>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_<
>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<
永禄13年、この年4月23日に元亀に改元。
永禄13年(1570)、この年4月に元亀に改元。
永禄13年(1570)、織田信長、公家衆にその所領を書き上げることを命じる。
元亀1年、宇喜多直家、石山城主金光宗高を暗殺し、石山城を奪う。
永禄13年(1570)1月6日、毛利勢、尼子氏討伐のため、安芸吉田郡山城を出陣。折から深雪。
永禄13年(1570)、毛利元就、毛利輝元を総大将として、粟屋元真/国司元武以下譜代約6千、吉川元春と石見衆、小早川隆景と備後衆、宍戸隆家と備中衆、さらには天野元定、熊谷信直や安芸佐東川内以下の水軍2百艘で総兵力2万5千で尼子氏討伐を開始。
永禄13年(1570)1月7日、本願寺顕如が、織田信長に年賀の祝儀と太刀・馬を贈る。 永禄13年(1570)1月11日、上杉輝虎が、佐野昌綱の下野国唐沢山城を攻め、これを北条氏政に知らせた上で、武蔵岩槻城を太田資正に返還するよう要求。
永禄13年1月16日、本願寺顕如が、足利義昭に三淵晴員を通じて年賀の祝儀を献上。
永禄13年、織田信長が、阿波の門徒が三好三人衆に加担している点について石山本願寺を糾弾し、石山からの退去を求める。//顕如は怒り、評定の結果、信長が攻めて来れば戦う他なしと決定し、「此度、石山の境内を御城地になされたき思し召しに付き、御処望尤もに候えども、当地は仏意相応百縁の地に候はば、ひとえに御用捨下さるべし」と返答。
永禄13年1月23日、織田信長が足利義昭に5カ条の条書を提示。宛名は織田信長から朝山日乗と明智光秀となっており、足利義昭が袖判をおして承認する形になっている。//足利義昭、この条書きの内容に憤る。
永禄13年1月23日、織田信長が諸国の大小名に2月中旬の参洛をうながす書状を発信。畿内、近国の大名/国衆が中心だが、遠国では三河/遠江の徳川家康、甲斐の武田氏、北陸の神保、出雲尼子氏、備前衆(浦上氏など)があり。
永禄13年(1570)1月28日、毛利氏、出雲飯石郡多久和(現三刀屋町多久和:守将多久和大和守)の多久和城を攻撃。秋上庵介/尤道理介も籠城していたとの説もある。
永禄13年1月晦日、尼子方の多久和城陥落(城将多久和大和守)。多久和大和守は数百人の部下とともに討死。多久和城落城の後、尼子方の掛合氷之上/禅定寺両城(川副久盛の持城)や阿用/福富両城(尼子方の城)も次々と落城。>秋上庵介と尤道理介らが援将として在城していたが、毛利勢を恐れて城に火をかけ、戦わず敗走したとも。この時の狂歌「城を明け落葉尤道理なりいかに庵を春焼にする」⇒多久和城落城により掛合の氷ノ上、禅定寺、阿用、福富の要害も落ちる。
永禄13年2月12日、毛利輝元の毛利勢が出雲3沢鎌倉山/横田を越えて比田着陣。山中鹿之助、立原久綱ら6千8百の兵で出雲富田と比田の中間の中山辺りに布陣。
永禄13年2月13日、毛利勢、出雲比田を進発し出雲布部に向かい尼子方の部将森脇久○の土塁を奪取。山中鹿之助ら尼子勢は総軍7千をもって布部中山に布陣し毛利勢を迎え撃つ。
永禄13年2月14日未明、布部山の戦いが始まる。東の中山口(本道筋)、西の水谷口の両口とも地理に明るい尼子勢が当初優勢。しかし、およそ3倍の兵力の毛利勢と吉川元春/小早川隆景の両川の采配/さらには毛利勢の1隊に背後を突かれ尼子勢は3百余(2百余の説も)の死者を出し、ついに総退却。山佐口から末次方面に崩れ去る。この時、米原綱寛/神西元通/牛尾弾正忠信らもほうほうの体で居城に逃げ帰る。
永禄13年(1570)2月14日、布部の戦で横道兵庫助秀綱、姪婿の中井善左衛門に討たれ、討死。中井の振舞は指弾の的となった。この戦で横道源介/権允兄弟は毛利輝元の近習粟屋又左衛門と田門右衛門尉を討取る。
永禄13年2月15日、布部の合戦で敗れた尼子勢、富田城の囲みを解く。毛利輝元を始め毛利勢が富田城に入城。城番天野隆重に合流。その後、毛利輝元は元就の五男元秋を富田城主とし、天野隆重を補佐役として雲伯諸城の奪回を図る。
永禄13年2月16日、本願寺顕如の長男茶々(13歳)が得度し、教如と名乗る。
永禄13年2月18日、北条氏康・氏政父子が、上杉輝虎に誓書を送り、武蔵岩槻城を太田資正に返還すること、人質を交換することを約束する。
永禄13年2月24日、吉川元春ら、尼子方の出雲末次城攻略に向かう。山中鹿之助/立原久綱らが白潟と末次の間の橋を落として防ぐが、吉川勢は舟で渡海し末次城を攻略。
永禄13年2月25日、織田信長、上洛、赤坂(岐阜県大垣市赤坂)に宿泊。
永禄13年2月26日、織田信長、常楽寺(滋賀県蒲生郡安土町)で逗留。
永禄13年2月30日、織田信長、岐阜から上洛し、明智光秀のところに宿泊。
永禄13年2月29日、毛利勢、末次城の対岸白潟(松江市)に放火。
永禄13年3月、但馬守護山名氏の家臣だった但馬竹田城太田垣氏が織田信長のもとへ伺候。しかし、その後、生野銀山の所有権をめぐり織田信長と対立し、太田垣氏は毛利方に就く。
永禄13年3月1日頃、毛利勢、熊野城を襲撃。
永禄13年3月3日、織田信長、近江国中の相撲取りを集めて、常楽寺にて相撲興行。//相撲取りは、百済寺ノ鹿、百済寺の小鹿、たいとう、正権、長光、宮居眼左衛門、河原寺ノ大進、はし小僧、深尾又次郎、鯰江又一郎、青地与右衛門。行事は木瀬蔵春庵。
永禄13年3月5日、織田信長、上洛。上京驢庵にて泊。畿内、隣国の面々さらに徳川家康が在洛。
永禄13年3月5日、上杉輝虎と北条氏康が和睦。輝虎は氏康の七男で17歳の氏秀を要しとし、代わりに柿崎城(中頸城郡柿崎町)城主柿崎景家の子晴家を人質として小田原城へ送ることとする。//北条氏秀は、天文23年誕生。幼名国増丸、三郎と称する。
永禄13年3月18日、羽柴秀吉、毛利元就から織田信長に派遣され上京した使僧に対して毛利氏との申次を担当することを小早川隆景に報告。
永禄13年3月22日、織田信長、曇華院にその所領山城国大住荘三か村を安堵させ、一色藤長の違乱を止める。//この際、木下秀吉・丹羽長秀・中川重政・明智光秀が連署で大住荘三か村の名主百姓中に書状を与える。
永禄13年4月10日、足利義昭が、武田信玄からの書状を受領。//織田信長のやり方に十分注意するよう助言。
永禄13年4月10日、上杉輝虎が、北条氏康からの人質氏秀と沼田城で対面し、父子の義を結ぶ。
永禄13年4月20日、上杉輝虎が、外征先の沼田城から、春日山城へ帰城。
永禄13年4月20日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、石山本願寺の麓にある願得寺において、覚如が書いた法然と親鸞の行状記である「拾遺古徳伝」を校合し終える。
永禄13年4月23日、永禄から元亀に改元。
永禄13年4月25日、上杉輝虎が、人質の北条氏秀に自身の幼名景虎を授け、故長尾政景の娘を景虎の正室とし、春日山城の二の廓に置く。
元亀1年4月14日、織田信長、将軍義昭の館落成の祝言として、観世大夫、今春大夫を招じて、能会を開く。
元亀1年4月17日、毛利勢、尼子方の牛尾弾正忠信久が籠もる出雲牛尾城を落とす。弾正忠は弟の僧某以下百611名とともに討死。⇒その後、出雲熊野城開城、さらに、高佐(高瀬)城、平田平崎城など出雲国内の尼子方の城塞が次々と毛利勢の手に落ちる。
元亀1年4月20日、織田信長、朝倉氏討伐のため京都を出陣。
元亀1年4月21日、織田信長、近江高島郡田中(安曇川町)の海津氏の居城に泊。
元亀1年4月22日、織田信長、若狭国熊河松宮玄蕃の居城に泊。
元亀1年4月23日、織田信長、佐柿(福井県三方郡美浜町佐柿)の粟屋越中の所に到着。
元亀1年4月24日、織田信長、佐柿(福井県三方郡美浜町佐柿)の粟屋越中の所に泊。
元亀1年4月25日、織田信長、敦賀表に出陣。天筒山(守将寺田釆女正)に取りかけ、攻め落とす。首級1170を上げる。
元亀1年4月25日、織田信長、越前手筒山城を落とす。
元亀1年4月26日、織田信長、金が崎城(守将朝倉中務大輔)を攻め落とす。朝倉中務大輔は降参し退去。
元亀1年4月、織田信長、滝川彦左衛門、山田左衛門尉に既に落城していた引壇(ひきた)城の破却を命じる。
元亀1年4月、織田信長、木目峠を越え、越前国に乱入しようとしたときに、浅井長政の寝返りの報告を受ける。
元亀1年4月、織田信長、金が崎城に羽柴秀吉を殿として込め置き、朽木越えにて京都に至る。//この際、朽木信濃守が織田信長に馳走した。
元亀1年4月下旬?、毛利勢、古志重信の守る一倉城(出雲市)を落とす。
元亀1年4月31日、織田信長、越前から京都に帰還。浅井氏の離反により越前朝倉氏討伐を中止し、退却のため。
元亀1年4or5月、織田信長、明智光秀・丹羽長秀に、若狭国の武藤上野から人質をとってくることを命じる。//その後、武藤上野は母親を人質として提出。
元亀1年5月4日、毛利勢、尼子方の出雲高瀬城攻め。
元亀1年5月5日、毛利勢、平田城攻め。
元亀1年5月6日、織田信長、近江の街道筋の警護を稲葉伊予父子、斎藤内蔵佐に命じ、守山の町に入ることを命じる。
元亀1年5月、稲葉伊予父子、近江国守山に入ろうとしたとき、既に一揆が蜂起。へそ村に煙を挙げ、守山の町の南口より焼き入れようとしたところを稲葉伊予父子が支え、追い払う。
元亀1年5月9日、織田信長、京都を発つ。
元亀1年5月上旬?、尼子方末次城の守将大野高直、7百貫の知行を条件に毛利方に下る。
元亀1年5月、尼子方清水寺の大宝坊宗信が毛利方に下る。
元亀1年5月、尼子方秋上庵介久家、父綱平と共に先に寝返った尼子の旧臣野村士悦や清水寺大宝坊宗信の勧誘で、毛利方に寝返り(鹿之助が尼子勝久に重く用いられ、秋上庵介が軽んぜられたため?衰運の尼子氏と破竹の勢いの毛利氏を天秤にかけた結果か?⇒しかし、秋上庵介は毛利家に寝返るにあたり暇乞いのため山中鹿之助のもとを訪れたとの説もあり!父秋上綱平の浅慮が招いたことである可能性!)。秋上家は大庭大宮の神官の一族で、島根半島東部の美保湾を押さえる森山城(美保関町)を中心に勢力をもっており、この寝返りを元就は非常に喜ぶ(秋上父子は尼子方の部将の中でも比較的筋目がよかった?出雲に影響力があった?)。これにより尼子方は美保関周辺を失う。
元亀1年、毛利方に寝返った野村士悦が、羽倉山城を奪取。
元亀1年5月、毛利輝元、尼子勝久の居城新山城下を焼く。
元亀1年5月、織田信長、志賀(大津市山中町)の城、宇佐山の砦を拵えることを命じ、森三左衛門(可成)を入れ置く。
元亀1年5月13日、織田信長、滋賀県野洲町大字永原まで来着。
元亀1年5月13日、織田信長、永原に佐久間右衛門を入れ、長光寺(近江八幡市長光寺町)に柴田修理亮勝家を在城させ、安土城に中川八右衛門(左馬允:中川重政の弟)を入れる。
元亀1年5月19日、浅井備前、鯰江城(滋賀県愛知郡愛東村鯰江)に人数を入れ、市原郷(滋賀県神崎郡永源寺町市原野)で一揆を促し、織田信長の行く手を阻む。//この際、日野城蒲生右兵衛大輔、布施藤九郎、香津畑(滋賀県神崎郡永源寺町甲津畑)が織田信長に馳走し、事なきを得る。
元亀1年5月19or20日頃、織田信長、近江千草越(中道筋)の途中、杉谷善住坊に狙撃され、身に掠り傷をうける。//千草越えには、西方から(1)滋賀県蒲生郡日野町・平子峠・甲賀郡土山町・水沢峠を越す、(2)滋賀県神崎郡永源寺町甲津畑・根平峠(千種越)を経て三重県三重郡千草に入る、(3)神埼郡永源寺町黄和田から八風峠越の3路があり、中道筋は根平越だと思われる。
元亀1年5月21日、織田信長、千草越えを経て、美濃岐阜城に到着。
元亀1年5月下旬、尼子勝久、丹波/但馬に要請していた水軍数百艘が出雲に姿を表し、山中鹿之助と協力して秋上庵介の秋上家の拠点出雲森山城を攻めるも毛利勢に敗退。
元亀1年5月27日、尼子方の水軍、宇龍浦(○川郡)を襲う。
元亀1年5月28日、尼子方の水軍、日御碕神社を破壊し、宝物を奪う。⇒この時期は尼子方の敗色が濃厚で統制が取れなくなってきた感がある!
元亀1年6月、木下秀吉が、堺の今井宗久に鉄砲の火薬を急ぎ調達するよう依頼。
元亀1年、池田勝正の家中の荒木村重や中川清秀が、池田一族の池田知正を擁立して三好三人衆加担し、池田勝正を追い出す。//6月頃か?
元亀1年、徳川家康が、本拠を岡崎から遠江の浜松に移し、武田信玄の南下に備える。//6月頃か?
元亀1年6月3日、尼子方、佐陀の勝間城(毛利勢が築いた新城で尼子本陣新山城の包囲網がこの勝間城築城により完成)を攻撃するも反撃にあい、尼子勝久の側近三刀屋蔵人家忠/神代左馬ジョウ/上野源助/高田惣一郎/上田早苗助(尼子1勇士の1人)らが討死の大敗北。それまでに、尼子方は幾度も勝間城を攻めるとともに、山中鹿之助が羽倉山城を何度も強襲し新山城東側に活路を見出そうとしたが、双方とも成功せず。
元亀1年6月4日、佐々木承禎父子、近江南郡の所々で一揆を催し、野洲川に人数を出すものの、柴田勝家・佐久間右衛門が落窪(滋賀県野洲郡中主町乙窪)にて取り合い、首級780を挙げる。//このとき、三雲父子、高野瀬、水原ら伊賀・甲賀の侍を多数討ち取る。また、近江の過半が静まる。
元亀1年6月、浅井備前、越前衆の来援を受けて、たけくらべ(美濃と近江の境、寝物語の里の別称)、かりやす(苅安尾:滋賀県坂田郡伊吹村の伊吹山南麓)の両所に砦を構える。
元亀1年6月19日、織田信長が、35000の兵を率いて、岐阜を進発し、近江に向かう。
元亀1年6月20日、織田信長、たけくらべを発向。
元亀1年6月21日、織田信長、浅井長政の居城小谷城へ攻め寄せ、虎御前山に登る。このとき、横山城を囲む。//森三左衛門、坂井右近、斎藤新五、市原九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀山へ登り、町を焼き払う。また、柴田勝家、佐久間右衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、近江衆に在々所々への放火を命じる。
元亀1年6月22日、織田信長、虎御前山を退陣。殿、簗田左衛門、中条将監、佐々内蔵介に鉄砲五百挺、弓衆三十ばかりを加える。//この後、高坂、三田村、野村肥後らが立て籠もる横山城(長浜市浅井郡石田町の観音寺坂トンネルの山手)に攻めかかる。
元亀1年6月、朝倉孫三郎、浅井の後巻きのため約8000を率いて出発。大谷の東のより山(大依山:東浅井郡浅井町大依山)に陣取る。これに浅井の人数5000ばかりが加わる。
元亀1年6月24日、織田信長、竜ヶ鼻に陣取る。
元亀1年6月24日、徳川家康、織田信長のために近江に来援、到着。竜ヶ鼻に陣取り
元亀1年6月26日、朝倉景健が、越前勢10000を率いて近江の小谷城付近に到着。
元亀1年6月26日、徳川家康が、三河勢5000を率いて近江の小谷城付近に来援。//6月24日?//德川家を出奔して加賀の一向一揆に加わっていた本多正信が駆け付け、家康に帰参を許される。
元亀1年6月27日早暁、朝倉孫三郎、大依山の陣を動く。
元亀1年6月28日未明、浅井・朝倉勢、姉川を前にする形で、野村、三田村両郷へ移動し、二手に陣を構える。
元亀1年6月28日、織田信長、浅井・朝倉勢に対する形で布陣。//先鋒徳川家康、東の野村の郷には信長本隊、その東は美濃三人衆。
元亀1年6月28日、織田信長、徳川家康と連合し、近江姉川で朝倉氏・浅井氏連合軍を撃破。//織田信長方が討ち取った主な武将:真柄十郎左衛門(青木所右衛門が討ち取る)、前波新八、前波新太郎、小林端周軒、魚住竜文寺、黒坂備中、弓削六郎左衛門、今村掃部助、遠藤喜右衛門(竹中久作が討ち取る)、浅井雅楽助、浅井斎、狩野次郎左衛門、狩野三郎兵衛、細江左馬助、早崎吉兵衛、このほか千百余討ち取り。この後、大谷まで五〇町ばかり追い打ち、麓を放火。
元亀1年6月、織田信長、羽柴秀吉に横山城の在番を命じる。
元亀1年7月1日、織田信長、佐和山城の磯野丹波守を攻める。//百々屋敷に砦を作ることを命じ、丹羽永秀を入れる。北の山には市橋九郎右衛門、南の山には水野下野、西彦根山には河尻与兵衛を入れ置く。
元亀1年7月4~6日、織田信長、馬廻り衆のみを連れて上洛。明智光秀宅に宿泊。
元亀1年7月7日、織田信長、岐阜に戻るために京都を発つ。
元亀1年7月8日、織田信長、岐阜に帰城。
元亀1年7月18日、新山城の尼子勢が末次城を攻めるも戦果なく退却。
元亀1年7月21日、山中鹿之助、毛利勢包囲中の熊野城への兵糧搬入を企てるも失敗。熊野城は同年3月から毛利勢に包囲され、籠城中。
元亀1年7月27日、三好三人衆の三好長逸が、阿波勢5000を率いて摂津に上陸し、天満の森に布陣し、淀川河口の野田と福島に砦を構築。
元亀1年7月28日、毛利勢、尼子方高瀬城の周辺を稲薙ぎ⇒兵糧の欠乏。
元亀1年7月29日、三好三人衆方の安宅信康が、淡路勢1500を率いて兵庫に上陸。
元亀1年8月3日、出雲国熊野城城主熊野久忠、親交のあった毛利方の部将井上肥前守の勧誘を受け、毛利方に下る。これにより、尼子氏の拠点は新山城(尼子勝久本陣)/高瀬城(城主米原綱寛)/一倉城(城主古志重信)の3城のみとなる。
元亀1年8月9日、三好三人衆方の安宅信康が、兵庫から尼崎に陣を移す。
元亀1年8月13日、三好三人衆方の安宅信康が、伊丹親興の守る伊丹城を攻撃。
元亀1年8月17日、三好三人衆方が、三好義継の守る河内古橋城(大阪府門真市御堂町)を囲む。
元亀1年8月17日、毛利勢、鳶ノ巣(出雲市)の本陣を出発し、島根半島を東進し、新山城に迫る。
元亀1年8月20日、織田信長、摂津・河内に向け出陣のため、岐阜を出発。その日は横山(近江)に陣取り。
元亀1年8月22日、織田信長、摂津・河内征伐のため長光寺泊。
元亀1年8月23日、織田信長、摂津・河内征伐のため下京本能寺(京都市中京区六角油小路の本能寺小学校)泊。
元亀1年8月24日、織田信長、下京本能寺に連泊。
元亀1年8月25日、織田信長、摂津に出陣しひらかたの寺(敬応寺:真宗西本願寺派)に宿泊。
元亀1年8月頃、毛利元就、重病の報が山陰の陣に伝わる。
元亀1年8月26日、織田信長、三好三人衆らが籠もる野田/福島の砦を攻撃。
元亀1年8月26日、織田信長、摂津の野田・福島(大阪市都島区と福島区のうち)を攻める。織田信長は、天王寺に陣取り。//野田・福島には、細川六郎、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、岩成、松山、香西、三好為三、(斎藤)竜興、永井隼人らが立て籠もる。人数八千。
元亀1年8月28日、三好為三、香西、天王寺に赴き、織田信長に会う。//三好為三、香西は織田信長に内応。
元亀1年、織田信長が石山本願寺に寺地の明け渡しを要求し、石山本願寺側はこれを拒否。//本願寺宗主は11世顕如。
元亀1年9月3日、将軍足利義昭、摂津国中嶋、細川典厩の城まで動座。
元亀1年9月5日、本願寺顕如が、紀伊惣門徒に対して「此方之儀、弥難儀に及び候間、時日を移さず早々に上洛候はば、喜悦すべく候、報謝の為、一世之身命を顧みず、此度忠節を抽んじらるべき事、有難く候。」との書状を発信。
元亀1年9月5日、毛利勢、山陰の陣に吉川元春/宍戸隆家の軍を残し、毛利輝元/小早川隆景らは安芸に退却。(元就重病のため)⇒以降、尼子勢が反撃開始。
元亀1年9月5日、上杉輝虎が、武田信玄が厩橋城を攻略しようとしている情報を聞き、越後府内(上越市)を出発し、上野国に出陣。
元亀1年9月6日、本願寺顕如が、近江中郡門徒に宛て「信長上洛につき、此方迷惑せしめ候、昨々年以来、難題を懸け申し付け、随分の扱いをなし、彼の方に応じ候と雖も、その専なく、破却すべきの由、確かに告げ来たり候、此上は力及ばず、然らば此時開山の一流、退転なき様、各身命を顧みず、忠節を抽んじられるべく候こと、有難く候、併せて馳走頼み入り候、若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからざる候也」との書状を発信。 元亀1年9月8日、織田信長、大坂の西十町ばかりの楼の岸(淀川と神崎河に挟まれた川中島:大阪市中央区大手前1丁目、石山本願寺の近隣)に砦を申しつける。//斎藤新八、稲葉伊豫、中側八郎右衛門を入れ置く。
元亀1年9月8日、織田信長、大坂の川向かいの川口(西区川口)という在所に砦を申しつける。//平手堅物、平手甚左衛門、長谷川与次、水野堅物、佐々蔵介、塚本小大膳、丹羽源六、佐藤六左衛門、梶原平二郎、高宮右京亮らを入れ置く。
元亀1年9月8日、織田信長方の松永久秀らが、三好三人衆方が前線の拠点としていた海老江(福島区海老江)を占領。
元亀1年9月9日、織田信長、天満が森へ本陣を移す。//9月10日の説あり
元亀1年9月10日、織田信長、石山本願寺を攻城。//9月12日に石山本願寺が織田勢に攻めかけたのが正解と思われる。
元亀1年9月10日、織田信長が、天満の森に本陣を移す。//9月9日の説あり
元亀1年9月10日、本願寺顕如が、浅井久政・長政父子に宛て、「弥々以て油断なく、入魂有るべき事肝要に候」と記し、兵を出して織田勢の背後を脅かすことを要望。//下間頼総が使者となり、書状を届ける。
元亀1年9月、本願寺顕如が、下間正秀を使者として、江北十ヶ寺の門徒へ織田信長に対する決起を促す。//十ヶ寺は三カ条の誓約を交わして決起を決めていた。
元亀1年9月12日、織田信長が、三好三人衆を責めるため、将軍足利義昭を伴い、2万の兵を率いて、摂津海老江まで進出。//織田勢は、土手を築き、城楼を組み、大鉄砲を据え、鉄砲3000挺を用意。//信長はこの時点で近江国友村と堺を支配下に収め、鉄砲を調達。//根来衆も信長に加勢。//福島と野田の砦に大筒を打ち込み、3000挺の鉄砲で攻撃。//三好三人衆が和を乞うものの、信長は拒否して、徹底的に攻め続ける。 元亀1年9月12日、根来衆、雑賀衆、紀伊国奥郡衆ら二万ばかり、石山本願寺に来援し、遠里小野(大阪市住吉区遠里小野町)、住吉、天王寺に陣取り。//鉄砲三千挺を所有。
元亀1年9月12日、夜、本願寺顕如が、近江門徒が決起して浅井・朝倉勢とともに近江坂本に向かうとの報を受け、石山本願寺で織田信長との開戦を決意し、三好三人衆が拠る野田・福島の砦を攻撃している織田勢への攻撃を開始。
元亀1年9月12日、朝倉義景が上洛するいう風聞が京都を流れる。
元亀1年9月13日、大坂(石山本願寺)より、夜中、楼の岸・川口両所の織田方の砦に鉄砲が撃ちかけられるものの、大した戦はなし。//本願寺顕如が旗幟を明らかにした。このころ三好政康の弟為三が織田信長に降る(9/20付けの織田信長の朱印状がある)。//9月12日夜半~13日未明か?
元亀1年9月13日、摂津大坂が、豪雨に見舞われ、織田方の陣が浸水。門徒衆が楼の岸や川口の砦を襲撃。夜になって三好三人衆勢が堤防を破壊。
元亀1年9月14日、大坂(石山本願寺)より、天満が森へ出陣。織田方、一番佐々成政負傷して退陣、二番前田又左衛門(利家)掛かり合い、右手は弓にて中野又兵衛、左は野村越中、湯浅甚介、毛利河内、金松又四郎、先を争い戦う。//野村越中が討ち死。
元亀1年9月16日、越前朝倉義景、北近江浅井長政ら、30000ばかりの兵にて、近江坂本口(大津市下坂本)に攻め寄せる。//森三左衛門、坂本の町はずれにて戦い、僅か1000の兵にて足軽合戦にわずかながら頸をとり、勝利。
元亀1年9月16日、本願寺顕如が、摂津大坂の合戦が膠着したため、休戦を申し入れたが、織田信長はこれを拒否。
元亀1年9月19日、浅井勢、朝倉勢、坂本に攻め寄せ、森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八ら織田方の将兵が討死。
元亀1年9月、浅井・朝倉勢、宇佐山(坂本)の城に攻め上り、放火するも、武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門両人が堅固に支える。
元亀1年9月19日、本願寺顕如が、阿波の篠原長房に来援を求める。
元亀1年9月20日、浅井・朝倉勢が、近江志賀の宇佐山城(滋賀県大津市錦織町)を落とす。城将の織田信治と森可成が討死。//9月19日か?
元亀1年9月20日、浅井・朝倉勢、大津の馬場・松本を放火。
元亀1年9月20日、浅井・朝倉勢、近江宇佐山の志賀城を攻めてこれを落とし、織田信長の弟織田信治と森可成が討死。
元亀1年9月20日、織田信長、三好為三に対して朱印状を与える。
元亀1年9月21日、浅井・朝倉勢、逢坂を越え、醍醐・山科を焼き払い、京都近辺に至る。
元亀1年9月21日、大納言烏丸光康が勅書を携えて大坂に向けて下ったが、道が悪いため、途中で引き返す。
元亀1年9月21日、織田信長が、浅井・朝倉勢が近江坂本を攻略したとの報を受け、摂津大坂からの退却を決める。
元亀1年9月21日晩、明智光秀・村井貞勝・柴田勝家ら、二条城守衛(織田信長・足利義昭は不在)のため、摂津から帰洛。
元亀1年9月22日、柴田勝家、前日摂津から二条城守衛のため帰洛したものの、再び摂津に赴く。
元亀1年9月23日夜、織田信長、足利義昭と伴に、摂津国野田・福島の陣から引き上げ、京都に帰る。
元亀1年9月、尼子勝久/山中鹿之助、横道に羽倉城攻略を命ずるも、吉川元春の救援により成功せず。
元亀1年9月24日、織田信長、近江坂本に出陣し、比叡山山麓に布陣。朝倉氏・
浅井氏連合軍と対峙。
元亀1年9月26日、明智光秀、一色藤長、上野家成、三淵弥四郎ら幕府衆と伴に京都に帰る。//このころ、羽柴秀吉・丹羽長秀は近江横山城に在城。
元亀1年9月27日、阿波の篠原房長が、20000の兵を率いて、摂津兵庫に上陸。//翌9月28日、尼崎に布陣。
元亀1年9月29日、本願寺顕如が、前関白の近衛前久からの見舞状の返事に「当時の信長恣之所行、且に堪え難き次第に候」と書く。
元亀1年10月2日、織田信長、河内国高屋の遊佐信教に書状を与え、徳川家康が着陣し、また、丹羽長秀・羽柴秀吉も(琵琶湖を)渡海して加わり、東福寺・清水・粟田口あたりに陣取ったと偽る。
元亀1年10月4日、織田信長、土一揆の蜂起によってこの前に足利義昭が出した徳政令について、徳政無効の令を発する。羽柴秀吉、織田信長の朱印状に添え状を出す。//摂津国平野荘・山城国賀茂郷・大山崎その他多数の社寺に向けている。
元亀1年10月5日、尼子勝久/山中鹿之助ら、末次城を攻めるも、急を聞いた吉川元春の救援により、背後を衝かれて失敗し、新山城に帰還。
元亀1年10月頃、一神山城の尼子勢、中ノ海南岸の森山城を攻めるも、新たに来航した毛利水軍に破れる。
元亀1年10月7日、本願寺顕如が、諸国の門徒に宛てて、「近年信長権威に依り、爰許へたいし度々難題いまに其煩やまず候、此砌門下之輩寸志を励み、仏法興隆たるべく候」という檄を飛ばし、決起を求める。//これに応じて湖南で門徒が蜂起し、箕作山や観音寺山城に攻め寄せるが、織田勢が鎮圧。
元亀1年10月、石山本願寺と三好三人衆が、河内の高屋・烏帽子形・若江・交野、摂津の伊丹・茨木・高槻に押し寄せる。
元亀1年10月13日、青蓮院門跡の尊朝法親王が、本願寺顕如に、織田信長とに和睦を進める。//顕如は11月13日に「爰許之儀、先以て異議無く候」と返書したが、顕如も信長も和睦するつもりは毛頭なし。
元亀1年10月21日、織田信長が、本願寺顕如の求めに応じて阿波から摂津に出陣していた篠原房長と和睦。
元亀1年11月頃、織田信長、松永久秀の取りなしで、篠原長房と和睦。
元亀1年10月22日、羽柴秀吉、細川藤孝ら幕府衆と伴に、山城国御牧城(京都府久世郡)を落とす。//この直前、御牧城は三好三人衆により落とされていた。
元亀1年10月24日、顕誓(浄土真宗、蓮如の孫)が、石山本願寺で逝去。享年72歳。
元亀1年10月25日、一神山城の尼子勢が退却。これにより、中ノ海/日本海の制海権は毛利勢に帰し、尼子方水軍は本庄の下葉崎城麓に逼塞。
元亀1年11月、織田信長、永禄12年から始めた内裏の修築を終える。奉行は村井貞勝・朝山日乗。
元亀1年11月2日、一倉城城主古志重信、毛利勢の攻囲に耐え兼ね、毛利氏に下る。この勢いに乗り、その後、吉川元春は新山城を2回焼き打ち、高瀬城の支塁小高瀬(二の丸)を焼き崩す。
元亀1年11月16日、尼子勢、高瀬城への兵糧搬入のため、宍道湖北岸の満願寺城(守将湯原春綱)を抑え、兵糧補給を試みるも、高瀬城の麓の庄原で敗退。
元亀1年、本願寺顕如の下知に従い、長島の門徒衆が願証寺に依って蜂起。
元亀1年11月21日、長島一向一揆が、織田方の織田信興を攻め、信興は自害。
元亀1年11月21日、織田信長、六角承禎・義治父子と和睦。
元亀1年11月26日、近江堅田の戦いで織田方の坂井政尚が討死。
元亀1年12月、尼子方水軍最後の拠点下葉崎城が毛利勢に奪回される。
元亀1年12月上旬、毛利勢、満願寺城を尼子勢から奪還。吉川元春はその勢いに乗り、神西に移陣し、高瀬城の東6㌔ほどの宍道塚(八束郡)に1城を築き、新山城と高瀬城の連絡を断つ。
元亀1年12月、上杉輝虎が、上野国から帰国。//元亀1年9月5日の上野国出陣。
元亀1年12月3日、本願寺顕如が、叡山に陣を構える朝倉義景や浅井長政、両氏の家中など宛に、勝利を祝い、在陣の労を労う書状12通を出す。
元亀1年12月9日、(13日?)、織田信長と朝倉義景・浅井長政が、将軍足利義昭と関白二条晴良の仲介で和睦。
元亀1年12月13日、織田信長、比叡山に籠もっていた朝倉氏/浅井氏連合軍と和睦。
元亀1年12月13日、上杉輝虎が、春日山城看経所に越中平定の祈願文を納める。これより法号謙信を称す。
元亀1年12月15日、本願寺顕如が、武田信玄・勝頼父子に「毎事弥御入魂本望に候」との書状と贈物を届ける。
元亀1年12月、イエズス会のオルガンチーノが京に入る。
元亀1年12月、織田信長、岐阜城に帰還。
>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<
永禄13年、この年4月23日に元亀に改元。
永禄13年(1570)、この年4月に元亀に改元。
永禄13年(1570)、織田信長、公家衆にその所領を書き上げることを命じる。
元亀1年、宇喜多直家、石山城主金光宗高を暗殺し、石山城を奪う。
永禄13年(1570)1月6日、毛利勢、尼子氏討伐のため、安芸吉田郡山城を出陣。折から深雪。
永禄13年(1570)、毛利元就、毛利輝元を総大将として、粟屋元真/国司元武以下譜代約6千、吉川元春と石見衆、小早川隆景と備後衆、宍戸隆家と備中衆、さらには天野元定、熊谷信直や安芸佐東川内以下の水軍2百艘で総兵力2万5千で尼子氏討伐を開始。
永禄13年(1570)1月7日、本願寺顕如が、織田信長に年賀の祝儀と太刀・馬を贈る。 永禄13年(1570)1月11日、上杉輝虎が、佐野昌綱の下野国唐沢山城を攻め、これを北条氏政に知らせた上で、武蔵岩槻城を太田資正に返還するよう要求。
永禄13年1月16日、本願寺顕如が、足利義昭に三淵晴員を通じて年賀の祝儀を献上。
永禄13年、織田信長が、阿波の門徒が三好三人衆に加担している点について石山本願寺を糾弾し、石山からの退去を求める。//顕如は怒り、評定の結果、信長が攻めて来れば戦う他なしと決定し、「此度、石山の境内を御城地になされたき思し召しに付き、御処望尤もに候えども、当地は仏意相応百縁の地に候はば、ひとえに御用捨下さるべし」と返答。
永禄13年1月23日、織田信長が足利義昭に5カ条の条書を提示。宛名は織田信長から朝山日乗と明智光秀となっており、足利義昭が袖判をおして承認する形になっている。//足利義昭、この条書きの内容に憤る。
永禄13年1月23日、織田信長が諸国の大小名に2月中旬の参洛をうながす書状を発信。畿内、近国の大名/国衆が中心だが、遠国では三河/遠江の徳川家康、甲斐の武田氏、北陸の神保、出雲尼子氏、備前衆(浦上氏など)があり。
永禄13年(1570)1月28日、毛利氏、出雲飯石郡多久和(現三刀屋町多久和:守将多久和大和守)の多久和城を攻撃。秋上庵介/尤道理介も籠城していたとの説もある。
永禄13年1月晦日、尼子方の多久和城陥落(城将多久和大和守)。多久和大和守は数百人の部下とともに討死。多久和城落城の後、尼子方の掛合氷之上/禅定寺両城(川副久盛の持城)や阿用/福富両城(尼子方の城)も次々と落城。>秋上庵介と尤道理介らが援将として在城していたが、毛利勢を恐れて城に火をかけ、戦わず敗走したとも。この時の狂歌「城を明け落葉尤道理なりいかに庵を春焼にする」⇒多久和城落城により掛合の氷ノ上、禅定寺、阿用、福富の要害も落ちる。
永禄13年2月12日、毛利輝元の毛利勢が出雲3沢鎌倉山/横田を越えて比田着陣。山中鹿之助、立原久綱ら6千8百の兵で出雲富田と比田の中間の中山辺りに布陣。
永禄13年2月13日、毛利勢、出雲比田を進発し出雲布部に向かい尼子方の部将森脇久○の土塁を奪取。山中鹿之助ら尼子勢は総軍7千をもって布部中山に布陣し毛利勢を迎え撃つ。
永禄13年2月14日未明、布部山の戦いが始まる。東の中山口(本道筋)、西の水谷口の両口とも地理に明るい尼子勢が当初優勢。しかし、およそ3倍の兵力の毛利勢と吉川元春/小早川隆景の両川の采配/さらには毛利勢の1隊に背後を突かれ尼子勢は3百余(2百余の説も)の死者を出し、ついに総退却。山佐口から末次方面に崩れ去る。この時、米原綱寛/神西元通/牛尾弾正忠信らもほうほうの体で居城に逃げ帰る。
永禄13年(1570)2月14日、布部の戦で横道兵庫助秀綱、姪婿の中井善左衛門に討たれ、討死。中井の振舞は指弾の的となった。この戦で横道源介/権允兄弟は毛利輝元の近習粟屋又左衛門と田門右衛門尉を討取る。
永禄13年2月15日、布部の合戦で敗れた尼子勢、富田城の囲みを解く。毛利輝元を始め毛利勢が富田城に入城。城番天野隆重に合流。その後、毛利輝元は元就の五男元秋を富田城主とし、天野隆重を補佐役として雲伯諸城の奪回を図る。
永禄13年2月16日、本願寺顕如の長男茶々(13歳)が得度し、教如と名乗る。
永禄13年2月18日、北条氏康・氏政父子が、上杉輝虎に誓書を送り、武蔵岩槻城を太田資正に返還すること、人質を交換することを約束する。
永禄13年2月24日、吉川元春ら、尼子方の出雲末次城攻略に向かう。山中鹿之助/立原久綱らが白潟と末次の間の橋を落として防ぐが、吉川勢は舟で渡海し末次城を攻略。
永禄13年2月25日、織田信長、上洛、赤坂(岐阜県大垣市赤坂)に宿泊。
永禄13年2月26日、織田信長、常楽寺(滋賀県蒲生郡安土町)で逗留。
永禄13年2月30日、織田信長、岐阜から上洛し、明智光秀のところに宿泊。
永禄13年2月29日、毛利勢、末次城の対岸白潟(松江市)に放火。
永禄13年3月、但馬守護山名氏の家臣だった但馬竹田城太田垣氏が織田信長のもとへ伺候。しかし、その後、生野銀山の所有権をめぐり織田信長と対立し、太田垣氏は毛利方に就く。
永禄13年3月1日頃、毛利勢、熊野城を襲撃。
永禄13年3月3日、織田信長、近江国中の相撲取りを集めて、常楽寺にて相撲興行。//相撲取りは、百済寺ノ鹿、百済寺の小鹿、たいとう、正権、長光、宮居眼左衛門、河原寺ノ大進、はし小僧、深尾又次郎、鯰江又一郎、青地与右衛門。行事は木瀬蔵春庵。
永禄13年3月5日、織田信長、上洛。上京驢庵にて泊。畿内、隣国の面々さらに徳川家康が在洛。
永禄13年3月5日、上杉輝虎と北条氏康が和睦。輝虎は氏康の七男で17歳の氏秀を要しとし、代わりに柿崎城(中頸城郡柿崎町)城主柿崎景家の子晴家を人質として小田原城へ送ることとする。//北条氏秀は、天文23年誕生。幼名国増丸、三郎と称する。
永禄13年3月18日、羽柴秀吉、毛利元就から織田信長に派遣され上京した使僧に対して毛利氏との申次を担当することを小早川隆景に報告。
永禄13年3月22日、織田信長、曇華院にその所領山城国大住荘三か村を安堵させ、一色藤長の違乱を止める。//この際、木下秀吉・丹羽長秀・中川重政・明智光秀が連署で大住荘三か村の名主百姓中に書状を与える。
永禄13年4月10日、足利義昭が、武田信玄からの書状を受領。//織田信長のやり方に十分注意するよう助言。
永禄13年4月10日、上杉輝虎が、北条氏康からの人質氏秀と沼田城で対面し、父子の義を結ぶ。
永禄13年4月20日、上杉輝虎が、外征先の沼田城から、春日山城へ帰城。
永禄13年4月20日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、石山本願寺の麓にある願得寺において、覚如が書いた法然と親鸞の行状記である「拾遺古徳伝」を校合し終える。
永禄13年4月23日、永禄から元亀に改元。
永禄13年4月25日、上杉輝虎が、人質の北条氏秀に自身の幼名景虎を授け、故長尾政景の娘を景虎の正室とし、春日山城の二の廓に置く。
元亀1年4月14日、織田信長、将軍義昭の館落成の祝言として、観世大夫、今春大夫を招じて、能会を開く。
元亀1年4月17日、毛利勢、尼子方の牛尾弾正忠信久が籠もる出雲牛尾城を落とす。弾正忠は弟の僧某以下百611名とともに討死。⇒その後、出雲熊野城開城、さらに、高佐(高瀬)城、平田平崎城など出雲国内の尼子方の城塞が次々と毛利勢の手に落ちる。
元亀1年4月20日、織田信長、朝倉氏討伐のため京都を出陣。
元亀1年4月21日、織田信長、近江高島郡田中(安曇川町)の海津氏の居城に泊。
元亀1年4月22日、織田信長、若狭国熊河松宮玄蕃の居城に泊。
元亀1年4月23日、織田信長、佐柿(福井県三方郡美浜町佐柿)の粟屋越中の所に到着。
元亀1年4月24日、織田信長、佐柿(福井県三方郡美浜町佐柿)の粟屋越中の所に泊。
元亀1年4月25日、織田信長、敦賀表に出陣。天筒山(守将寺田釆女正)に取りかけ、攻め落とす。首級1170を上げる。
元亀1年4月25日、織田信長、越前手筒山城を落とす。
元亀1年4月26日、織田信長、金が崎城(守将朝倉中務大輔)を攻め落とす。朝倉中務大輔は降参し退去。
元亀1年4月、織田信長、滝川彦左衛門、山田左衛門尉に既に落城していた引壇(ひきた)城の破却を命じる。
元亀1年4月、織田信長、木目峠を越え、越前国に乱入しようとしたときに、浅井長政の寝返りの報告を受ける。
元亀1年4月、織田信長、金が崎城に羽柴秀吉を殿として込め置き、朽木越えにて京都に至る。//この際、朽木信濃守が織田信長に馳走した。
元亀1年4月下旬?、毛利勢、古志重信の守る一倉城(出雲市)を落とす。
元亀1年4月31日、織田信長、越前から京都に帰還。浅井氏の離反により越前朝倉氏討伐を中止し、退却のため。
元亀1年4or5月、織田信長、明智光秀・丹羽長秀に、若狭国の武藤上野から人質をとってくることを命じる。//その後、武藤上野は母親を人質として提出。
元亀1年5月4日、毛利勢、尼子方の出雲高瀬城攻め。
元亀1年5月5日、毛利勢、平田城攻め。
元亀1年5月6日、織田信長、近江の街道筋の警護を稲葉伊予父子、斎藤内蔵佐に命じ、守山の町に入ることを命じる。
元亀1年5月、稲葉伊予父子、近江国守山に入ろうとしたとき、既に一揆が蜂起。へそ村に煙を挙げ、守山の町の南口より焼き入れようとしたところを稲葉伊予父子が支え、追い払う。
元亀1年5月9日、織田信長、京都を発つ。
元亀1年5月上旬?、尼子方末次城の守将大野高直、7百貫の知行を条件に毛利方に下る。
元亀1年5月、尼子方清水寺の大宝坊宗信が毛利方に下る。
元亀1年5月、尼子方秋上庵介久家、父綱平と共に先に寝返った尼子の旧臣野村士悦や清水寺大宝坊宗信の勧誘で、毛利方に寝返り(鹿之助が尼子勝久に重く用いられ、秋上庵介が軽んぜられたため?衰運の尼子氏と破竹の勢いの毛利氏を天秤にかけた結果か?⇒しかし、秋上庵介は毛利家に寝返るにあたり暇乞いのため山中鹿之助のもとを訪れたとの説もあり!父秋上綱平の浅慮が招いたことである可能性!)。秋上家は大庭大宮の神官の一族で、島根半島東部の美保湾を押さえる森山城(美保関町)を中心に勢力をもっており、この寝返りを元就は非常に喜ぶ(秋上父子は尼子方の部将の中でも比較的筋目がよかった?出雲に影響力があった?)。これにより尼子方は美保関周辺を失う。
元亀1年、毛利方に寝返った野村士悦が、羽倉山城を奪取。
元亀1年5月、毛利輝元、尼子勝久の居城新山城下を焼く。
元亀1年5月、織田信長、志賀(大津市山中町)の城、宇佐山の砦を拵えることを命じ、森三左衛門(可成)を入れ置く。
元亀1年5月13日、織田信長、滋賀県野洲町大字永原まで来着。
元亀1年5月13日、織田信長、永原に佐久間右衛門を入れ、長光寺(近江八幡市長光寺町)に柴田修理亮勝家を在城させ、安土城に中川八右衛門(左馬允:中川重政の弟)を入れる。
元亀1年5月19日、浅井備前、鯰江城(滋賀県愛知郡愛東村鯰江)に人数を入れ、市原郷(滋賀県神崎郡永源寺町市原野)で一揆を促し、織田信長の行く手を阻む。//この際、日野城蒲生右兵衛大輔、布施藤九郎、香津畑(滋賀県神崎郡永源寺町甲津畑)が織田信長に馳走し、事なきを得る。
元亀1年5月19or20日頃、織田信長、近江千草越(中道筋)の途中、杉谷善住坊に狙撃され、身に掠り傷をうける。//千草越えには、西方から(1)滋賀県蒲生郡日野町・平子峠・甲賀郡土山町・水沢峠を越す、(2)滋賀県神崎郡永源寺町甲津畑・根平峠(千種越)を経て三重県三重郡千草に入る、(3)神埼郡永源寺町黄和田から八風峠越の3路があり、中道筋は根平越だと思われる。
元亀1年5月21日、織田信長、千草越えを経て、美濃岐阜城に到着。
元亀1年5月下旬、尼子勝久、丹波/但馬に要請していた水軍数百艘が出雲に姿を表し、山中鹿之助と協力して秋上庵介の秋上家の拠点出雲森山城を攻めるも毛利勢に敗退。
元亀1年5月27日、尼子方の水軍、宇龍浦(○川郡)を襲う。
元亀1年5月28日、尼子方の水軍、日御碕神社を破壊し、宝物を奪う。⇒この時期は尼子方の敗色が濃厚で統制が取れなくなってきた感がある!
元亀1年6月、木下秀吉が、堺の今井宗久に鉄砲の火薬を急ぎ調達するよう依頼。
元亀1年、池田勝正の家中の荒木村重や中川清秀が、池田一族の池田知正を擁立して三好三人衆加担し、池田勝正を追い出す。//6月頃か?
元亀1年、徳川家康が、本拠を岡崎から遠江の浜松に移し、武田信玄の南下に備える。//6月頃か?
元亀1年6月3日、尼子方、佐陀の勝間城(毛利勢が築いた新城で尼子本陣新山城の包囲網がこの勝間城築城により完成)を攻撃するも反撃にあい、尼子勝久の側近三刀屋蔵人家忠/神代左馬ジョウ/上野源助/高田惣一郎/上田早苗助(尼子1勇士の1人)らが討死の大敗北。それまでに、尼子方は幾度も勝間城を攻めるとともに、山中鹿之助が羽倉山城を何度も強襲し新山城東側に活路を見出そうとしたが、双方とも成功せず。
元亀1年6月4日、佐々木承禎父子、近江南郡の所々で一揆を催し、野洲川に人数を出すものの、柴田勝家・佐久間右衛門が落窪(滋賀県野洲郡中主町乙窪)にて取り合い、首級780を挙げる。//このとき、三雲父子、高野瀬、水原ら伊賀・甲賀の侍を多数討ち取る。また、近江の過半が静まる。
元亀1年6月、浅井備前、越前衆の来援を受けて、たけくらべ(美濃と近江の境、寝物語の里の別称)、かりやす(苅安尾:滋賀県坂田郡伊吹村の伊吹山南麓)の両所に砦を構える。
元亀1年6月19日、織田信長が、35000の兵を率いて、岐阜を進発し、近江に向かう。
元亀1年6月20日、織田信長、たけくらべを発向。
元亀1年6月21日、織田信長、浅井長政の居城小谷城へ攻め寄せ、虎御前山に登る。このとき、横山城を囲む。//森三左衛門、坂井右近、斎藤新五、市原九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀山へ登り、町を焼き払う。また、柴田勝家、佐久間右衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、近江衆に在々所々への放火を命じる。
元亀1年6月22日、織田信長、虎御前山を退陣。殿、簗田左衛門、中条将監、佐々内蔵介に鉄砲五百挺、弓衆三十ばかりを加える。//この後、高坂、三田村、野村肥後らが立て籠もる横山城(長浜市浅井郡石田町の観音寺坂トンネルの山手)に攻めかかる。
元亀1年6月、朝倉孫三郎、浅井の後巻きのため約8000を率いて出発。大谷の東のより山(大依山:東浅井郡浅井町大依山)に陣取る。これに浅井の人数5000ばかりが加わる。
元亀1年6月24日、織田信長、竜ヶ鼻に陣取る。
元亀1年6月24日、徳川家康、織田信長のために近江に来援、到着。竜ヶ鼻に陣取り
元亀1年6月26日、朝倉景健が、越前勢10000を率いて近江の小谷城付近に到着。
元亀1年6月26日、徳川家康が、三河勢5000を率いて近江の小谷城付近に来援。//6月24日?//德川家を出奔して加賀の一向一揆に加わっていた本多正信が駆け付け、家康に帰参を許される。
元亀1年6月27日早暁、朝倉孫三郎、大依山の陣を動く。
元亀1年6月28日未明、浅井・朝倉勢、姉川を前にする形で、野村、三田村両郷へ移動し、二手に陣を構える。
元亀1年6月28日、織田信長、浅井・朝倉勢に対する形で布陣。//先鋒徳川家康、東の野村の郷には信長本隊、その東は美濃三人衆。
元亀1年6月28日、織田信長、徳川家康と連合し、近江姉川で朝倉氏・浅井氏連合軍を撃破。//織田信長方が討ち取った主な武将:真柄十郎左衛門(青木所右衛門が討ち取る)、前波新八、前波新太郎、小林端周軒、魚住竜文寺、黒坂備中、弓削六郎左衛門、今村掃部助、遠藤喜右衛門(竹中久作が討ち取る)、浅井雅楽助、浅井斎、狩野次郎左衛門、狩野三郎兵衛、細江左馬助、早崎吉兵衛、このほか千百余討ち取り。この後、大谷まで五〇町ばかり追い打ち、麓を放火。
元亀1年6月、織田信長、羽柴秀吉に横山城の在番を命じる。
元亀1年7月1日、織田信長、佐和山城の磯野丹波守を攻める。//百々屋敷に砦を作ることを命じ、丹羽永秀を入れる。北の山には市橋九郎右衛門、南の山には水野下野、西彦根山には河尻与兵衛を入れ置く。
元亀1年7月4~6日、織田信長、馬廻り衆のみを連れて上洛。明智光秀宅に宿泊。
元亀1年7月7日、織田信長、岐阜に戻るために京都を発つ。
元亀1年7月8日、織田信長、岐阜に帰城。
元亀1年7月18日、新山城の尼子勢が末次城を攻めるも戦果なく退却。
元亀1年7月21日、山中鹿之助、毛利勢包囲中の熊野城への兵糧搬入を企てるも失敗。熊野城は同年3月から毛利勢に包囲され、籠城中。
元亀1年7月27日、三好三人衆の三好長逸が、阿波勢5000を率いて摂津に上陸し、天満の森に布陣し、淀川河口の野田と福島に砦を構築。
元亀1年7月28日、毛利勢、尼子方高瀬城の周辺を稲薙ぎ⇒兵糧の欠乏。
元亀1年7月29日、三好三人衆方の安宅信康が、淡路勢1500を率いて兵庫に上陸。
元亀1年8月3日、出雲国熊野城城主熊野久忠、親交のあった毛利方の部将井上肥前守の勧誘を受け、毛利方に下る。これにより、尼子氏の拠点は新山城(尼子勝久本陣)/高瀬城(城主米原綱寛)/一倉城(城主古志重信)の3城のみとなる。
元亀1年8月9日、三好三人衆方の安宅信康が、兵庫から尼崎に陣を移す。
元亀1年8月13日、三好三人衆方の安宅信康が、伊丹親興の守る伊丹城を攻撃。
元亀1年8月17日、三好三人衆方が、三好義継の守る河内古橋城(大阪府門真市御堂町)を囲む。
元亀1年8月17日、毛利勢、鳶ノ巣(出雲市)の本陣を出発し、島根半島を東進し、新山城に迫る。
元亀1年8月20日、織田信長、摂津・河内に向け出陣のため、岐阜を出発。その日は横山(近江)に陣取り。
元亀1年8月22日、織田信長、摂津・河内征伐のため長光寺泊。
元亀1年8月23日、織田信長、摂津・河内征伐のため下京本能寺(京都市中京区六角油小路の本能寺小学校)泊。
元亀1年8月24日、織田信長、下京本能寺に連泊。
元亀1年8月25日、織田信長、摂津に出陣しひらかたの寺(敬応寺:真宗西本願寺派)に宿泊。
元亀1年8月頃、毛利元就、重病の報が山陰の陣に伝わる。
元亀1年8月26日、織田信長、三好三人衆らが籠もる野田/福島の砦を攻撃。
元亀1年8月26日、織田信長、摂津の野田・福島(大阪市都島区と福島区のうち)を攻める。織田信長は、天王寺に陣取り。//野田・福島には、細川六郎、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、岩成、松山、香西、三好為三、(斎藤)竜興、永井隼人らが立て籠もる。人数八千。
元亀1年8月28日、三好為三、香西、天王寺に赴き、織田信長に会う。//三好為三、香西は織田信長に内応。
元亀1年、織田信長が石山本願寺に寺地の明け渡しを要求し、石山本願寺側はこれを拒否。//本願寺宗主は11世顕如。
元亀1年9月3日、将軍足利義昭、摂津国中嶋、細川典厩の城まで動座。
元亀1年9月5日、本願寺顕如が、紀伊惣門徒に対して「此方之儀、弥難儀に及び候間、時日を移さず早々に上洛候はば、喜悦すべく候、報謝の為、一世之身命を顧みず、此度忠節を抽んじらるべき事、有難く候。」との書状を発信。
元亀1年9月5日、毛利勢、山陰の陣に吉川元春/宍戸隆家の軍を残し、毛利輝元/小早川隆景らは安芸に退却。(元就重病のため)⇒以降、尼子勢が反撃開始。
元亀1年9月5日、上杉輝虎が、武田信玄が厩橋城を攻略しようとしている情報を聞き、越後府内(上越市)を出発し、上野国に出陣。
元亀1年9月6日、本願寺顕如が、近江中郡門徒に宛て「信長上洛につき、此方迷惑せしめ候、昨々年以来、難題を懸け申し付け、随分の扱いをなし、彼の方に応じ候と雖も、その専なく、破却すべきの由、確かに告げ来たり候、此上は力及ばず、然らば此時開山の一流、退転なき様、各身命を顧みず、忠節を抽んじられるべく候こと、有難く候、併せて馳走頼み入り候、若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからざる候也」との書状を発信。 元亀1年9月8日、織田信長、大坂の西十町ばかりの楼の岸(淀川と神崎河に挟まれた川中島:大阪市中央区大手前1丁目、石山本願寺の近隣)に砦を申しつける。//斎藤新八、稲葉伊豫、中側八郎右衛門を入れ置く。
元亀1年9月8日、織田信長、大坂の川向かいの川口(西区川口)という在所に砦を申しつける。//平手堅物、平手甚左衛門、長谷川与次、水野堅物、佐々蔵介、塚本小大膳、丹羽源六、佐藤六左衛門、梶原平二郎、高宮右京亮らを入れ置く。
元亀1年9月8日、織田信長方の松永久秀らが、三好三人衆方が前線の拠点としていた海老江(福島区海老江)を占領。
元亀1年9月9日、織田信長、天満が森へ本陣を移す。//9月10日の説あり
元亀1年9月10日、織田信長、石山本願寺を攻城。//9月12日に石山本願寺が織田勢に攻めかけたのが正解と思われる。
元亀1年9月10日、織田信長が、天満の森に本陣を移す。//9月9日の説あり
元亀1年9月10日、本願寺顕如が、浅井久政・長政父子に宛て、「弥々以て油断なく、入魂有るべき事肝要に候」と記し、兵を出して織田勢の背後を脅かすことを要望。//下間頼総が使者となり、書状を届ける。
元亀1年9月、本願寺顕如が、下間正秀を使者として、江北十ヶ寺の門徒へ織田信長に対する決起を促す。//十ヶ寺は三カ条の誓約を交わして決起を決めていた。
元亀1年9月12日、織田信長が、三好三人衆を責めるため、将軍足利義昭を伴い、2万の兵を率いて、摂津海老江まで進出。//織田勢は、土手を築き、城楼を組み、大鉄砲を据え、鉄砲3000挺を用意。//信長はこの時点で近江国友村と堺を支配下に収め、鉄砲を調達。//根来衆も信長に加勢。//福島と野田の砦に大筒を打ち込み、3000挺の鉄砲で攻撃。//三好三人衆が和を乞うものの、信長は拒否して、徹底的に攻め続ける。 元亀1年9月12日、根来衆、雑賀衆、紀伊国奥郡衆ら二万ばかり、石山本願寺に来援し、遠里小野(大阪市住吉区遠里小野町)、住吉、天王寺に陣取り。//鉄砲三千挺を所有。
元亀1年9月12日、夜、本願寺顕如が、近江門徒が決起して浅井・朝倉勢とともに近江坂本に向かうとの報を受け、石山本願寺で織田信長との開戦を決意し、三好三人衆が拠る野田・福島の砦を攻撃している織田勢への攻撃を開始。
元亀1年9月12日、朝倉義景が上洛するいう風聞が京都を流れる。
元亀1年9月13日、大坂(石山本願寺)より、夜中、楼の岸・川口両所の織田方の砦に鉄砲が撃ちかけられるものの、大した戦はなし。//本願寺顕如が旗幟を明らかにした。このころ三好政康の弟為三が織田信長に降る(9/20付けの織田信長の朱印状がある)。//9月12日夜半~13日未明か?
元亀1年9月13日、摂津大坂が、豪雨に見舞われ、織田方の陣が浸水。門徒衆が楼の岸や川口の砦を襲撃。夜になって三好三人衆勢が堤防を破壊。
元亀1年9月14日、大坂(石山本願寺)より、天満が森へ出陣。織田方、一番佐々成政負傷して退陣、二番前田又左衛門(利家)掛かり合い、右手は弓にて中野又兵衛、左は野村越中、湯浅甚介、毛利河内、金松又四郎、先を争い戦う。//野村越中が討ち死。
元亀1年9月16日、越前朝倉義景、北近江浅井長政ら、30000ばかりの兵にて、近江坂本口(大津市下坂本)に攻め寄せる。//森三左衛門、坂本の町はずれにて戦い、僅か1000の兵にて足軽合戦にわずかながら頸をとり、勝利。
元亀1年9月16日、本願寺顕如が、摂津大坂の合戦が膠着したため、休戦を申し入れたが、織田信長はこれを拒否。
元亀1年9月19日、浅井勢、朝倉勢、坂本に攻め寄せ、森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八ら織田方の将兵が討死。
元亀1年9月、浅井・朝倉勢、宇佐山(坂本)の城に攻め上り、放火するも、武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門両人が堅固に支える。
元亀1年9月19日、本願寺顕如が、阿波の篠原長房に来援を求める。
元亀1年9月20日、浅井・朝倉勢が、近江志賀の宇佐山城(滋賀県大津市錦織町)を落とす。城将の織田信治と森可成が討死。//9月19日か?
元亀1年9月20日、浅井・朝倉勢、大津の馬場・松本を放火。
元亀1年9月20日、浅井・朝倉勢、近江宇佐山の志賀城を攻めてこれを落とし、織田信長の弟織田信治と森可成が討死。
元亀1年9月20日、織田信長、三好為三に対して朱印状を与える。
元亀1年9月21日、浅井・朝倉勢、逢坂を越え、醍醐・山科を焼き払い、京都近辺に至る。
元亀1年9月21日、大納言烏丸光康が勅書を携えて大坂に向けて下ったが、道が悪いため、途中で引き返す。
元亀1年9月21日、織田信長が、浅井・朝倉勢が近江坂本を攻略したとの報を受け、摂津大坂からの退却を決める。
元亀1年9月21日晩、明智光秀・村井貞勝・柴田勝家ら、二条城守衛(織田信長・足利義昭は不在)のため、摂津から帰洛。
元亀1年9月22日、柴田勝家、前日摂津から二条城守衛のため帰洛したものの、再び摂津に赴く。
元亀1年9月23日夜、織田信長、足利義昭と伴に、摂津国野田・福島の陣から引き上げ、京都に帰る。
元亀1年9月、尼子勝久/山中鹿之助、横道に羽倉城攻略を命ずるも、吉川元春の救援により成功せず。
元亀1年9月24日、織田信長、近江坂本に出陣し、比叡山山麓に布陣。朝倉氏・
浅井氏連合軍と対峙。
元亀1年9月26日、明智光秀、一色藤長、上野家成、三淵弥四郎ら幕府衆と伴に京都に帰る。//このころ、羽柴秀吉・丹羽長秀は近江横山城に在城。
元亀1年9月27日、阿波の篠原房長が、20000の兵を率いて、摂津兵庫に上陸。//翌9月28日、尼崎に布陣。
元亀1年9月29日、本願寺顕如が、前関白の近衛前久からの見舞状の返事に「当時の信長恣之所行、且に堪え難き次第に候」と書く。
元亀1年10月2日、織田信長、河内国高屋の遊佐信教に書状を与え、徳川家康が着陣し、また、丹羽長秀・羽柴秀吉も(琵琶湖を)渡海して加わり、東福寺・清水・粟田口あたりに陣取ったと偽る。
元亀1年10月4日、織田信長、土一揆の蜂起によってこの前に足利義昭が出した徳政令について、徳政無効の令を発する。羽柴秀吉、織田信長の朱印状に添え状を出す。//摂津国平野荘・山城国賀茂郷・大山崎その他多数の社寺に向けている。
元亀1年10月5日、尼子勝久/山中鹿之助ら、末次城を攻めるも、急を聞いた吉川元春の救援により、背後を衝かれて失敗し、新山城に帰還。
元亀1年10月頃、一神山城の尼子勢、中ノ海南岸の森山城を攻めるも、新たに来航した毛利水軍に破れる。
元亀1年10月7日、本願寺顕如が、諸国の門徒に宛てて、「近年信長権威に依り、爰許へたいし度々難題いまに其煩やまず候、此砌門下之輩寸志を励み、仏法興隆たるべく候」という檄を飛ばし、決起を求める。//これに応じて湖南で門徒が蜂起し、箕作山や観音寺山城に攻め寄せるが、織田勢が鎮圧。
元亀1年10月、石山本願寺と三好三人衆が、河内の高屋・烏帽子形・若江・交野、摂津の伊丹・茨木・高槻に押し寄せる。
元亀1年10月13日、青蓮院門跡の尊朝法親王が、本願寺顕如に、織田信長とに和睦を進める。//顕如は11月13日に「爰許之儀、先以て異議無く候」と返書したが、顕如も信長も和睦するつもりは毛頭なし。
元亀1年10月21日、織田信長が、本願寺顕如の求めに応じて阿波から摂津に出陣していた篠原房長と和睦。
元亀1年11月頃、織田信長、松永久秀の取りなしで、篠原長房と和睦。
元亀1年10月22日、羽柴秀吉、細川藤孝ら幕府衆と伴に、山城国御牧城(京都府久世郡)を落とす。//この直前、御牧城は三好三人衆により落とされていた。
元亀1年10月24日、顕誓(浄土真宗、蓮如の孫)が、石山本願寺で逝去。享年72歳。
元亀1年10月25日、一神山城の尼子勢が退却。これにより、中ノ海/日本海の制海権は毛利勢に帰し、尼子方水軍は本庄の下葉崎城麓に逼塞。
元亀1年11月、織田信長、永禄12年から始めた内裏の修築を終える。奉行は村井貞勝・朝山日乗。
元亀1年11月2日、一倉城城主古志重信、毛利勢の攻囲に耐え兼ね、毛利氏に下る。この勢いに乗り、その後、吉川元春は新山城を2回焼き打ち、高瀬城の支塁小高瀬(二の丸)を焼き崩す。
元亀1年11月16日、尼子勢、高瀬城への兵糧搬入のため、宍道湖北岸の満願寺城(守将湯原春綱)を抑え、兵糧補給を試みるも、高瀬城の麓の庄原で敗退。
元亀1年、本願寺顕如の下知に従い、長島の門徒衆が願証寺に依って蜂起。
元亀1年11月21日、長島一向一揆が、織田方の織田信興を攻め、信興は自害。
元亀1年11月21日、織田信長、六角承禎・義治父子と和睦。
元亀1年11月26日、近江堅田の戦いで織田方の坂井政尚が討死。
元亀1年12月、尼子方水軍最後の拠点下葉崎城が毛利勢に奪回される。
元亀1年12月上旬、毛利勢、満願寺城を尼子勢から奪還。吉川元春はその勢いに乗り、神西に移陣し、高瀬城の東6㌔ほどの宍道塚(八束郡)に1城を築き、新山城と高瀬城の連絡を断つ。
元亀1年12月、上杉輝虎が、上野国から帰国。//元亀1年9月5日の上野国出陣。
元亀1年12月3日、本願寺顕如が、叡山に陣を構える朝倉義景や浅井長政、両氏の家中など宛に、勝利を祝い、在陣の労を労う書状12通を出す。
元亀1年12月9日、(13日?)、織田信長と朝倉義景・浅井長政が、将軍足利義昭と関白二条晴良の仲介で和睦。
元亀1年12月13日、織田信長、比叡山に籠もっていた朝倉氏/浅井氏連合軍と和睦。
元亀1年12月13日、上杉輝虎が、春日山城看経所に越中平定の祈願文を納める。これより法号謙信を称す。
元亀1年12月15日、本願寺顕如が、武田信玄・勝頼父子に「毎事弥御入魂本望に候」との書状と贈物を届ける。
元亀1年12月、イエズス会のオルガンチーノが京に入る。
元亀1年12月、織田信長、岐阜城に帰還。
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