七郎次郎は高松城の北に連なる山稜に走る細い杣道を忍び、城の周囲を包む沼沢の芦葦に身を隠しながら、深田の畦を駆け抜け、宗治のもとに秀吉の珍奇な触を伝えた。 「どの在所も半信半疑の様子でございます。おちおち持っていくと殺されるのではないかなどと話し合っております。」 宗治も、古今、聞いたこともない奇妙な触れに興味を持ったが、土俵ごときを銭と米で購うという秀吉の突拍子もない行動については解しかねた。 「土が銭と米に化けるとは面白い。して、秀吉はそれを何に使うのであろうか。」 「しかとは分かりかねます。が、この触れと相前後して、足守川の辺りをしきりと調べておるようにございます。」 「胸壁でも築くつもりであろうか。」 「おそらくは。」 「想像もつかぬ事をあれこれ悩んでも仕方あるまい。とりあえずは様子を見ることとしよう。」 宗治は自分の経験に照らして、秀吉の「土を買う」という行為が、大勢に影響がないと判断し、差し当たって、七郎次郎に様子を見るよう命じた。  その後、何事もなく数日が過ぎた。宗治は七郎次郎からの注進を忘れたわけではなかったが、何ら行動を起こさない織田方に対して、 (土俵を銭と米で買い取る。) という触れに内包されている戦略的な意味を積極的に解こうとはしなかった。その後の七郎次郎の注進で、僅かながら織田勢の陣に土俵を持ち込む百姓が出てきたようで、それに対して秀吉は触れ通り銭と米を分け与えたことを知った。

950(1548)_==天文17年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< ※※整理中※※  天文17年(1548)、吉川元長誕生。幼名鶴寿丸、長じて、少輔次郎と名乗る。父は吉川元春で嫡男。  天文17年(1548)12月30日、長尾景虎(越のちの上杉謙信)が、越後守護上杉定実の調停で、栃尾城から春日山城に入って兄晴景と「父子の義」を結び、守護代長尾家を相続。

950(1547)_==天文16年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文16年(1547)、武田信玄が甲州法度之次第を制定。  天文16年(1547)、吉川経家が生まれる。

950(1546)_==天文15年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文15年(1546)、黒田秀忠がふたたび黒滝城に立て籠もり、反旗を翻す。  天文15年(1546)2月28日、長尾景虎は守護上杉定実の命で黒滝城に出陣し、黒田一族を討伐し一族全員を切腹させる。  天文15年(1546)9月20日、山中満幸(山中鹿之助の父)、逝去。享年27歳。

950(1545)_==天文14年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文14年(1545)8月15日、山中鹿之助、月山の北麓広瀬川のほとり広瀬(富田)の山中屋敷に生まれたと言われる。あるいは月山山麓の新宮谷で出生。山中満幸の次男で、母は立原佐渡守綱重の娘。幼名甚次郎。(天文9年生まれとの説も)  天文14年(1545)10月12日、上杉家の老臣黒田秀忠が長尾景虎(のちの上杉謙信)の兄景康を殺害し、黒滝城(西蒲原郡弥彦村)に立て籠もり、謀反する。//春日山城危機の方に接した長尾景虎は「家国の瑕瑾」と憂い、兄長尾晴景のもとに馳せ参じ、黒田秀忠を討伐し、栃尾城に凱旋。

讃岐一宮ラン!その二

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三名町では麦が成長し、麦秋も間近です。 あとは、田村神社境内の写真です。

讃岐一宮ラン!その一

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讃岐国一宮は一宮町にある田村神社です。 社格は国弊中社で、和銅2年(709年)に社殿が創建されたそうです。官位は正一位です! 田村神社URL: http://tamurajinja.com/about/ 境内には縁起物の牛の石像、一宮稲荷神社の赤鳥居の列、田村神社本殿、七福神、縁起物の登り竜の像などが建立されています。

サンポートラン!

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先日サンポートまで往復ラン! サンポートのフェリー乗り場から防波堤の先端の赤灯台までが爽快に走れます。 何人かランナーともすれ違いました。みなさん、結構なペースで走ってました。 釣り人がたくさんいました。 たしかサンポート周辺は普段は釣り禁止なので、当日は釣り大会だったのかもしれません。 快晴で、少し春霞が出ています。サンポートの真正面にある女木島・男木島、そして、屋島も少し霞んでいました。 赤灯台の昼間の様子も撮影!

磁場の井戸:第二章 舞台(六)/長編歴史小説

 冠山が落城したことを知った四月二五日の夜も、宗治は今と同じ定規で討死を遂げた林重真の心情を計った。必死に太刀を振るいながら、死んでいったであろう自分の郎党林重真に対して、宗治は、 「先に三途の川で待っておれ。儂もじきに行く。」 と重真の死様をさも羨むふうな表情をしながら、七郎次郎の前で口走った。宗治は、自らの最後を飾るこの織田勢との戦いにおいて、悟りを求道する禅僧のように、乱陣の中での死を心底から求めていた。そんな宗治にとって、重真の死様はまさに自分の望む最後の姿と寸分違わぬものだった。  宮地山城の落城により、高松城の北は全て敵方の領するところとなり、ついに高松城という鶴翼の頭、扇の要が敵の前面に姿をさらけ出す形となった。毛利方がじりじりと押されていることは、今日の戦の有様、そして、宮地山、冠山の二城が落城したことを見ても明白である。戦は始まったばかりであるにもかかわらず、時勢の天秤が、予想した以上に大きく傾き始めていることを宗治は知った。 (織田勢に順風、味方に逆風。) 一度、傾き始めた時勢は、水が高い場所から低い位置へと流れ込むように、片側の重みが次々と増し、時の経過と共に彼我の軽重が隔絶する。その勢いを矯めるには、天賦の才か、人智の届かぬ偶然が必要だった。宗治は自らの死後、残された隆景や毛利家のために、人智の届かぬ偶然が発生することを神仏に祈るしかなかった。

950(1544)_==天文13年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文13年(1544)1月、織田信長、斎藤道三に兵を借りて那古屋城の留守居を委ね、村木城を攻める。  天文13年(1544)、尼子晴久(詮久)が出雲大社に伯耆の地を寄進。  天文13年(1544)2月9日、長尾景虎(後の上杉謙信)が国内安全祈願のため、守門神社(栃尾市)に社領を寄進。//その後、景虎は栃尾城代本庄実乃(サネヨリ)、三条城代山吉行盛、母の実家栖吉城主長尾氏らの協力を得て、揚北衆を撃退。  天文13年2月中旬、尼子晴久が因幡攻略のため東征の途につく//去る大内義隆の出雲出兵に際して大内方についた南条宗勝や行松入道らを討伐するため。⇒その後尼子晴久は伯耆八橋(ヤバセ)城に入城し因幡平定に乗り出す。  天文13年3月11日、毛利勢が尼子勢と備後甲奴郡田総(タテフ)で衝突。  天文13年3月17日、隠岐守護代隠岐宗清が逝去。跡目を嫡男豊清が相続。  天文13年7月中旬、尼子勢の先陣の新宮党、亀井、牛尾、平野以下7千余人が3次比叡尾城主三吉広隆攻略のため布野に着陣。  天文13年7月28日、毛利元就が備後比叡尾城に派遣した福原、小玉らの1千余人が、未明に朝霧に包まれた江川を渡って尼子陣に攻め込むも、深入りしすぎ、毛利勢が大敗北。「深野崩れ」と呼ばれる。  天文13年7月29日、比叡尾城主三吉広隆が、昨日の戦勝に酔う尼子勢の陣地を急襲して大勝利を得る。⇒この後、尼子国久ら尼子勢は出雲に退却。  天文13年初夏、尼子晴久、因幡に入国。⇒その後、気高郡奥沢見の大崎城を攻略し、ついで同郡鹿野城を落とし、鳥取城下に火を放ち、八頭郡私都(キサイチ)城を攻めようとしたが、母の危篤の注進があり、5月上旬出雲への帰途につく。  天文13年10月、尼子国久率いる尼子勢が再び備後に進軍し、出雲陣の帰途討死した小早川正平の子又鶴丸(のちの繁平)の守る豊田郡沼田の高山城を攻撃⇒落城しなかったので、高野山・久代などの人質をとり、そのまま美作に進攻し、浦上宗景の勢力下の真庭郡高田、篠フキ、苫田郡医王山