磁場の井戸:第三章 水牢(一)/長編歴史小説


第三章 水牢

「秀吉が近隣の在所に土俵一俵を銭一〇文・米一升で買い上げるとの触れを出しました。」
天正一〇年四月二八日深更、七郎次郎は高松城の北に連なる山稜に走る細い杣道を忍び、城の周囲を包む沼沢の芦葦に身を隠しながら、深田の畦を駆け抜け、宗治のもとに秀吉の珍奇な触を伝えた。
「どの在所も半信半疑の様子でございます。おちおち持っていくと殺されるのではないかなどと話し合っております。」
宗治も、古今、聞いたこともない奇妙な触れに興味を持ったが、土俵ごときを銭と米で購うという秀吉の突拍子もない行動については解しかねた。
「土が銭と米に化けるとは面白い。して、秀吉はそれを何に使うのであろうか。」
「しかとは分かりかねます。が、この触れと相前後して、足守川の辺りをしきりと調べておるようにございます。」
「胸壁でも築くつもりであろうか。」
「おそらくは。」
「想像もつかぬ事をあれこれ悩んでも仕方あるまい。とりあえずは様子を見ることとしよう。」
宗治は自分の経験に照らして、秀吉の「土を買う」という行為が、大勢に影響がないと判断し、差し当たって、七郎次郎に様子を見るよう命じた。
 その後、何事もなく数日が過ぎた。宗治は七郎次郎からの注進を忘れたわけではなかったが、何ら行動を起こさない織田方に対して、
(土俵を銭と米で買い取る。)
という触れに内包されている戦略的な意味を積極的に解こうとはしなかった。その後の七郎次郎の注進で、僅かながら織田勢の陣に土俵を持ち込む百姓が出てきたようで、それに対して秀吉は触れ通り銭と米を分け与えたことを知った。

コメント

このブログの人気の投稿

【完結】ランニング、お食事 2022年5月~2022年12月

ランニング、グルメ、ドライブ 2023年4月〜

ランニング、グルメ、クライム 2023年7月〜