950(1566)_==永禄9年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 永禄9年(1566)、足利義昭,尾張の織田信長に帰洛のことを依頼。さらに、足利義昭,細川藤孝を使者として,織田信長・斎藤竜興の和睦を図る。
 永禄9年(1566)、能登守護畠山氏の当主畠山義綱が父義続とともに家老の遊佐氏や長氏、温井氏らに追放され、幼少の義慶が擁立される。***以後、天正2年に義慶が逝去し、畠山氏の跡目は途絶える。
 永禄9年(1566)、山中鹿之助、亀井家の養子となる(この説怪しい)。その後、天正2年(1574)に山中家に戻るとの説。
 永禄9年(1566)前後、富田城の尼子勢のなかから多数の脱落者が発生し、毛利方に下る。重臣の牛尾幸清(尼子家家老職)/亀井秀綱/河本隆任/河副久盛/佐世清宗(尼子家家老職)/湯惟宗など。この時、山中鹿之助21歳。
 永禄9年1月1日、尼子家筆頭家老の宇山久兼が、嫡男弥四郎とともに、毛利家への内通の罪で尼子義久の命により誅殺される。
 永禄9年1月、尼子家重臣宇山久信が佞臣大塚与3右衛門の讒言により誅殺される。毛利元就の謀略との説も。この後富田城内から脱し、毛利方に下るものが多数。
 永禄9年2月(?)、毛利元就が洗合の本陣で病に伏す。
 永禄9年2月、上杉輝虎が、佐竹義重に参陣を促して、小田城(茨城県筑波郡筑波町)の小田氏治を攻める。//2月16日、小田城を攻略。//小田城落城後、関東諸将が上杉輝虎に対する軍役を約束。
 永禄9年3月、毛利元就の病が回復<将軍足利義輝が曲直瀬道三を出雲に下向させる。
 永禄9年3月、上杉輝虎が、千葉胤富支配下にある属城臼井城(千葉県佐倉市)の原胤貞を攻める。//千葉胤富と北条勢が原胤貞を救援
 永禄9年3月1日、足利義昭,上杉謙信に上京を促す書状を出すとともに,織田信長と斎藤竜興の和睦を催促。
 永禄9年3月10日、足利義昭が、上杉輝虎に使者を遣わし、京都の回復を要請。//輝虎はこれを承諾し、足利義昭に花ヶ前頼慶を遣わして進物を贈る。
 永禄9年4月、織田信長が吉川元春に宛て、出雲攻略が進んでいることを賀する書状を出す。
 永禄9年4月21日、毛利勢と尼子勢が出雲富田城麓の中須で合戦。
 永禄9年5月9日、上杉輝虎と北条氏康が、足利義昭の仲介により、和睦。
 永禄9年5月9日、上杉輝虎が、臼井城(守将原胤貞)攻略を諦め、関東から帰国。
 永禄9年5月24日、尼子家臣鉢屋賀茂弥三郎が富田城下の七曲口で毛利勢を相手に奮戦。
 永禄9年5月24日、松永久秀が、河内の高屋城の三好義継を包囲して攻める。//攻め落とせず、久秀が堺へ撤退するのを見て、三好三人衆方が追撃する。
 永禄9年5月30日、三好三人衆方が、河内の高屋城から堺へ撤退する松永久秀を追い、堺の町中で合戦した結果、久秀方が惨敗し、堺の町衆に匿われる。//堺の会合衆が久秀と三好三人衆を仲介して和解が成立。//5月24日参照//その後、三好三人衆は、摂津・山城の久秀方の掃討を進め、その中で久秀方の細川藤賢が守る摂津中島城が落とされ、藤賢は本願寺顕如に縋る。
 永禄9年5月、立原久綱、富田城落城の約半年前、尼子義久より富田城七曲口の戦いでの久綱以下鉢屋加茂弥三郎の忠功を賞する感状を得る。
 永禄9年5月末、毛利元就、風邪がもとで病床に。小早川隆景/吉川元春協議し、聖護院門跡道澄に仲介を依頼し、米原綱寛を使者に立てて、富田城に降伏/開城を勧告。
 永禄9年6月、出雲富田城から五一人、百人と退去
 永禄9年6月24日、三好三人衆が、松永久秀を制圧したことを機に三好長慶の喪を発表し、河内の真観寺(八尾市北亀井町)で盛大な葬儀を営む。
 永禄9年7月、出雲富田城から日々退去
 永禄9年7月15日、大覚寺義俊が大和の土市遠勝に,織田信長が8/27に参陣して,足利義昭の動座の供をするという話を書状で伝える。
 永禄9年8月13日、石山本願寺において、証如の十三回忌法要が営まれる。//顕如24歳。
 永禄9年8月15日、夜、足利義秋(義昭)が、六角義賢と三好三人衆が気脈を通じて三好長逸が義秋に討手を差し向けたとの報に触れ、夜陰に紛れて近江矢島を出て琵琶湖を北に渡り、湖西の今津から水坂峠を越える。
 永禄9年8月26日、本願寺顕如が、武田信玄に宛てて、上杉輝虎が加賀を目指して越中に侵入した際に信玄が越後の境まで出馬したことに謝意を表す書状を書く。//この後、信玄は上野に入り、輝虎方の箕輪城(群馬県北箕輪郡箕郷町西明屋)を攻略。9月19日参照。
 永禄9年8月29日、足利義秋(義昭)が,若狭の小浜城に到着し,妹婿で若狭守護の武田義統を頼る。//武田義統は子元次と不和で,家中に内紛があり、義秋を助けるどころではなかったため、義秋は小浜城に3日滞在しただけで、その後、海路越前敦賀に向かい、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)に入る。
 永禄9年閏8月12日、上杉輝虎が関東への出陣を目指し、上野国小泉城(群馬県邑楽郡大泉町)城主富岡重朝に知らせる。
 永禄9年9月5日、上野国金山城(群馬県太田市)城主由良成繁が、上杉輝虎に背いて、北条氏康に通じる。//由良成繁は上杉方の関東諸将に誘いをかける。
 永禄9年9月19日、武田信玄が、上杉方の上野国箕輪城(群馬県群馬郡箕輪町)を攻める。//9月29日、箕輪城落城。
 永禄9年9月13日、足利義昭が、朝倉義景を頼って,越前金ヶ崎に赴く。//この際、上杉輝虎や毛利氏にも協力を求める。// 上杉輝虎の使者花ヶ前智光院頼慶は、足利義昭が越後に下向し、輝虎を頼ろうとしていることを、輝虎に報じる。
 永禄9年9月23日、三好三人衆方の足利義親が、将軍職を狙い、阿波から摂津の兵庫に上陸して越水城に入る。
 永禄9年9月24日、羽柴秀吉が、美濃の墨俣に一夜城を築城。//蜂須賀小六、前野長康らが助力して数日で作り上げ、羽柴秀吉の出世につながる。
 永禄9年10月4日、越前の朝倉方が、加賀へ侵攻し、横北(石川県加賀市横北町)で門徒方と戦う。//そのような中、足利義秋は、朝倉との和睦を本願寺顕如に勧める。//10月20日頃、本願寺顕如は、「まだその時期ではない」として義秋の側近三淵晴員に返書して、朝倉との和睦を断る。
 永禄9年(1566)11月21日、毛利元就が、出雲の月山富田城を攻め落とす。城兵は3~4百に減っていた。尼子義久、毛利元就に降伏。降伏の使者は立原久綱か?
 永禄9年11月21日、尼子氏三兄弟(義久/倫久/秀久)が、今後毛利元就に逆心を抱かない旨の連署血判の誓紙を提出。これに対し、毛利氏からも毛利元就、小早川隆景、吉川元春、毛利輝元の連署血判状を返信
 永禄9年11月26日、尼子義久の正室京極氏が逝去。諡号は月山妙春大姉。
 永禄9年11月28日、毛利方が、尼子方から出雲の月山富田城を受け取り。//富田城には毛利家の武将福原貞俊/口羽通良が入城。最後まで城に残っていたのは140人程度。主な武将は立原久綱、山中鹿之助幸盛、横道兵庫介、秋山庵介久家など。千余の城兵に囲まれ、尼子勢は山陰道を西へ。尼子氏一行が杵築に着いた時毛利方は山中鹿之助らに尼子義久への随行を禁ずる。以後、山中鹿之助らは諸国を遊歴し、後に在京か。
 永禄9年、尼子義久/倫久/秀久の三兄弟が、毛利勢により杵築に護送される。尼子家臣の立原久綱、山中鹿之助ら49名も随身。//杵築から先の随行は許されず、家臣団は銘々に落ちる。
 永禄9年12月5日、三好三人衆方の足利義親が、摂津の越水城から摂津富田の普門寺に進み、義栄と改名。
 永禄9年12月9日、尼子氏三兄弟20名の近習を伴い杵築を出発し、●川の田儀に下る。同11日邑智の川本に、12日出羽(イズハ)、13日安芸高田郡横田、14日安芸吉田から四㌔余の長田にある円明寺に入る。⇒その後、尼子旧臣と思われる者が一人、一人と円明寺を訪れたが、毛利方は全員を切り捨てる。
 永禄9年12月20日、上杉輝虎が、上野国箕輪城が武田勢に落とされたことなどを受け、三国峠を越えて関東に出陣し、沼田城に入り、佐竹義重に参陣を促す。//上杉輝虎は上野国で越年。
 永禄9年12月29日、松平家康が、三河守への叙任を機に、姓を徳川に改める。

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