950(1574)_==天正2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_<
>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<



 天正2年(1574)1月1日、織田信長が、岐阜城で新年の祝いに、浅井久政・長政父子と朝倉義景の首を薄濃にして酒肴に供する。
 天正2年(1574)1月3日、山中鹿之助、尼子勝久を奉じて再び因幡国へ侵攻。同行した部将は立原源太兵衛久綱/神西三郎左衛門/加藤彦5郎/亀井茲矩/吉田三郎左衛門/森脇市正/横道源介/横道権ジョウ/牛尾大炊助/足立次郎左衛門/足立治兵衛/進左吉兵衛ら。山名豊国の援助を受ける。尼子勢は伯耆への侵入後、13箇所の城を落とし、旧交のある浪人達が馳せ加わり、勢力を増大。
 天正2年1月、尼子勢は毛利方の大坪甚兵衛一之が安芸に赴く事を知り、山中鹿之助が途中の鳥取辺りの雁金山の麓で待ち伏せし、大坪らを襲うも、山中鹿之助待ち伏せの知らせを受けていた大坪が小勢ながらも奮戦し、山中鹿之助が敗北。//山名豊国は何度も毛利と尼子を天秤にかけて寝返りを繰り返し、背腹常なく、最終的には家臣に追放されることになる。
 天正2年1月5日、山中鹿之助/立原久綱ら、私都城(城主大坪甚兵衛は安芸へ赴き不在?)を攻めるも、毛利方の在番牛尾元貞の抵抗により退却。>この時、山中鹿之助が林という在所に逃げたことから、大坪は笑いながら、「人に会いて林に入るは、鹿と云う名には応じたり」と嘲ったという。
 天正2年1月、織田信長,明智光秀に大和多聞山城を守らせる。
 天正2年1月、武田勝頼,東美濃に侵攻。
 天正2年1月中旬、三条西実澄,明智光秀を大和多聞山城に訪ねる。
 天正2年1月19日、織田方の越前守護前波吉継が富田長繁に攻め殺される。
 天正2年1月20日、織田方の越前府中城主富田長秀が、門徒衆を煽動し、織田方の一乗谷の越前守護代桂田長俊(前波吉継が改名)を15万の軍勢で襲い、殺す。//長秀も長俊も朝倉方から織田方に寝返った武将。//長俊に専横の振る舞いがあり、人心が離れており、同僚の長秀は長俊への嫉妬もあり、襲撃か?//長秀は、さらに北庄に押し寄せ、北庄を預かっていた津田元秀らを放逐。
 天正2年1月、越前の諸将が一向一揆に加担し、越前の国境が騒然となる//羽柴秀吉は織田信長のもとに浅野弥兵衛を派遣して、越前国境の騒乱を注進しつつ、独断で若狭衆を率いて出陣//使者の浅野弥兵衛に山中鹿之助のことを伝言毛利氏が播磨浦上氏を調略する気配あり。武田氏や石山本願寺のこともあり毛利氏との直接対決姿勢は示さぬものの、当方に尼子勝久、山中鹿之助らが近江に滞在。しかし、今後面倒なことが起らぬよう尼子氏一党を伯耆/出雲などに放つのが上策と言上。
 天正2年1月26日、上杉謙信が、関東出陣を諸将に命じる。
 天正2年1月28日、越前の門徒衆が、加賀の金沢御坊から七里頼周を招き、一揆の頭に奉じた上、足羽にある専修寺派の仙福寺を攻める。//高田専修寺派は、石山本願寺と敵対関係にあり、織田信長と結んでいた。//仙福寺は門徒衆に屈服。 天正2年1月晦日、明智光秀、原石勘左衛門を奈良の大乗院尋憲のところへ遣わし、法性(ほうしょう)五郎の長太刀を見せてくれと依頼。//法性寺の長太刀は多いが、法性五郎は指名であった。
 天正2年2月?、石山本願寺が、越前と加賀の門徒衆に対して、織田方に対する一斉蜂起を命じる。
 天正2年2月1日、織田信長,東美濃に侵攻した武田勝頼を攻めるため,出陣。
 天正2年2月1日、筒井順慶が大和多聞山城に在城している明智光秀を訪問。
 天正2年2月2日、大乗院尋憲、明智光秀に法性五郎の長太刀を貸し出す。//明智光秀は法性五郎の長太刀をすぐに返却。
 天正2年2月、明智光秀が、東美濃への武田勝頼の侵攻を防ぐために大和多門山城の守備を細川藤孝と交代。
 天正2年2月、武田勝頼,織田信長方の岩村・明智以下の諸城を攻め,明智・飯間(岐阜県恵那郡)を落とす。
 天正2年2月4日、明智光秀、石清水八幡の善法寺に宛てて、美濃国生津(なまづ)を直務させる旨、書状を発行。
 天正2年2月5日、上杉謙信が、関東出陣のために沼田城に入り、徳川家康と呼応して、武田勝頼の討伐を目指す。
 天正2年2月7日、浦上宗景、織田信長の援により山中鹿之助に応じて毛利勢と戦う。
 天正2年2月13日、越前・加賀の門徒衆が、富田長秀の籠る北庄を攻め落とす。
 天正2年2月14日、越前・加賀の門徒衆が、富田長秀の本拠越前府中に押し寄せる。
 天正2年2月18日、富田長秀が、越前府中において越前・加賀の門徒衆に攻められていた所、味方に背後から鉄砲で撃たれて死亡。//富田勢は敗北し、門徒衆は武士の館や諸宗の寺を焼き払う。
 天正2年2月19日、越前・加賀の門徒衆が、金津(福井県坂井郡金津町六日)の溝江長逸を攻め滅ぼす。//この時、一揆を指揮したのは杉浦玄任。
 天正2年2月24日、織田信長が東美濃から帰陣。
 天正2年2月28日、越前・加賀の門徒衆が、石山本願寺の命を受け、朝倉景鏡が逃げ込んだ越前平泉寺を囲む。 天正2年3月、織田信長が、上杉謙信に狩野永徳筆の「洛中洛外図屏風」一双を贈る。//信長は謙信の上洛を警戒?
 天正2年3月1日、亀井茲矩、武田源三郎(高信の子)とともに因幡国小松原に出陣し、付近に放火するが毛利方の軍勢に駆逐される。
 天正2年3月9日、柴田勝家,多聞山城の守備を,細川藤孝と交代。
 天正2年3月、武田信虎が信濃国高遠で逝去。享年81歳。
 天正2年3月13日、織田家から小早川隆景宛書状。尼子方が因幡で勢力を伸長し、毛利氏は杉原盛重/南条宗勝らの援軍を送ることとし、さらに尼子方の背後に織田信長の支援があるとみた毛利氏は織田家に但馬出兵を求めるも、織田信長は但馬出兵の準備を進めているとしながらも、出兵の時期については明確にせず。
 天正2年3月20日、足利義昭が、流遇先の紀伊由良の興国寺から、武田勝頼、上杉輝虎、北条氏政に宛てて、本願寺顕如らとともに義昭の帰京を図るよう内書を送る。
 天正2年3月28日、織田信長、東大寺の名香ランジャタイを切り取る。
 天正2年、本願寺顕如が、織田信長との和睦を破って決起。
 天正2年4月、亀井茲矩と山中鹿之助の養女(或いは妹)となっていた尼子旧臣亀井能登守秀綱娘(姉は山中鹿之助の妻)が婚姻。湯氏から亀井氏となる。
 天正2年4月2日、摂津の門徒衆が、織田方の中島城を占拠。//織田方の三好康長と遊佐信教が門徒衆に寝返り、河内高屋城に籠城。
 天正2年、織田信長が、本願寺顕如の挙兵を京で聞き、細川藤孝や筒井順慶に摂津への出陣を命じる。 天正2年4月13日、上杉謙信と北条氏政が利根川を挟んで対陣。//上杉謙信は、その後さらに進んで、由良成繁の金山城を攻める。
 天正2年4月15日、下間頼清を総大将とする越前・加賀の門徒衆が、朝倉景鏡が籠る越前平泉寺を攻略し、6000と称する堂塔を全て焼き払う。//景鏡は自害。//本願寺顕如は、越前に若林長門を遣わし、仕置を行い、下間頼清を守護代とし加賀に近い坂井郡の豊原寺に置き、頼清の子頼照を足羽郡司として北庄に、杉浦玄任を大野郡司として一乗谷に、七里頼周に府中一円を知行させて湯尾(福井県南条郡今庄町湯尾)に配置する。
 天正2年4月下旬、織田信長が、摂津で石山本願寺と河内高屋城を攻めていたが、抑えに荒木村重や高山右近らを置き、一旦兵を退く。
 天正2年5月、上杉謙信が、関東諸将の救援を終え、一旦帰国。
 天正2年5月17日、織田信長,明智光秀の四男を筒井順慶の養子とすることを命じる。(疑わしい)
 天正2年5月下旬、武田勝頼が、遠江に出陣し、徳川方の高天神城(静岡県小笠郡大東町上土方)を攻囲。//徳川家康は、織田信長に救援を乞い、信長は岐阜を出陣。
 天正2年6月、羽柴秀吉、長浜城の築城を開始。//普請奉行に蜂須賀正勝、前野将右衛門長康。
 天正2年6月19日、武田勝頼が、徳川方の高天神城を攻略。城主小笠原長善は勝頼に降伏し開城。
 天正2年、越前門徒衆が、織田方が守る木ノ芽峠の砦を奪取。//遠江への出陣の途次から引き返した織田信長は、羽柴秀吉と丹羽長秀に門徒衆の動向を伺わせる。
 天正2年6月23日、織田信長が、長島一向一揆討伐のため、70000の兵を率いて、岐阜から津島に出陣。//伊勢の海賊衆九鬼嘉隆に海上封鎖を命じる。//長島には、老若男女合わせ門徒衆10万が籠る。
 天正2年7月6日、三淵藤英、織田信長により坂本城で切腹。//足利義昭の敗戦以来、明智光秀に預けられていた。
 天正2年7月10日、織田信長が、長島一向一揆の総攻撃を開始。//織田信忠や柴田勝家が攻めかかるとともに、北畠信雄が率いる九鬼水軍が木曽川と揖斐川の河口から大筒を大鳥居や篠橋の砦に撃ち込む。
 天正2年7月14日、越前の大坊主らが、門徒衆が大坊主らに不満を持ち、彼らを討ち取る企てがあることを知り、企ての首謀者らを誅殺し、越前守護代下間頼清が徒党を組む者は処罰する旨の制札を立てる。
 天正2年7月14日、織田信長、一向一揆の拠点である伊勢長島城を包囲。別動隊として荒木村重に摂津中島の一向一揆を攻撃。
 天正2年7月19日、織田方の荒木村重らが、摂津中島城を攻略。
 天正2年7月20日、石山本願寺が、前日に奪われた摂津中島城を取り戻す。織田方の荒木村重らは兵の半数が死傷する惨敗。
 天正2年7月20日、織田信長が、越前の高田専修寺派や三門徒派、朝倉氏の残党らに対して、越前出陣の際に忠節に励めば知行を与えるとの書状を発信。//羽柴秀吉が越前調略を担当?
 天正2年7月頃、三好康長が、居城河内高屋城を出て、織田方の三箇城を攻める。//康長は攻略できず、信長は細川藤孝を河内に派遣。
 天正2年8月、織田信長,佐久間信盛・明智光秀らに河内の三好氏の兵および一向一揆を攻めさせる。
 天正2年8月、羽柴秀吉,越前一向宗徒に近江木ノ目城を攻め落とされる。
 天正2年8月、尼子勢、因幡国若桜鬼ヶ城、私都城(キサイチ)を攻略/落城。尼子勝久/山中鹿之助/立原久綱らは若桜鬼ヶ城に入城、亀井茲矩は私都城に入城。
 天正2年8月3日、伊勢長島の大鳥居に籠る一向一揆の男女1000人余が激しい風雨に紛れて脱出しようとしたが、織田勢がこれを発見して一人残らず殺す。
 天正2年8月12日、織田信長が、伊勢長島一向一揆の篠橋の砦が降伏を申し出たことに対し、長島を攻めよと要求した結果、一向一揆方は残った長島・矢長島・中江に逃げ込む。//織田方が長島への糧道を断ったため、餓死する門徒衆が増加。
 天正2年8月17日、織田信長が、河内に出陣している細川藤孝宛に伊勢長島の戦況を報告し、「大坂の坊主は迷惑の由に候」と書く。//この頃、長島一向一揆は餓死や水中への投身など壊滅に近付いていた。
 天正2年、越前の一乗谷に出陣していた加賀一向一揆に杉浦玄任が、越前府中一円を知行していた七里頼周と仲違いしたため、金沢御坊に召喚される。//玄任は北の上杉に備えるべきと主張し、頼周は南の織田に備えるべしという意見で戦略が一致せず。
 天正2年8月17日、織田信長,細川藤孝に「その表のことは少しも油断することなく,光秀と相談して才覚することが肝要である」と述べる。
 天正2年8月24日、武田勝頼が、石山本願寺からの救援要請に対して、近日中に三河へ出陣する旨の書状を返す。//諸般の事情で勝頼は出陣できず。
 天正2年9月、織田信長が、伊勢長島一向一揆を攻めていた佐久間信盛や明智光秀などの諸将を、河内に陣替え。//河内で抵抗を続ける三好康長や門徒衆の鎮圧を目指す。
 天正2年9月、佐久間信盛・明智光秀ら,河内飯盛(大阪府四條畷市)にて戦勝,ついで,萱振(大阪府八尾市)を奪取。
 天正2年9月18日、織田方の佐久間信盛や明智光秀が、河内飯盛山付近で三好康長と門徒衆に遭遇し、激戦の末、これらを破り、さらに萱振城を攻略して高屋城に迫る。
 天正2年9月22日、尼子勝久/山中鹿之助ら、山名豊国の援により鳥取城を攻略。
 天正2年9月22日、山中鹿之助/立原源太兵衛/牛尾大炊助/森脇市正/横道源介ほか3千5百の兵で因幡鳥取城を攻撃。淨意はついに下り鳥取城開城。尼子勢は鳥取城に入城。***この頃には因幡の大半が尼子勢に従うようになったかも。***
 天正2年9月頃、吉川元長、因幡国内の尼子勢を討伐するため、毛利方の伯耆国衆南条宗勝/杉原播磨守/山田重直らを因幡に先発させ、因幡荒神山(気高郡鹿野町河内)を攻撃。尼子方の城主山崎1兵衛は討死。「山田氏覚書」の天正2年9月の項には「立原/山中、その外残兵、因州鳥取、勝久を初めとして入城。…然らば、因州荒神山の城を先立って攻め崩さるべきとて、南条豊後入道宗勝、杉原播磨守、山口出雲守重直(北条堤城主で南条氏重臣)、同蔵人佐を御差し向け候。」とあり、吉川元春は伯耆国衆のうち、毛利方の部将の諸将を因幡に先発させる。
 天正2年9月、山名豊国、再び毛利方に寝返り。尼子勝久ら鳥取城を脱する。亀井茲矩/横道兄弟/森脇久○/牛尾大炊助らは私都城へ、尼子勝久/山中鹿之助/立原久綱/神西三郎左衛門らは若桜鬼ヶ城に入る。(その後、両城とも毛利家の手中に落ちる。
 天正2年9月25日、長島一向一揆が、織田信長に対して、和睦を求め、織田信長はこれを許す。//長島の門徒衆は半数以上餓死する状況。//信長は長島一向一揆を許すつもりはなく、和睦は偽り。
 天正2年9月29日、織田信長、伊勢長島城の一向一揆を殲滅。
 天正2年9月29日、織田信長が、和睦に伴い長島一向一揆に加担した門徒衆が川を渡って退陣する所に、織田方は和睦を破り、鉄砲でこれらを狙い撃ちにし、徹底的に虐殺する。//この殺戮に逆上した門徒衆の男達800人が裸になって抜刀し、織田方に斬り込んだため、信長の兄織田信広や、弟織田信成、叔父の津田信次ら数多くの死者を出した。
 天正2年、織田信長が、長島一向一揆の最後の砦となった中江と矢長島を幾重にも囲み、焼き払う。//伊勢長島願証寺が焼亡。
 天正2年10月19日、佐久間信盛・明智光秀らが織田信長の命により河内高屋城(大阪府羽曳野市)に到着。その後、同城を守る遊佐信教を攻撃
 天正2年10月19日、上杉謙信が、再び関東に出陣し、利根川に陣を構える。//5月に関東救援を終え、帰国したばかり。
 天正2年10月20日、佐久間信盛・明智光秀,連署にて根来寺(和歌山県那賀郡)在陣の衆に「昨19日にこの表に着陣した。明21日には高屋に働くつもりである。だから来る23日には根来在陣衆は高屋の南に出て共同作戦をするよう」に諸城を発行。//連署は明智光秀・塙直政・羽柴秀吉・丹羽長秀・柴田勝政・長岡藤孝・佐久間信盛。根来在陣衆は根来寺の宗徒と思われる。
 天正2年秋頃、吉川元春、但馬諸氏を毛利氏の味方とするための調略を展開。その後、但馬の山名祐豊は吉川元春に対して因幡への合力を求め、因幡山名豊国への援助と豊国に従わぬものへの制裁が必要と書状にて言及。
 天正2年11月頃、織田信長、荒木村重に摂津の一職支配権を与える。
 天正2年11月3日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子、83歳)が、「蓮如上人仰条々連々聞書」の執筆を終える。
 天正2年11月、織田信長が、京に入り、明智光秀と羽柴秀吉を大和に派遣して、大坂との往来を断つ。
 天正2年11月7日、上杉謙信が、金山城を攻撃しつつ、武蔵鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)、忍・騎西(埼玉県北埼玉郡騎西町)領内に放火。
 天正2年11月14日、明智光秀、光源院領のことについて、淡路入道というものに書状を送る。
 天正2年11月15日、織田信長が、荒木村重に命じて、摂津伊丹城主伊丹親興を攻めさせ、親興が城を捨てて退去する。//信長は、これを有岡と改名し、茨木から荒木村重を移らせ、摂津一国を知行させる。
 天正2年閏11月19日、越前門徒衆3000が、過重の年貢と労役に不満を募らせ、豊原寺の下間頼清の襲撃を企てるが、豊原寺から出陣した兵250がこれを大いに破り、追撃して首謀者の首級を上げる。
 天正2年閏11月19日、上杉謙信が、武蔵国羽生城(埼玉県羽生市)を破却し、騎西城に放火した後、同日、厩橋城に入城。
 天正2年12月、上杉謙信が、関東救援を終え、帰国。
 天正2年12月、越前門徒衆700が東郷康原を中心に決起し、北庄に居る下間頼照の館に押しかけたが、頼照方が出陣して100余人を討ち取る。
 天正2年12月19日、上杉謙信が剃髪して謙信を称し、紀伊高野山の僧清胤を師として護摩灌頂を執行して法印大和尚に任ぜられる。
 天正2年12月21日、明智光秀・村井貞勝、連署にて、上賀茂神社の境内および六郷の惣中に宛てた安堵状を発行。
 天正2年12月22日、明智光秀・村井貞勝宛に、佐竹出羽守宗実というものが、光源院領のことについて書状を送る。
 天正2年、三村元親、織田信長に寝返る。
 天正2年、毛利家、備中の三村元親を攻めるため、備中に侵攻する。//備中大兵乱、この際清水宗治と江口源介が隆景から誓詞を与えられる

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