峡の劔:第七章 黒衣の旅僧(2)

 黄褐色の微粉末を全身に浴びた弥蔵が崩れるように地面に蹲り、薄れていく意識の中で左腕に刺さった細い針を懸命に抜き取って、小さな傷口に何度も唇を押し当て、血を吸い出し、地面に吐き捨てる。弥蔵が咄嗟に受け止めた細針の不気味な蒼い光跡は毒の塗布を意味していた。清太は毒薬が全身に回らぬよう、自分の髪を止めている紐を外して弥蔵の左腕の付け根を緊縛する。次第に動作が鈍っていく弥蔵に代わり清太が傷口から毒を吸い出す。不純物のない弥蔵の鮮血を舌の上で確認した清太は毒薬と妖薬の双方で意識を喪失していく弥蔵を背負って、小屋へと戻る。
「弥蔵が手傷を負った。傷は浅いが、毒にやられている。」
 清太が短く告げながら、苦しげに呼吸する弥蔵を床に横たえる。亥介と総馬が弥蔵を診る。弥蔵の左腕が鈍い土色に変色し、左手の指先が痙攣している。
「まずは解毒です。」
 総馬が土間にある甕から水を汲み、左腕の傷口を何度も洗う。亥介が鎧櫃の中から薬籠を取り出し、真新しい木綿布に峡に伝わる解毒の膏薬をたっぷりと塗布して、弥蔵の傷口全体に当てる。さらに、亥介は白湯に溶かしたこちらも峡伝来の解毒剤を、ゆっくりと弥蔵の口に流し込む。
 弥蔵は荒い呼吸を繰り返しながら、時折、苦しげな呻きを発する。
「毒に身体を、妖薬に精神を犯され、激しい苦痛と幻覚に襲われているのでしょう。しかし、若様の素早い処置のお陰で、毒は致命的には回っておらぬようです。それにしても、床下に潜む弥蔵殿を察知し、さらに、ここまで追い詰めるとは相当な手練ですな。」
 清太は弥蔵が手傷を負った際の状況を語った。
「弥蔵は百足と呼ばれた旅僧の従者と干戈を交えながら、「兎吉」と小さく叫んでいた。相手からの応(いら)えはなかったが、夕闇とはいえ弥蔵が「兎吉」を見誤るとは考えられぬ。」
「峡を捨てた上に、得体の知れぬ妖僧の従者になるとは阿呆な奴じゃ。」
 総馬は若いだけに感情を先行させて、自分と同じ丙部出身の兎吉を罵る。清太は、総馬の発言に直接触れずに、
「黒衣の旅僧の正体はわからぬが、凄腕であることは間違いない。兎吉一人であれば、捕えることは容易だが、旅僧の邪魔が入るようならば、事は簡単には運ばぬかもしれぬ。なぜ、旅僧が退いたのかは解せぬが、旅僧がその気になれば、わたしも無傷では済まなかったかも知れぬ。」
と、呟く。
「何れにしても若様がご無事で何よりです。兎吉の手懸かりが得られただけでも、摂津まで来た甲斐がございました。」
 この日は亥介が清太を励ました。

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