>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
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弘治2年(1556)、山中鹿之助、尼子晴久の嫡男義久の近習となる。山中鹿之助12歳。
弘治2年3月、長尾景虎が出家の意向を家臣に表明する。
弘治2年3月22日、加賀の門徒衆が、越前海岸に船をつけて放火。
弘治2年3月29日、室町幕府将軍足利義輝が、加賀門徒と越前の朝倉氏の仲介のため、朝倉義景宛に御内書を書く。//大館晴光が御内書を越前一乗谷に届ける。//本願寺の慶寿院も下間頼言を加賀に遣わし、講和を説かせる。
弘治2年4月9日、下間頼言(浄土真宗)が、加賀の超勝寺(浄土真宗)において、加賀門徒衆により毒殺される。
弘治2年4月18日、美濃の斎藤道三が、嫡男の斎藤義竜と長良川河畔で戦い、討死。享年63歳。//織田信長が、義父の仇を討つべしと叫んだと言われる。
弘治2年(1556年)4月、織田信行(信長の実弟)が、信長の支援者であった岳父・斎藤道三が嫡男・義龍との戦に敗れて死去したため、達成は林秀貞・林通具・柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵し、信長の蔵入地である篠木三郷を横領しようとした。
弘治2年4月19日、石山本願寺が、下間頼良を、加賀に遣わし、越前朝倉氏とに講和を説得させる。//頼良は、毒殺された頼言の弟。//3月29日・4月9日参照
弘治2年4月26日、加賀に侵攻していた朝倉勢が、加賀門徒衆との講和に伴い、越前に引き揚げる。//教芳は越前に逃れる。
弘治2年5月、吉川元春が石見進攻。これにより大森銀山の山吹城を守る刺賀/高畠両将が毛利方に投降。⇒この後、尼子晴久が大森銀山の奪還を図るが失敗。
弘治2年6月28日、長尾景虎が出家を志し、恩師天室光育禅師に手紙を送るとともに、高野山に向かう。
弘治2年、箕冠(ミカブリ)城(中頸城郡板倉町)城主大熊朝秀が武田信玄に通じて、長尾景虎に謀反する。//長尾景虎は、関山権現で(中頸城郡妙高村)で祈祷中に大熊朝秀の謀反を聞き、還俗して春日山城に戻り、大熊朝秀を撃破。//敗れた大熊朝秀は、武田氏に身を預け、武田氏家臣として忠勤する。
弘治2年8月24日、織田信長が、稲生で柴田勝家を破り、次いで林通具が討ち取る(稲生の戦い)。//敗れた織田信行(信長の実弟)は末森城に籠城したが、母・土田御前の取りなしにより林秀貞、柴田勝家共々赦免される。
弘治2年、三好長慶が、堺に南宗寺(堺市南旅籠町東三丁)を開く。この時、長慶34歳。
弘治2年11月、末頃、加賀四郡の代表として窪田肥前守が、朝倉義景を訪問して馳走を受け、和睦を確かめる。
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