950(1552)_==天文21年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 天文21年(1551)、下間仲之が生まれる。//下間仲之は、親鸞の直弟子蓮位房法阿の直系の子孫で代々本願寺の坊官を務め下間少進と称した家系で、後に石山本願寺の最高幹部の一人として顕如を助けて活躍した。
 天文21年(1552)1月、室町第13代将軍足利義藤(のちに改名して義輝)が、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻る。(天文18年に京を追われていた)
 天文21年(1552)1月10日、関東管領上杉憲政が小田原城(神奈川県小田原市)城主北条氏康に敗れ、長尾景虎を頼って上野国平井城(群馬県藤岡市)から逃亡する。//景虎は、平子(タイラク)孫太郎と庄田定賢らを沼田城(群馬県沼田市)に派遣。
 天文21年(1552)3月3日、陶隆房が大友宗麟の弟晴秀を大内家当主として山口に迎える。/前年9月に大内義隆を討取ったことを考えると若干遅めか。
 天文21年(1552)3月3日、織田信秀逝去。享年42歳。当時19歳の織田信長が跡目を相続。織田信長は三男ながら嫡出だった。
 天文21年(1552)4月2日、尼子晴久、室町幕府から出雲/隠岐/因幡/伯耆/備前/美作/備後/備中の守護職の補任を受ける。>大内氏が陶晴賢の謀叛のため混乱していた。>この時には既に毛利元就は次男元春が吉川家を、三男隆景が竹原・沼田の両小早川家を相続させていた。
 天文21年(1551)4月23日、長尾景虎(後の上杉謙信)が、百五代後奈良天王から従五位下弾正少弼に叙任される。
 天文21年、尼子晴久(詮久)が出雲大社の掟を定める。
 天文21年6月、長尾景虎が、上洛の安全を確保するため、越前の朝倉宗滴(教景)に鷹と鳥屋(鳥籠)を贈る。
 天文21年(1552)6月20日、長尾景虎が、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政の失地回復のため、平子(タイラク)孫太郎、庄田定賢らを沼田城(群馬県沼田市)に派遣する。
 天文21年7月、毛利元就が備後滝山城(深安郡志川:城主宮光音氏)を攻め落とす。
 天文21年9月、尼子晴久が安芸の毛利元就を攻めるため、石山本願寺の証如に安芸一1向一1揆の合力を依頼⇒証如側はこれを断る。
 天文21年10月、尼子勢が大内方の備後福永城(比婆郡:城主高尾氏)を攻めるも、逆に弘中隆兼や毛利元就の為に敗退。
 天文21年12月3日、尼子晴久が従五5位下に叙せられ、修理大夫に任ぜられる。
 天文21年12月中旬頃、連歌師宗養が、父宗牧が編集した「択善集」を校写し、公家近衛稙家に奥書を求め、より権威を加えたこの集の1書を携え、出雲に下向⇒この「択善集」は尼子晴久に贈呈される>宗養の出雲入国により、尼子治下の出雲で連歌熱が高まった。この頃の尼子晴久夢想の発句「千代かけて神代いはふや御代の晴」で一族郎党十余人が宗養の指導で百韻の連歌を催し、杵築大社へ奉納。>月山にも連歌所が開設されていた模様。

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