>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
元亀2年(1571)?月、清水景治(清水宗治の嫡子)が生まれる。
元亀2年(1571)2月7日、尼子家臣平野基久、伯耆国尾高城下の浄満原に夜襲をかけるが、尾高城主杉原盛重、尼子勢を城外に打ち破り、平野基久が討死。
元亀2月2月中旬、山中鹿之助、平野基久の弔い合戦のため尾高城(守将杉原盛重)を攻めるが、返り討ちにあい、尼子勢の馬田慶篤が討死。
元亀2年2月、浅井氏の属城佐和山城は元亀1年6月以来の籠城に耐えかね、城主磯野員昌は開城し、攻撃側の丹羽長秀と人質を交換し、高島に退きのく。織田信長は、磯野員昌の降を入れ、近江高島郡を与える。
元亀2年2月、織田信長が丹羽長秀に近江国佐和山城を与える。
元亀2年2月、足利義昭が参内。この際,辻固めに伊丹勝興が三千ばかりを率いて上京。供奉は細川藤賢・細川藤孝・伊勢三郎・飯川弥四郎・真木島孫六・安威兵部少輔・後藤治部少輔・沼田弥四郎・沼田弥七郎,奉行は諏訪時長・飯尾昭連。
元亀2年2月30日、織田信長,岐阜から入京して,明智光秀の陣を宿所とする。
元亀2年3月1日、織田信長,禁裏へ伺候。禁裏の修繕の作事を見て回る。
元亀2年3月16日、三好義継・松永久秀,織田信長を見舞う。申し次は村井貞勝。
元亀2年3月19日、高瀬城主米原綱寛、毛利勢に寝返った野村士悦を頼って開城。これにより吉川元春、高瀬城を攻略。城将米原綱寛は新山城に送られる。高瀬城は長い籠城で兵糧が底を尽きた。
元亀2年4月29日、尼子勢は新山城の包囲網を崩そうと、羽倉山城を攻撃したが、失敗。
元亀2年6月上旬、尼子方の隠岐弾正忠、毛利勢に寝返る。これで隠岐からも尼子方の勢力が消滅。
元亀2年6月14日、毛利元就逝去。享年75歳。吉川元春はこの報を高瀬城で聞く。吉川元春は元就17日の孝養に尼子勝久に味方する大山の教悟院を討伐すると宣言し出兵。
元亀2年6月16日、織田信長、明智光秀に宛てて、榎並(大阪府守口市)は三好為三の本知であるからそれを与えたく、前に為三に与えた伊丹近所の領地と交換するようにせよという書状を発信。
元亀2年7月10日、織田信長、上野秀政・明智光秀の両人に宛てて、曇華院領山城国大住荘は直納のことと定めるよう下知。
元亀2年7月23日、吉川元春、大山衆徒教悟院や伯耆国8橋(ヤバセ)城に籠もる尼子方の福山次郎左衛門茲正/横道権ジョウ高宗/その弟横道源介らを討滅するため、軍勢を米子の東4㌔ほどの小一神山(西伯郡)に進め、その南8kmほどの寺内城(西伯郡)に拠る尼子方の残党の攻撃を開始。
元亀2年7月晦日、足利義昭、三好為三に宛て、織田信長の書状の通り相違ない旨、さらに、明智光秀に詳細は聞く旨の書状を与える。
元亀2年8月4日、松永久秀・三好義継が大和辰市にて筒井順慶と戦い、大敗し、松永久秀が筒井城を失う。
元亀2年8月、筒井順慶が松永久秀・三好義継を破ったあと、織田信長に従う。
元亀2年8月、明智光秀が近江坂本城の城主に任命され、同城に入る。
元亀2年8月上旬、吉川元春、山中鹿之助が末石城で指揮を採っていると聞き、山中鹿之助を討てば尼子方は崩壊すると考え、大山衆徒教悟院をさしおいて、山中鹿之助が籠もる末石城を囲む。//吉川元春の謀の可能性もある。山中鹿之助自身、吉川元春は大山衆徒教悟院討伐が目的と考えていたようであり、大いに油断していた模様。
元亀2年8月中旬、山中鹿之助、吉川元春に末石城を攻められ、落城必至と見て、毛利方の宍戸隆家(元就の娘婿)/口羽通良を通じ降伏を申し入れる。吉川元春は直ちに首を刎ねることを命じるも、隆家/通良の反対を受け、一命を許し、周防徳地千貫/伯耆に千貫の計2千貫を与える約束で末石城を明け渡し。その後、杉原盛重の居城尾高城に監禁。
元亀2年8月18日、織田信長が、羽柴秀吉の在留している近江国横山城に陣し、浅井長政の小谷城を攻める。
元亀2年8月18日、吉川元春、末石城を攻囲。山中鹿之助、吉川元春に下り、捕虜となる。
元亀2年8月18日、毛利勢により伯耆国寺内城を落城。
元亀2年8月21日、伯耆国8橋(ヤバセ)城の福山/横道兄弟、尼子勝久の籠もる新山城に退去。
元亀2年8月、山中鹿之助、監禁されていた尾高城から脱出。ある夜、山中鹿之助は赤痢に罹ったといい、厠に立ち始める。番人も最初は警戒していたが、50回、百回を超え、170~180回を超えると油断し、その隙を縫って山中鹿之助は脱出した。⇒これ以降、ある時期までの山中鹿之助の消息は不詳。///その後丹後国に逃亡。
元亀2年8月、山中鹿之助、吉川元春の手から脱出し、京都に向かう。
元亀2年(1571)8月21日、新山城落城。尼子勝久ら新山城を逃れて鈴重城山に陣するも、追われて隠岐へ向かい、さらに京都に逃れる。///その他、新山城を捨てて簾カ岳(美保関町)に逃れる。やがて簾カ岳も追われ、加賀(島根町)の桂島に逃走。ここでも毛利勢の追撃を受け、ついに隠岐に退き、続いて京都に上る。⇒⇒隠岐へ渡ったかどうかは不明。///この後、尼子勝久/山中鹿之助ともに出雲の土を踏むことはない。
元亀2年9月12日、織田信長、比叡山延暦寺(元亀1年に朝倉氏/浅井氏連合軍に味方した)を焼き打ち。
元亀2年9月24日、明智光秀、千ばかりの兵を率いて、高槻城(大阪府高槻市)に入る。
元亀2年9月25日、一色藤長・一色昭秀・上野秀政ら幕府衆が摂津に出陣。
元亀2年9月30日、三淵藤英が奈良に出陣。
元亀2年夏過ぎ、尼子勝久/山中鹿之助/立原源太兵衛ら尼子氏一党の十人余りが近江国横山にて羽柴秀吉と初対面し、織田信長へのとりなしを依頼⑥//織田信長はこの時点では近江浅井氏、越前朝倉氏のほか甲斐武田氏、大坂の石山本願寺など四方に敵を抱えている状況であり、毛利氏との敵対は得策ではないとして、尼子氏一党の扱いを羽柴秀吉に一任。
元亀2年10月、正親町天皇、甘露寺経元宛てに、同寺領に関する女房奉書を与える。それによれば、『(明智)光秀は同寺を延暦寺の末寺と号して同寺領を違乱した。しかし、同寺は延暦寺の末寺ではないから、光秀にことわって違乱を止めさせよ』とのこと。
元亀2年10月15日、織田信長、京都市民に米を貸し、その利息で禁裏の供御に宛てることに決し、明智光秀・島田秀満・塙直政・松田秀雄四人の連署で、禁裏の賄いとして、米を市中に預ける、ただし一町に五石ずつとする、当方案内に従い出頭して米を請取れ、利息は三割とする、来年正月から毎月一町から一斗二升五合ずつ進納せよ、元米は永代預けておく旨を告知。
元亀2年10月15日、山科言継、岐阜に下り、青蓮院・妙法院・曼殊院のことおよび甘露寺の寺領が明智光秀により横領された件について、相談。//青蓮院・妙法院・曼殊院の三門跡寺院と甘露寺は延暦寺の末寺ではなかったが、明智光秀が延暦寺の末寺として、その寺領を召し上げたようである。
元亀2年10月29日、織田信長、山科言継に小袖・袷・肩衣・袴などを送り、また、明智光秀に銭二百疋(二貫文)を送る。
元亀2年10月29日、織田信長、明智光秀および細川藤孝を呼び、茶の湯を催す。//このころ、明智光秀・細川藤孝・村井貞勝は岐阜に逗留?
元亀2年11月1日、錦小路町月行事与三郎以下が連署で、米二百一五石の受取状を、明智光秀・島田秀満・塙直政宛に提出。
元亀2年12月、明智光秀、近江坂本に城をかまえ(築城を始める)、山門領を知行した。(『年代記抄節』による)
元亀2年12月、織田信長、佐久間信盛に近江国金森以下の地を与え、野洲・栗本両郡など山門領をも欠所として与え、さらに、進藤・青地・山岡らを信盛の与力とした。
元亀2年12月10日、正親町天皇、山科言継に宛てて、『(明智)光秀が青蓮院・妙法院・曼殊院の三門跡領を延暦寺領として横領したとのことであるが、これを止めるよう(織田)信長へ(足利)義昭から斡旋するようにさせた』という書状を出し、またこのことについて直接織田信長に綸旨を与える。(『言継卿日記』による)
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