>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_<
>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<
元亀3年?月、宇喜多秀家誕生。
元亀3年(1572)1月10日、本願寺顕如が、長子教如の得度に対する謝恩として、朝廷に300疋を献上。//教如の得度は永禄13年2月であり、得度の謝恩は名目で、朝廷との結び付きを強めるための献金。
元亀3年1月14日、本願寺顕如が、武田信玄に宛てて、織田信長が春に摂津・河内に出陣するとの風聞に対して、背後からの牽制を要請。合わせて、上杉謙信に攻められている越中の椎名康胤を助けて欲しい旨も要請。さらに、信玄に黄金50両、息子勝頼に黄金20両を贈る。
元亀3年1月18日、織田信長が、将軍足利義昭の名で、武田氏、北条氏、上杉氏の和睦を呼びかける。
元亀3年(1572)1月21日、吉田兼見、近江坂本に明智光秀を訪れる。
元亀3年1月23日、六角義賢が、門徒とともに近江の金ケ森と三宅(守山市三宅町)に籠る。//織田方は、佐久間信盛がこれを攻めるも容易に落ちず。
元亀3年閏1月3日、上杉謙信が、武田方の属城上野国石倉城を攻略し、城郭を破却して、厩橋城に凱旋。その後、武田・北条軍と利根川を挟んで対陣したが、同年4月に帰国。
元亀3年閏1月6日、吉田兼見、明智光秀の坂本築城の見舞いに行って、酒肴を送る。 元亀3年閏1月13日、将軍足利義昭が、毛利輝元と小早川隆景宛に、讃岐まで兵を出すよう要請する書状を送る。
元亀3年閏1月26日、即位の旗桙の役を務める四郎二郎というものの給田が、法証寺領と号して勘落された(足利義昭が没収)事に対して、正親町天皇が武家伝奏万里小路惟房を通じて明智光秀に命じてこれを止めさせるよう求める。 元亀3年3月3日、吉田兼見,明智光秀を訪ねて近江坂本に赴くも,明智光秀不在。
元亀3年3月6日、織田信長,羽柴秀吉の守る近江横山城に入城。
元亀3年3月7日、織田信長が4万の兵を率いて浅井久政・長政父子討伐のため近江に着陣。
元亀3年3月7日、織田信長,小谷山と山本山との間に陣して余呉・木ノ本などを放火。
元亀3年3月12日、本願寺顕如が、朝倉義景に書状と太刀・馬など十種十荷の贈物を送る。//近江への出陣を促す?
元亀3年3月19日、織田信長が、湖南一円に対して、金ケ森や三宅に内通するものは親類や惣村とともに成敗する旨の布告を出す。
元亀3年3月11日、織田信長,近江滋賀郡にて,和邇に陣を構え,木戸・田中に押し詰め,砦を作って,明智光秀・中川重政・丹羽長秀を入れおく。
元亀3年3月12日、織田信長,京都に入り,二条妙覚寺を宿所とする。
元亀3年4月、上杉謙信が、上野国救援から越後に帰国。
元亀3年4月、三好三人衆方の三好義継と松永久秀が、織田方の河内守護代安見新七郎が籠る河内交野城を攻める。
元亀3年4月、三好政勝と香西元成が、三好三人衆方に寝返り、門徒ともに摂津浦江に砦を築き、細川昭元の守る中島城に攻め寄せる。
元亀3年4月、織田信長、河内国に出兵。細川兵部大輔藤孝・三淵大和守藤英・上野中務大輔秀政・明智光秀(以上、幕府衆)、佐久間右衛門信盛・柴田勝家(織田信長衆)、その他池田勝正・伊丹勝興らが参陣。
元亀3年4月13日、摂津中島城の細川昭元(右京大夫)が三好義継と和睦し,人質を交換。//その後、この和談はすぐに破れ,三好為三・香西元成は中島城をでて三好義継に属して昭元と戦う。また,三好義継は松永久秀とともに畠山昭高方の河内交野城を攻めた。
元亀3年4月、本願寺顕如,浅井長政・朝倉義景に対して,しきりに近江坂本への出兵を促す。
元亀3年4月16日、織田信長,柴田勝家・佐久間信盛・明智光秀・細川藤孝・三淵藤英・上野秀政らを河内交野城に派遣し,これを救わせる。
元亀3年5月12日、下間正秀(浄土真宗)が、箕浦の誓願寺など江北十カ寺に対して、朝倉方に速やかな近江への出陣を要請している旨を申し伝える。
元亀3年5月16日、本願寺顕如が、武田信玄に宛てて、上洛を促す書状を送る。同時に加賀の金沢御坊に対して椎名康胤と協力して上杉謙信を背後から牽制するよう命じる。//武田への使者は下間頼充。//これを受け、勝興寺の顕栄や瑞泉寺の顕秀などを中心に越中の門徒衆が動き、椎名康胤と協力して越中の上杉勢を圧迫 元亀3年(1572)6月12日、尼子勝久/山中鹿之助ら、因幡国に侵入し、武田高信らと戦う。以後、因幡国各地を転戦。
元亀3年6月15日、越中門徒衆と椎名康胤らが、神通川の渡し場で上杉勢に大勝。
元亀3年、上杉輝虎が、越中門徒衆と椎名康胤を討伐するため、大軍を率いて、越後から新庄へ進出。//門徒衆達は富山城に籠城。
元亀3年6月30日、本願寺顕如が、朝倉義景と浅井久政・長政の三人に、書状を送る。義景には近江での朝倉勢の長期滞陣を労い、浅井長政には義景自身が近く出馬すると伝えるとともに、鉄砲の火薬30斤を贈る。
元亀3年7月3日、織田信長が、山城勝竜寺城を守る細川藤孝に、大坂と北陸を往来する門徒を厳しく取り締まるよう命じる。
元亀3年、山中鹿之助、あぶれ者をかき集め、小舟を盗み、因州の海岸に出没。岩本の川向こうに日比野という商家富農が多い在所に目をつけ、ここを押さえて根城にし、海賊を働き近隣の郷村に夜討をかけ強盗を働く。⇒およそ天下太平を望むべき姿勢にはあらず。///その後、山中鹿之助の勢いは強大となり、桐山城を奪取し、兵を蓄えて1城の主に成り上がった。この時山中鹿之助33歳。背丈高く、骨格逞しく、大きな眼は光鋭く人を刺し、顔面は髭に覆われ、胸から手足まで深く体毛が生えていた。海賊大将山中鹿之助の名は因幡の士民を震え上がらせた。⇒この時の行為が因幡の民心を山中鹿之助から離させるのでは!!!
元亀3年7月19日、織田信長が、50000の兵を率い、近江小谷城攻めのため、岐阜を進発。//これを見た朝倉勢は、まず景鏡が5000の兵を率いて先発し、ついで義景本人が15000を率いて出陣
元亀3年7月、織田勢が、朝倉勢の出陣を待つ間、門徒の籠る金ケ森城を攻略。
元亀3年7月20日、織田信長,近江横山城(羽柴秀吉在番)に入り,柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・明智光秀・木下秀吉らに小谷城を攻めさせる。//この際,明智光秀・木下秀吉らを琵琶湖に働かせ,海津・塩津・竹生島以下を攻めさせる。
元亀3年7月21日、織田信長、近江に出陣し、小谷城を攻撃。
元亀3年7月23日、本願寺顕如が、安芸の毛利輝元に家督相続の祝儀の書状を送る。同時に、吉川元春や小早川隆景らの家中にも書状と贈物を届ける。
元亀3年7月25日、織田信長が近江虎御前山に塁を築く。
元亀3年7月、朝倉義景が越前から北近江に来援し,浅井長政を助けて,織田信長と対陣。
元亀3年7月、明智光秀,堅田の猪飼甚介らを率いて琵琶湖に舟を浮かべ,海津・塩津などでゲリラ戦を展開。
元亀3年8月、因幡鳥取城主武田高信が但馬阿勢井城を攻めるも、嫡子武田又太郎、一族および部将格の兵を多く失う。以前より武田高信は但馬の阿勢井城主塩冶肥前守と争っていた。武田高信の大敗を聞いた尼子勝久/山中鹿之助らが因幡に侵入を開始。
元亀3年(1572)、山中鹿之助が海賊となって丹後から因幡に上陸し、但馬亡命中の山名豊国を助け、鳥取城主に返り咲かせ、この冬京都にも戻る。
元亀3年8月8日、朝倉勢の中から前波吉継が、織田方に寝返る。
元亀3年8月10日、朝倉勢の中から富田長秀が、織田方に寝返る。//このあと池田隼人助も続こうとしたが発見され殺される。//これらの寝返りは木下秀吉の勧誘。
元亀3年8月13日、武田信玄が、織田信長の意向を受けた将軍足利義昭の要請を受け、信長と石山本願寺の和睦を仲介するため、大坂に使者を遣わす。//窮地に立った信長が苦肉の策として義昭を使ったものでうわべだけの和睦交渉。
元亀3年8月18日、石山本願寺の下間頼資や下間頼廉らが、三好義継とともに、20000 の兵で織田方の細川信良の守る摂津中島城を攻めて、城下に放火。織田方は多くの死傷者を出す。
元亀3年8月18日、上杉謙信が、越中に侵攻して、富山城を攻撃するとともに、一向一揆と戦う。
元亀3年9月7日、本願寺顕如が、豊後の大友宗麟に、書状と馬代の名目で1000疋を贈る。
元亀3年9月10日、本願寺顕如が、将軍足利義昭が武田信玄に仲介を依頼した石山本願寺と織田信長との和睦に関して、信玄に対して受け入れる旨の書状を出す。//うわべだけの和睦。
元亀3年、織田信長が、将軍足利義昭に対して信長に無断で各地の大名に内書を出していることなどその失政を咎める17カ条の諫言を突きつける。
元亀3年9月16日、織田信長、近江小谷城攻めの途中で一時岐阜に帰陣。
元亀3年9月18日、上杉謙信(越中在陣中)が、武田信玄が春日山城に侵攻するとの報を聞き、春日山城の警備を厳命する。
元亀3年9月30日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、河内の門真で「堺紀行」を書き上げる。
元亀3年10月1日、上杉謙信が、越中富山城を攻略。
元亀3年10月3日、武田信玄が、上洛を目指し、30000の兵を率いて、甲府を進発。//伊那谷を通り遠江を目指す。
元亀3年10月3日?、武田信玄、甲府を出陣し、上洛の途につく。
元亀3年10月、毛利氏/浦上氏/宇喜多氏が講和。
元亀3年10月16日、織田信長が、近江から岐阜に兵を退く。//近江には木下秀吉に5000の兵を預け、浅井・朝倉勢40000を抑えさせる。
元亀3年、織田信長が、武田信玄に備えるため徳川家康のもとに援軍として佐久間信盛に兵5000を預けて派遣。
元亀3年10月18日、越中国の椎名康胤が、上杉謙信に対して降伏を願い出るも、謙信はこれを容れず。上杉謙信はそのまま越中国から帰国。
元亀3年11月19日、武田信玄が、朝倉義景に上洛に向けた進軍状況を届ける。
元亀3年11月20日、織田信長が、越後の上杉輝虎宛に、武田信玄と絶交することを誓い、信長の子を輝虎の養子に差し出すことを承諾。
元亀3年12月、尼子勝久、山中鹿之助/立原久綱/神西三郎左衛門/亀井信一郎/横道兄弟/牛尾大炊助らを率いて京都を発し、但馬に向かう。
元亀3年12月3日、本願寺顕如のもとに、近江に出陣していた朝倉義景が、雪に閉ざされる前にという理由で、突如越前に退却したとの報が届く。
元亀3年12月19日、武田信玄が、上洛途上、伊那路から遠江に流れ込み、二股城(静岡県天竜市二俣)を攻略。
元亀3年12月20日、香西元成らの三好三人衆・松永勢と門徒衆が、織田方の細川信良が守る摂津中島城に攻め寄せる。
元亀3年12月22日、上洛を目指す武田軍と織田/徳川連合軍が三河三方ヶ原で激突し、織田/徳川連合軍が敗北。//浜松城を守る徳川勢は、織田信長からの援軍である佐久間信盛の兵5000を加えても10000しかないなか、家康は出陣し、武田勢に散々に破られ、徳川方の討死300、家康は命辛々浜松城に逃げ込む。//織田信長方の武将平手汎秀が討死。
元亀3年12月、武田信玄が、遠江三方ヶ原の捷報を、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らに喧伝。
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元亀3年?月、宇喜多秀家誕生。
元亀3年(1572)1月10日、本願寺顕如が、長子教如の得度に対する謝恩として、朝廷に300疋を献上。//教如の得度は永禄13年2月であり、得度の謝恩は名目で、朝廷との結び付きを強めるための献金。
元亀3年1月14日、本願寺顕如が、武田信玄に宛てて、織田信長が春に摂津・河内に出陣するとの風聞に対して、背後からの牽制を要請。合わせて、上杉謙信に攻められている越中の椎名康胤を助けて欲しい旨も要請。さらに、信玄に黄金50両、息子勝頼に黄金20両を贈る。
元亀3年1月18日、織田信長が、将軍足利義昭の名で、武田氏、北条氏、上杉氏の和睦を呼びかける。
元亀3年(1572)1月21日、吉田兼見、近江坂本に明智光秀を訪れる。
元亀3年1月23日、六角義賢が、門徒とともに近江の金ケ森と三宅(守山市三宅町)に籠る。//織田方は、佐久間信盛がこれを攻めるも容易に落ちず。
元亀3年閏1月3日、上杉謙信が、武田方の属城上野国石倉城を攻略し、城郭を破却して、厩橋城に凱旋。その後、武田・北条軍と利根川を挟んで対陣したが、同年4月に帰国。
元亀3年閏1月6日、吉田兼見、明智光秀の坂本築城の見舞いに行って、酒肴を送る。 元亀3年閏1月13日、将軍足利義昭が、毛利輝元と小早川隆景宛に、讃岐まで兵を出すよう要請する書状を送る。
元亀3年閏1月26日、即位の旗桙の役を務める四郎二郎というものの給田が、法証寺領と号して勘落された(足利義昭が没収)事に対して、正親町天皇が武家伝奏万里小路惟房を通じて明智光秀に命じてこれを止めさせるよう求める。 元亀3年3月3日、吉田兼見,明智光秀を訪ねて近江坂本に赴くも,明智光秀不在。
元亀3年3月6日、織田信長,羽柴秀吉の守る近江横山城に入城。
元亀3年3月7日、織田信長が4万の兵を率いて浅井久政・長政父子討伐のため近江に着陣。
元亀3年3月7日、織田信長,小谷山と山本山との間に陣して余呉・木ノ本などを放火。
元亀3年3月12日、本願寺顕如が、朝倉義景に書状と太刀・馬など十種十荷の贈物を送る。//近江への出陣を促す?
元亀3年3月19日、織田信長が、湖南一円に対して、金ケ森や三宅に内通するものは親類や惣村とともに成敗する旨の布告を出す。
元亀3年3月11日、織田信長,近江滋賀郡にて,和邇に陣を構え,木戸・田中に押し詰め,砦を作って,明智光秀・中川重政・丹羽長秀を入れおく。
元亀3年3月12日、織田信長,京都に入り,二条妙覚寺を宿所とする。
元亀3年4月、上杉謙信が、上野国救援から越後に帰国。
元亀3年4月、三好三人衆方の三好義継と松永久秀が、織田方の河内守護代安見新七郎が籠る河内交野城を攻める。
元亀3年4月、三好政勝と香西元成が、三好三人衆方に寝返り、門徒ともに摂津浦江に砦を築き、細川昭元の守る中島城に攻め寄せる。
元亀3年4月、織田信長、河内国に出兵。細川兵部大輔藤孝・三淵大和守藤英・上野中務大輔秀政・明智光秀(以上、幕府衆)、佐久間右衛門信盛・柴田勝家(織田信長衆)、その他池田勝正・伊丹勝興らが参陣。
元亀3年4月13日、摂津中島城の細川昭元(右京大夫)が三好義継と和睦し,人質を交換。//その後、この和談はすぐに破れ,三好為三・香西元成は中島城をでて三好義継に属して昭元と戦う。また,三好義継は松永久秀とともに畠山昭高方の河内交野城を攻めた。
元亀3年4月、本願寺顕如,浅井長政・朝倉義景に対して,しきりに近江坂本への出兵を促す。
元亀3年4月16日、織田信長,柴田勝家・佐久間信盛・明智光秀・細川藤孝・三淵藤英・上野秀政らを河内交野城に派遣し,これを救わせる。
元亀3年5月12日、下間正秀(浄土真宗)が、箕浦の誓願寺など江北十カ寺に対して、朝倉方に速やかな近江への出陣を要請している旨を申し伝える。
元亀3年5月16日、本願寺顕如が、武田信玄に宛てて、上洛を促す書状を送る。同時に加賀の金沢御坊に対して椎名康胤と協力して上杉謙信を背後から牽制するよう命じる。//武田への使者は下間頼充。//これを受け、勝興寺の顕栄や瑞泉寺の顕秀などを中心に越中の門徒衆が動き、椎名康胤と協力して越中の上杉勢を圧迫 元亀3年(1572)6月12日、尼子勝久/山中鹿之助ら、因幡国に侵入し、武田高信らと戦う。以後、因幡国各地を転戦。
元亀3年6月15日、越中門徒衆と椎名康胤らが、神通川の渡し場で上杉勢に大勝。
元亀3年、上杉輝虎が、越中門徒衆と椎名康胤を討伐するため、大軍を率いて、越後から新庄へ進出。//門徒衆達は富山城に籠城。
元亀3年6月30日、本願寺顕如が、朝倉義景と浅井久政・長政の三人に、書状を送る。義景には近江での朝倉勢の長期滞陣を労い、浅井長政には義景自身が近く出馬すると伝えるとともに、鉄砲の火薬30斤を贈る。
元亀3年7月3日、織田信長が、山城勝竜寺城を守る細川藤孝に、大坂と北陸を往来する門徒を厳しく取り締まるよう命じる。
元亀3年、山中鹿之助、あぶれ者をかき集め、小舟を盗み、因州の海岸に出没。岩本の川向こうに日比野という商家富農が多い在所に目をつけ、ここを押さえて根城にし、海賊を働き近隣の郷村に夜討をかけ強盗を働く。⇒およそ天下太平を望むべき姿勢にはあらず。///その後、山中鹿之助の勢いは強大となり、桐山城を奪取し、兵を蓄えて1城の主に成り上がった。この時山中鹿之助33歳。背丈高く、骨格逞しく、大きな眼は光鋭く人を刺し、顔面は髭に覆われ、胸から手足まで深く体毛が生えていた。海賊大将山中鹿之助の名は因幡の士民を震え上がらせた。⇒この時の行為が因幡の民心を山中鹿之助から離させるのでは!!!
元亀3年7月19日、織田信長が、50000の兵を率い、近江小谷城攻めのため、岐阜を進発。//これを見た朝倉勢は、まず景鏡が5000の兵を率いて先発し、ついで義景本人が15000を率いて出陣
元亀3年7月、織田勢が、朝倉勢の出陣を待つ間、門徒の籠る金ケ森城を攻略。
元亀3年7月20日、織田信長,近江横山城(羽柴秀吉在番)に入り,柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・明智光秀・木下秀吉らに小谷城を攻めさせる。//この際,明智光秀・木下秀吉らを琵琶湖に働かせ,海津・塩津・竹生島以下を攻めさせる。
元亀3年7月21日、織田信長、近江に出陣し、小谷城を攻撃。
元亀3年7月23日、本願寺顕如が、安芸の毛利輝元に家督相続の祝儀の書状を送る。同時に、吉川元春や小早川隆景らの家中にも書状と贈物を届ける。
元亀3年7月25日、織田信長が近江虎御前山に塁を築く。
元亀3年7月、朝倉義景が越前から北近江に来援し,浅井長政を助けて,織田信長と対陣。
元亀3年7月、明智光秀,堅田の猪飼甚介らを率いて琵琶湖に舟を浮かべ,海津・塩津などでゲリラ戦を展開。
元亀3年8月、因幡鳥取城主武田高信が但馬阿勢井城を攻めるも、嫡子武田又太郎、一族および部将格の兵を多く失う。以前より武田高信は但馬の阿勢井城主塩冶肥前守と争っていた。武田高信の大敗を聞いた尼子勝久/山中鹿之助らが因幡に侵入を開始。
元亀3年(1572)、山中鹿之助が海賊となって丹後から因幡に上陸し、但馬亡命中の山名豊国を助け、鳥取城主に返り咲かせ、この冬京都にも戻る。
元亀3年8月8日、朝倉勢の中から前波吉継が、織田方に寝返る。
元亀3年8月10日、朝倉勢の中から富田長秀が、織田方に寝返る。//このあと池田隼人助も続こうとしたが発見され殺される。//これらの寝返りは木下秀吉の勧誘。
元亀3年8月13日、武田信玄が、織田信長の意向を受けた将軍足利義昭の要請を受け、信長と石山本願寺の和睦を仲介するため、大坂に使者を遣わす。//窮地に立った信長が苦肉の策として義昭を使ったものでうわべだけの和睦交渉。
元亀3年8月18日、石山本願寺の下間頼資や下間頼廉らが、三好義継とともに、20000 の兵で織田方の細川信良の守る摂津中島城を攻めて、城下に放火。織田方は多くの死傷者を出す。
元亀3年8月18日、上杉謙信が、越中に侵攻して、富山城を攻撃するとともに、一向一揆と戦う。
元亀3年9月7日、本願寺顕如が、豊後の大友宗麟に、書状と馬代の名目で1000疋を贈る。
元亀3年9月10日、本願寺顕如が、将軍足利義昭が武田信玄に仲介を依頼した石山本願寺と織田信長との和睦に関して、信玄に対して受け入れる旨の書状を出す。//うわべだけの和睦。
元亀3年、織田信長が、将軍足利義昭に対して信長に無断で各地の大名に内書を出していることなどその失政を咎める17カ条の諫言を突きつける。
元亀3年9月16日、織田信長、近江小谷城攻めの途中で一時岐阜に帰陣。
元亀3年9月18日、上杉謙信(越中在陣中)が、武田信玄が春日山城に侵攻するとの報を聞き、春日山城の警備を厳命する。
元亀3年9月30日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、河内の門真で「堺紀行」を書き上げる。
元亀3年10月1日、上杉謙信が、越中富山城を攻略。
元亀3年10月3日、武田信玄が、上洛を目指し、30000の兵を率いて、甲府を進発。//伊那谷を通り遠江を目指す。
元亀3年10月3日?、武田信玄、甲府を出陣し、上洛の途につく。
元亀3年10月、毛利氏/浦上氏/宇喜多氏が講和。
元亀3年10月16日、織田信長が、近江から岐阜に兵を退く。//近江には木下秀吉に5000の兵を預け、浅井・朝倉勢40000を抑えさせる。
元亀3年、織田信長が、武田信玄に備えるため徳川家康のもとに援軍として佐久間信盛に兵5000を預けて派遣。
元亀3年10月18日、越中国の椎名康胤が、上杉謙信に対して降伏を願い出るも、謙信はこれを容れず。上杉謙信はそのまま越中国から帰国。
元亀3年11月19日、武田信玄が、朝倉義景に上洛に向けた進軍状況を届ける。
元亀3年11月20日、織田信長が、越後の上杉輝虎宛に、武田信玄と絶交することを誓い、信長の子を輝虎の養子に差し出すことを承諾。
元亀3年12月、尼子勝久、山中鹿之助/立原久綱/神西三郎左衛門/亀井信一郎/横道兄弟/牛尾大炊助らを率いて京都を発し、但馬に向かう。
元亀3年12月3日、本願寺顕如のもとに、近江に出陣していた朝倉義景が、雪に閉ざされる前にという理由で、突如越前に退却したとの報が届く。
元亀3年12月19日、武田信玄が、上洛途上、伊那路から遠江に流れ込み、二股城(静岡県天竜市二俣)を攻略。
元亀3年12月20日、香西元成らの三好三人衆・松永勢と門徒衆が、織田方の細川信良が守る摂津中島城に攻め寄せる。
元亀3年12月22日、上洛を目指す武田軍と織田/徳川連合軍が三河三方ヶ原で激突し、織田/徳川連合軍が敗北。//浜松城を守る徳川勢は、織田信長からの援軍である佐久間信盛の兵5000を加えても10000しかないなか、家康は出陣し、武田勢に散々に破られ、徳川方の討死300、家康は命辛々浜松城に逃げ込む。//織田信長方の武将平手汎秀が討死。
元亀3年12月、武田信玄が、遠江三方ヶ原の捷報を、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らに喧伝。
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