磁場の井戸:第一章 想い(四)/長編歴史小説


宗治は隆景の人格に惚れ抜いていたと言っていい。それは、ある出来事がきっかけだった。その出来事は四年前に突如起こった。毛利の仇敵である尼子の末裔尼子勝久とその家臣山中鹿之助幸盛らが織田信長の援護を受け、播州上月城に拠ったのを討伐するために、毛利勢が出陣した。出陣は天正五年、総大将は小早川隆景、この戦に宗治も参陣した。そして、戦が終盤を迎えようとしていた天正六年、宗治の居城高松城から、
「嫡男源三郎が、敵に誘拐された。」
という急報が、宗治のもとに届いた。嫡男を拉致した敵方は、当然の如く、宗治の寝返りを求めた。
(義において、寝返ることはできぬ。)
宗治はそう思いながらも、そのためには我が子を見殺しにしなければならなかった。道は二つ、二者択一であったが、どちらの道を選んだとしても、宗治は人間としての道に外れる行為を働かざるをえなかった。
宗治は、ただ一人、身を引き裂かれるような想いに、頭を抱え続けていた。しかし、逡巡は許されない。時を移せば、源三郎の命の危険が増していく。頭を地面に叩きつけたくなるような悩乱の中、宗治は隆景に呼ばれた。
「宗治、源三郎殿を救うため、一度、高松城に戻れ。」
隆景は、一時的な帰城を勧めるのではなく、それを強く命じた。命じることで、宗治の心中にある「躊躇」という成分を希釈しようと努めた。
今、宗治を高松城に帰せば、彼は敵方に寝返るかもしれない。それが、源三郎を救う唯一の道であることを知りながら、それを承知の上で、隆景は宗治に帰城を命じた。
「いや、わたくしは武士にございます。息子のために陣を払ったと言われては、…。」
それでも、宗治は躊躇った。隆景は再び厳しい語調で言った。
「今は、城に帰るべし。」
厳しい言葉とは逆に、隆景の瞳には暖かさが宿っていた。嫡男のために帰れと言う隆景の宗治に対する優しさは、宗治の心を強く打った。宗治は、隆景のその言葉の中に自らに対する隆景の「信」を感じた。宗治は己を知り、己を強く信じてくれる者を得た。宗治という漢の瞳から、知らぬうちに涙が零れていた。
(士は自らを知る者のために死す。)
宗治の脳裏をこの言葉が横切った。宗治は隆景のもとを去り、高松城に向けて馬を疾駆させた。
高松城に戻った宗治は、すぐさま留守居の兵を集めて、源三郎の捜索を命じた。すでに、宗治の胸中には敵方への寝返りという成分は皆無であり、源三郎を捜し出すことができなければ、不憫ではあるが、その命を諦めるしかないと決断していた。しかし、宗治の真摯な願いは天に通じた。
敵方が警戒網にかかり、源三郎は無事、宗治のもとに戻った。宗治は、命を落とすことなく戻った源三郎の顔を眺めながら、思っていた。
(この恩、向後、忘れるべからず。士は自らを知る者のために死す。)
慈愛の隠った瞳の奥で、宗治は繰り返し呟いていた。

しかし、月清や七郎次郎には隆景への恩は無いはずである。
(死ぬ必要のない男が、なぜ死のうとするのか。)
宗治には、月清や七郎次郎が自分と共に戦い、共に死のうとする理由が分からなかった。宗治にとって、自身の存在は小早川隆景という神体を敬慕し、崇め、その信仰の中で死のうとする信徒でしかなく、月清や七郎次郎は宗治の信仰には無関係な存在のはずだった。確かに、月清や七郎次郎は同じ神体を崇めているわけではないはずである。彼らに対する宗治の見方はある面、間違っているわけではない。
ただ、宗治は自分を過小に評価していた。宗治という存在は宗治自身にとっては一個の求道者であったが、月清と七郎次郎にとっては敬愛すべき神仏であった。対象を異にすれども、月清と七郎次郎が宗治と同様に報恩という「道」を目指して歩いているということに、宗治は気付くことができなかった。
宗治の存在は、宗治自身の意志の如何によらず、強い磁力を放ちながら周囲の人々を吸い寄せ始めていた。隆景という磁場の中で泳動していると信じている宗治は、最後の時まで自分が放つ磁場を感じることができないかもしれない。
いつの間にか辺りを夕闇が覆っていた。先刻の苔の上空の湿分が夕焼けの茜色を緩和し、嬰児を軟らかく包むかのように緑色の苔に音もなく注いでいた。宗治の疑問は氷解することは無かったが、苔を見つめる宗治の胸中は少しづつ穏やかさを取り戻していた。宗治はふと長い歳月を経て一個の集落を成した苔が自分を見つめているような錯覚を覚えた。
(苔は、ずっと、儂を見ていたはずだ。そして、この城が有る限り、儂のことを覚えていてくれるだろう。)
宗治の想念の中に苔という無機的な存在が有機性を持って浮かんできた。それは、闇が備中の野面を支配するにつれて、ゆっくりと姿を消した。

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