磁場の井戸:第四章 対岸(八)/長編歴史小説

 岩崎山から日差山へ向けて、一頭の栗毛の馬が疾駆していた。騎上の若武者は、目の前を横切る者を馬蹄に敷き潰すかのような勢いで、鞭を振るい続けている。
 若武者は隆景のいる幔幕の側まで勢いを落す事なく駆け寄ると、ひらりと身を地に落とし、鎧が軽く擦れ合う音を響かせながら幔幕の中に入った。幔幕の中では、隆景と元春が向き合って、高松城周辺の絵図面に視線を落としていた。
「どうした、元長。」
元春は息を荒げながら、突然、幔幕の内に入ってきた息子に向かって言った。元長は二人が囲んでいる図面の朱書きに目を落した。今朝からの織田勢の動きが克明に描き出されたその絵図からは、多数の織田勢が加茂に向けて動いた事が見て取れた。元長は元春の質問に答えようともせず、馬を疾駆させてきた勢いを減衰させることなく、二人の側で空席になっている床几に腰を下ろした。
「好機でございます。織田勢は均衡を崩しました。この絵図の通り、崩れは歴然でございます。なぜ、出陣の触れを出されないのでございますか。元長、そのことをお尋ねいたしたく、ここまで参った次第。このまま、みすみす加茂を見捨てれば、毛利家の威信は地に落ちますぞ。」
元長は、父元春になら積極策に同意して貰えると無意識に思い、敢えて冷静な叔父隆景と目線を合わそうとせず、真っ直ぐに元春の方を見ながら言った。元春は絵図を睨んでいた目を息子の方に向けて、何か言おうとしたが、それを掣肘するように隆景が元長に力強く言った。
「元長殿、織田勢を崩せぬまでも、加茂城に篭もる広重らを助け出さねば、毛利家の信が疑われる事になろう。今すぐ、元長殿と経言殿が大将となり、山陰勢を従え、加茂へ出張っていただきたい。織田勢は一万を超えているかもしれんが、精強を持って聞こえる山陰勢をもってすれば、織田勢が二倍であろうとも蹴散らす事は易かろう。」
予期していなかった隆景の言葉に、元長は面を上気させながら答えた。
「この元長の一命に代えても、弟、経言とともに加茂の城兵達の命を必ずや救ってまいります。山陰衆の手並みのほど、とくとご覧下さい。」
元長は、備中表に到着して以来、初めての織田勢との正面切っての大戦に身体中が熱くなるのを感じながら、幔幕を辞し、馬上の人となって、日差山の急峻な山道を転がり落ちるように駆け下って行った。

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