950(1544)_==天文13年==(旧版)


>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

 天文13年(1544)1月、織田信長、斎藤道三に兵を借りて那古屋城の留守居を委ね、村木城を攻める。
 天文13年(1544)、尼子晴久(詮久)が出雲大社に伯耆の地を寄進。
 天文13年(1544)2月9日、長尾景虎(後の上杉謙信)が国内安全祈願のため、守門神社(栃尾市)に社領を寄進。//その後、景虎は栃尾城代本庄実乃(サネヨリ)、三条城代山吉行盛、母の実家栖吉城主長尾氏らの協力を得て、揚北衆を撃退。
 天文13年2月中旬、尼子晴久が因幡攻略のため東征の途につく//去る大内義隆の出雲出兵に際して大内方についた南条宗勝や行松入道らを討伐するため。⇒その後尼子晴久は伯耆八橋(ヤバセ)城に入城し因幡平定に乗り出す。
 天文13年3月11日、毛利勢が尼子勢と備後甲奴郡田総(タテフ)で衝突。
 天文13年3月17日、隠岐守護代隠岐宗清が逝去。跡目を嫡男豊清が相続。
 天文13年7月中旬、尼子勢の先陣の新宮党、亀井、牛尾、平野以下7千余人が3次比叡尾城主三吉広隆攻略のため布野に着陣。
 天文13年7月28日、毛利元就が備後比叡尾城に派遣した福原、小玉らの1千余人が、未明に朝霧に包まれた江川を渡って尼子陣に攻め込むも、深入りしすぎ、毛利勢が大敗北。「深野崩れ」と呼ばれる。
 天文13年7月29日、比叡尾城主三吉広隆が、昨日の戦勝に酔う尼子勢の陣地を急襲して大勝利を得る。⇒この後、尼子国久ら尼子勢は出雲に退却。
 天文13年初夏、尼子晴久、因幡に入国。⇒その後、気高郡奥沢見の大崎城を攻略し、ついで同郡鹿野城を落とし、鳥取城下に火を放ち、八頭郡私都(キサイチ)城を攻めようとしたが、母の危篤の注進があり、5月上旬出雲への帰途につく。
 天文13年10月、尼子国久率いる尼子勢が再び備後に進軍し、出雲陣の帰途討死した小早川正平の子又鶴丸(のちの繁平)の守る豊田郡沼田の高山城を攻撃⇒落城しなかったので、高野山・久代などの人質をとり、そのまま美作に進攻し、浦上宗景の勢力下の真庭郡高田、篠フキ、苫田郡医王山の3城を攻略し、さらに因幡進出を試みるが、真木弾正忠時の進言により出雲に帰陣。
 天文13年12月8日、尼子晴久が田口志右衛門に同年1月頃尼子国久が攻略した美作のうち北高田庄を宛行う。 

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