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950(1557)_==弘治3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  弘治 3 年 1 月 19 日、石山本願寺において、新殿の立柱式を行う。 // 新殿は、慶寿院 ( 顕如の祖母 ) の住居となる。  弘治 3 年 1 月 25 日、実悟 ( 浄土真宗、蓮如の実子 ) が、実如の 33 回忌のために、吉野の飯貝から石山に上る。この時、実悟 66 歳。 6 歳年下の実従と面談。  弘治 3 年 (1557)2 月 15 日、武田軍が、長尾方の葛山城 ( 長野市 ) を急襲し、攻め落とし、城主落合備中守をはじめ全城兵が討死。 // 長尾景虎は葛山城落城の報を受け、春日山城を進発して山田城 ( 上高井郡高山村 ) などを攻略。  弘治 3 年 (1557)4 月、毛利勢が長門長府勝山城を落とし、大内義長を自害させ、事実上防長二州を併呑。  弘治 3 年 4 月 17 日、本願寺顕如が、婚約者である三条公頼の実娘と婚儀を上げる。 // 新郎新婦ともに 15 歳。 // 新婦は、前管領の細川晴元の養女であり、さらに、婚儀直前に六角義賢の猶子になっていた。新婦の姉は甲斐の武田晴信の正室。  弘治 3 年、松平竹千代 ( 徳川家康 ) が、元服して、元康と名乗り、今川義元の一族関口親永の娘を娶る。  弘治 3 年 (1557) 、長尾景虎が、出家を志して高野山に向かう途中の関山権現 ( 中頸城郡妙高 ) で祈祷中、守護上杉家の奉行人である大熊朝秀 ( 箕冠城 ( ミカブリジョウ ) 城主 ) 謀反との報を受け、出家を断念し春日山城に戻る。  弘治 3 年 (1557)4 月 21 日、長尾景虎が善光寺に着陣。 // 武田晴信が着々と信濃侵攻を進めていたため。  弘治 3 年 (1557)4 月 25 日、長尾景虎が、第 2 回川中島の合戦 ( 弘治 1 年 ) で破却した旭山城を修築し、入城。  弘治 3 年 5 月、畿内で日照りが続き、米が不足で飢饉が発生。  弘治 3 年 5 月 14 日、加賀の超勝寺 ( 浄土真宗 ) の門徒

950(1556)_==弘治2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  弘治 2 年 (1556) 、山中鹿之助、尼子晴久の嫡男義久の近習となる。山中鹿之助 12 歳。  弘治 2 年 3 月、長尾景虎が出家の意向を家臣に表明する。  弘治 2 年 3 月 22 日、加賀の門徒衆が、越前海岸に船をつけて放火。  弘治 2 年 3 月 29 日、室町幕府将軍足利義輝が、加賀門徒と越前の朝倉氏の仲介のため、朝倉義景宛に御内書を書く。 // 大館晴光が御内書を越前一乗谷に届ける。 // 本願寺の慶寿院も下間頼言を加賀に遣わし、講和を説かせる。  弘治 2 年 4 月 9 日、下間頼言 ( 浄土真宗 ) が、加賀の超勝寺 ( 浄土真宗 ) において、加賀門徒衆により毒殺される。  弘治 2 年 4 月 18 日、美濃の斎藤道三が、嫡男の斎藤義竜と長良川河畔で戦い、討死。享年 63 歳。 // 織田信長が、義父の仇を討つべしと叫んだと言われる。  弘治 2 年( 1556 年) 4 月、織田信行 ( 信長の実弟 ) が、信長の支援者であった岳父・斎藤道三が嫡男・義龍との戦に敗れて死去したため、達成は林秀貞・林通具・柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵し、信長の蔵入地である篠木三郷を横領しようとした。  弘治 2 年 4 月 19 日、石山本願寺が、下間頼良を、加賀に遣わし、越前朝倉氏とに講和を説得させる。 // 頼良は、毒殺された頼言の弟。 //3 月 29 日・ 4 月 9 日参照  弘治 2 年 4 月 26 日、加賀に侵攻していた朝倉勢が、加賀門徒衆との講和に伴い、越前に引き揚げる。 // 教芳は越前に逃れる。  弘治 2 年 5 月、吉川元春が石見進攻。これにより大森銀山の山吹城を守る刺賀/高畠両将が毛利方に投降。 ⇒ この後、尼子晴久が大森銀山の奪還を図るが失敗。  弘治 2 年 6 月 28 日、長尾景虎が出家を志し、恩師天室光育禅師に手紙を送るとともに、高野山に向かう。  弘治 2 年、箕冠 ( ミカブリ

950(1555)_==弘治1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文 24 年 (1555) 、この年 10 月、弘治に改元。  天文 24 年( 1555 )、尼子晴久(詮久)が国内の動乱や大内/山名の侵攻を退けたことを感謝し、出雲大社に出雲で 2 百貫の地を寄進。  弘治 1 年 (1555)1 月 14 日、長尾景虎が、安田城 ( 柏崎市城の組 ) 城主安田景元に柿崎景家や琵琶島城衆らと北条城を攻略するよう命じる。  弘治 1 年 (1555)2 月 3 日、長尾景虎の奉行大熊朝秀、直江実綱、本庄宗緩が、安田景元に起請文を差し出す。  弘治 1 年 (1555)2 月初旬、長尾景虎が、善根 ( 柏崎市善根 ) に出陣し、北条城攻撃の陣頭指揮をとる。 // 武田氏の援軍はなく、北条高広 ( 天文 23 年 12 月に上杉に謀反 ) は景虎の軍門に下る。  天文 24 年 (1555)4 月 12 日、本願寺証如 ( 天文 23 年 8 月逝去 ) が、朝廷から法眼の僧位を授かる。  天文 24 年 (1555) 、尾張守護代の織田広信が、清洲城に同居する守護斯波義統を織田信長に通じたと理由で誅殺する。信長は叔父織田信光と謀って、主筋にあたる広信を誅殺し、清洲城を奪って自分の居城とする。  天文 24 年、長尾景虎が、越後兵を率いて信濃に入り、善光寺に布陣。また、越前の朝倉義景に対して北国の門徒を牽制するよう、書状で依頼。  天文 24 年 4 月 24 日、甲斐の武田晴信が、長尾景虎の信濃侵攻を受けた出陣を前に、石山本願寺へ正室 ( 三条公頼の娘で、その実妹が顕如の婚約者 ) の使者を出し、門徒衆に越後を突かせて、景虎の背後を脅かすよう依頼。 // 慶寿院 ( 顕如の祖母 ) はこれを躊躇うが、加賀では教芳らが越前朝倉討伐で鼻息が荒い。  弘治 1 年 (1555)7 月、長尾景虎が精兵八千を率いて信濃国川中島に出陣。 // その後、善光寺背後の横山城 ( 長野市 ) を本陣として、武田氏の旭山城 ( 長野市 ) を攻撃。  弘治 1 年 (1555)7