950(1549)_==天文18年==(旧版)


>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 天文18年(1549)、三好長慶、遊佐長教(長慶の岳父)が、細川高国の養子氏綱を擁立し、細川晴元家臣三好政長(晴元の軍事面を支えていた)を摂津榎並で討ち取る(江口の戦い)。
 天文18年6月、三好長慶・細川氏綱が、足利義晴・義藤(のち改名して義輝)父子、細川晴元を京都から再び追う。将軍父子は近江坂本に逃亡し、常在寺に留まる。
 天文18年(1549)9月4日、毛利勢が尼子方の山名理興の備後本城を落とす。⇒山名理興は出雲に走り、備後の尼子勢力の一大拠点が消滅。
 天文18年冬頃、大内氏重臣の陶隆房が謀反の準備を進め、重臣杉重矩、内藤興盛もこれに賛同。武断派の三重臣が謀反に賛同。

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