磁場の井戸:第四章 対岸(七)/長編歴史小説

桂広重に率いられた加茂城本丸の城兵達は、地面から湧き出すように夜明けより途切れることなく押し寄せてくる東の丸からの敵兵を、懸命に押し返した。
「ここが、こらえどきじゃ。十分引き付けてから、狙いを定めて討ち止めよ。」
本丸の城兵たちはありたっけの鉄砲、弓矢を寄せ手に見舞い、その度に寄せ手の先鋒は一斉に地に倒れた。それでも、その屍を乗り越えて、次の寄せ手が本丸の城門に肉迫した。城方は、それにも再び矢玉を浴びせ、再び死体の山を築かせた。
 幾度も幾度もそれを繰り返した。広重は声を嗄らさんばかりに、叫び続けた。
「こらえよ、こらえよ。敵を城壁に近づけるな。」
叫びながら、広重は心中で神仏に祈り続けていた。
(矢玉が尽きるが先か、風向きが変わるが先か。南無八幡大菩薩、我に武運を授け給え。)
広重は火矢を用いた撹乱策を心中に描きながら、城を吹き抜ける風の向きが変わるのを待ち侘びていた。風向きは東から西へ、今、火矢を放てば、味方が煙に巻かれ、本丸が混乱に陥る。広重は時が移るのを忍従し続けた。
(わしは風神に好かれていようか。)
ちらりとそんな事も思ったが、鉄砲の轟音が風を振るわせ、その振動が広重の心を応ずべき現実に引きずり戻した。寄せ手は犠牲を厭う事なく、地獄に続く一筋の道を城門に向かって戻ることができぬまま駆け上って来る。守り手の形相が修羅ならば、寄せ手は悪鬼と化し、無二無三に死に繋がる一本道を突き進み続けていた。
「奴等にありったけの矢玉を馳走してやれ。」
広重は再び叫んだ。その声とともに、地が割れるような轟音が辺りに響いた。
時とともに数で大きく優る織田勢に戦況が傾き始めていた。広重は最後まで諦めてはならぬと思いながらも、胸の片隅の、表情には現れぬ、奥の、またさらにその裏面の辺りで微かに呟いた。
(風神に嫌われたか。)
その言葉とともに広重が覚悟を決めたとき、城壁に並べた旗がゆっくりと萎れ、さらに、先程とは逆の方向に、はためき始めた。
「してやったり。」
広重は狂喜した。同時に、用意していた火矢に火を点じるよう下知し、待機していた騎馬武者達に大手門に集まるよう命じた。広重自身も、太刀の目釘を改めながら曳かせてきた馬に跨り、大手門を目指す。大手門に到着した広重は、集まった五百騎の騎馬武者達に策を伝えるや、大音声で城壁に並ぶ射手たちに命じた。
「放て。」
各々の射手は音を立てて燃え盛る火矢を、矢継ぎ早に東の丸の銘々の小屋に向かって放った。火矢は確実に本丸の眼下に置かれた東の丸の建屋にとりつき、次々と火勢をあげた。東の丸の城兵が火の手の上がった小屋に登り、消火に当たろうとしたが、本丸から広重の次男孫次郎がそれらを鉄砲で狙い撃ち、見事、撃ち落した。これを見た東の丸の兵達は屋根に登っては鉄砲の的になるだけと諦め、消火に当たろうとする者も皆無となった。西風を背負いながら射られる火矢は着々と東の丸を猛火の渦中に沈め、目に滲みるような黒煙が満ち、東の丸の兵達は次第に大混乱に陥った。風上に建つ本丸からは東の丸の混乱の様子が手に取るように分かった。
「頃合は良し。それ討ってでよ。」
広重は大手門を八の字に開き、騎馬五百騎とともに東の丸に向かって討って出た。広重ら主従は黒い塊となって本丸から逆落としに一気に東の丸に駆け入り、その行く手を通りすぎる影を片っ端から切って捨てた。東の丸の城兵達は敵の刃を避け、また煙に巻かれることを嫌い、傷つき、そして、息絶えた味方を踏み越えるようにして、城山の麓まで算を乱して逃げ落ちた。
 広重は東の丸に敵兵の動く影が見えなくなった事を確認して、味方の騎馬武者たちに引き上げを命じた。広重達の明るい光を彼方此方で燻る小屋小屋の煙が遮った。煙は広重達の目を否応無く刺激し、彼等の視界をさらに奪い取った。
 東の丸を抜けると一団の騎馬武者は急速に視界を取り戻した。火煙と血煙を掻い潜ってきた彼等の鎧は敵兵の返り血と煤で赤黒く変色し、血と汗を吸い込み、重く、強張っていた。そんな広重たちの凱旋を本丸の城兵達は歓声で出迎えた。
「皆の者、ようしてくれた。これで出石に一泡吹かせる事ができたというものだ。」
広重は裏切りを働いた出石に一矢を報いる事ができた事を心底から喜んだ。しかし、広重の策はここで滞留する。
(さて、加茂城の命運は。)
本丸に篭もる城兵達は早朝からの激戦で極限まで疲労し、其処此処で倒れ伏している。城の足下では、夜明けから、逐次、陣を移してきた織田勢が蜂の巣を突付いたような状態で屯し、広重の目にはその数は万に達しているかのようにも見えた。
 城の麓の織田勢は東の丸から退却した宇喜多勢を収容し、さらに新手を繰り出さんとしていた。既に、新手が今しがた宇喜多勢が逃げ下った加茂城の山道を登坂し始めていた。
 東の丸を失った加茂城は、麓に展開する織田勢に対して、既に裸同然と言えるほどに城としての防御機能を喪失していた。
 広重は覚悟を決めた。
(これでは勝ち目も無かろう。死ぬ前に出石に一矢を報いる事ができたことだけが、地獄への土産となろう。)
広重の悲壮な覚悟は、血と汗と硝煙の臭いを濃厚に放つ城内の空気を伝わり城兵達に乗り移った。一息入れた城兵達の表情には生気が甦り、皆、槍をしごき、互いの暴れ狂う姿を夢想し、寄せ手が迫るのを今や遅しと待ち構えていた。すでに城兵達は死兵と化していた。

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