950(1538)_==天文7年==(旧版)



>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<



 天文7年(1538)、尼子氏再度西播磨に再度(前回は天文6年)進攻。赤松政村を失脚させ、城山城(龍野市と新宮町の境)に本拠を置く。この際、尼子勢は交通の要衝上月城に兵を入れたと伝えられる。=尼子晴久が出雲から播磨に進攻し、上月城を占領。ここを拠点に播磨を攻略。
 天文7年(1538)6月、尼子勢が美作に出陣。
 天文7年(1538)8月23日、尼子詮久が大軍を率いて富田城を進発し、美作/備前を攻略、さらに但馬から播磨に兵を進める//無人の野を行くが如し。//尼子詮久は美作/備前/播磨の国人衆を軍勢に加えながら播磨守護職赤松政村の根拠飾磨郡置塩に迫る⇒赤松政村は支え切れず高砂に逃れたが、ここで小寺重隆/明石修理亮らが尼子氏に味方したため再び淡路に出奔し、阿波細川持隆に身を寄せる。
 天文7年、尼子詮久率いる尼子勢が赤松氏の重臣別所就治の居城美濃郡3木城を攻めるも、城兵の頑強な抵抗により陥落せず。
 天文7年9月、尼子方の石見国人衆福屋上野介が長門に侵入し、大内方の益成友重を嘉年城に攻めるも、敗退。

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