950(1543)_==天文12年==(旧版)


>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

 天文12年(1543)、種子島に鉄砲が伝来。
 天文12年(1543)、越後揚北衆(鳥坂城主中条藤資、本庄城主本庄房長、平林城主色部勝長ら)が長尾晴景(後の上杉謙信の兄)に従わなくなり、長尾景虎(後の上杉謙信)は兄晴景を助けるため敵に囲まれた三条城(三条市)に入り、ついで栃尾城(栃尾市大野)に移る。
 天文12年(1543)、後の本願寺顕如が生まれる。
 天文12年(1543)1月21日、大内義隆、出雲宍道の畦地山に本陣を移す。//ここで富田城を眼下に望むことができる京羅木山への移陣について諸将に諮り、進軍に決する。
 天文12年2月12日、大内義隆、本陣を出雲京羅木山へ移し、陶隆房は経塚、兵庫頭は三沢為清、三刀屋久扶とともに出雲富田八幡山に布陣//京羅木山は出雲富田城を眼下に望む最前線となる。⇒そのまま3月上旬まで合戦でらしい合戦はなし。
 天文12年3月14日、尼子方の大老牛尾幸清、川副久盛ら1千余が、大内方の寄手内藤興盛、毛利元就の連合軍5百余を出雲富田城の菅谷口蓮池縄手で撃退。
 天文12年3月下旬、尼子新宮党2千余を率いた尼子誠久、敬久兄弟が新宮谷近くの金屋の洞光寺を攻めた大内方の平賀隆宗、益田藤兼ら5百余を撃破。この際、大内方の吉川興経が横槍を入れ、平賀らは討死を逃れる。
 天文12年3月頃、大内義隆、出雲富田城包囲の陣中に京都の神道家吉田兼右を招き神道伝授を受ける。⇒この間、厳島神社や筑前箱崎宮、伊勢神宮、出雲日御碕神社、出雲揖屋神社に戦勝祈願依頼。⇒出雲鰐淵寺にも旧領を寄進。
 天文12年4月12日、大内方の毛利元就、隆元父子が出雲富田城の塩谷口に寄せるも尼子軍に撃破される。⇒出雲富田城の大内氏包囲に伴う城麓の局地戦は大内方の敗色が濃くなっていた。
 天文12年4月晦日、大内方についていた三沢、三刀屋、本城、吉川、山内らの石見衆、出雲衆が大内氏を裏切り、富田城に入城//大内方に残ったのは毛利、平賀、三吉、福屋、天野、益田など。
 天文12年5月7日、大内義隆は出雲京羅木山の本陣を引き払い、揖屋に退き、尼子軍の追撃を避けながら石見路を経て、同月25日、周防山口へ帰還。⇒出雲の国人衆のうち宍道遠江守や多賀美作守らは大内義隆と行動をともにして周防へ。河津氏は末次の家城に籠もり討死。
 天文12年5月、大内軍、総退却。義隆の養嗣子晴持が溺死。
 天文12年5月25日、大内義隆、周防山口に帰還。
 天文12年6月、大内義隆の出雲退却に伴い尼子方に寝返った備後の山名理興(備後深安郡神辺城主)が毛利元就や大内方の備後鎮将西条槌山城番弘中隆兼らと合戦。
 天文12年7月、大内氏に人質として預けられ筑前にいた赤穴氏の嫡男詮清と次男定清が、赤穴氏が尼子氏へ味方したため自害。⇒赤穴氏は、祖父の久清とともに富田城に籠城していた三男盛清(のちの久清)が相続し、大内方の撤退により本領のほか石見・伯耆に多くの地を宛行われる。
 天文12年7月上旬、尼子晴久が石見に進軍し、邇摩郡久利城を攻める。
 天文12年9月1日、石見久利郷で吉川経安・久利太郎法師丸らと戦い、ついでに久利氏を追って城を破却。⇒尼子勢はさらに進んで石見三高城(城主佐波隆連)を攻めるが攻城1ケ月に及んでも落とすことができず、転じて大森銀山を奪取して富田城へ帰還。

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