950(1576)_==天正4年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_<
>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 天正4年(1576)、播磨国人の三木城主別所長治が織田信長に従う。
 天正4年(1576)1月、織田信長が右大将に昇任。毛利氏から祝いの太刀、馬などが届く。
天正4年1月、吉川元春が、織田信長と羽柴秀吉に賀状を送り、同時に、信長の側衆である聖護院道澄へ織田方が尼子勝久を援助していることをなじる。
天正4年1月、織田信長が、近江安土に築城することを決め、丹羽長秀に普請を命じる。
天正4年1月(?)、石山本願寺に、雑賀など紀州門徒が次々と参集。//織田と本願寺の和議が破れるとの噂が巷を覆っていた。
 天正4年(1576)1月、丹波国波多野秀治、織田軍に反旗を翻す。明智光秀は敗戦により退却。山中鹿之助、殿軍を務める。
 天正4年1月中旬、毛利氏が上洛作戦に関して吉田郡山城で評定し、作戦を決定。
 天正4年1月中旬、織田信長、安土城の築城を開始。(同年4月とも)
 天正4年1月、吉田兼見、丹波にて敗戦の明智光秀を京都北白川に見舞う。
 天正4年1月21日、明智光秀は丹波攻略中のところ近江坂本城へ戻り、兵の休息を促す。
 天正4年1月、吉田兼見、近江坂本を訪れ、明智光秀と面会。
 天正4年1月23日、織田信長、美濃岐阜から安土に移る。
 天正4年1月or2月、前将軍足利義昭が、強引に紀伊由良から備後鞆に移る。
天正4年2月6日、毛利元康/杉原盛重ら、尼子氏の属城因幡宮吉城を攻略する。
 天正4年2月8日、足利義昭が紀州由良から備後鞆の津に到着。側室や上野重政、畠山昭賢、真木島昭光、武田信景、春阿弥ら側近・同朋衆20余名。⇒毛利氏に対して幕府再興のための挙兵を促す。上杉謙信に対しても新たに働きかけを始める。
 天正4年2月8月、足利義昭が、備後鞆から毛利方の吉川元春と小早川隆景宛に、内書を送り、織田信長の非を唱え、毛利氏の決起を促す。
 天正4年2月8月、実悟(浄土真宗、蓮如の実子の最後の生き残りで宗派の最長老)が院家に列する。
 天正4年2月、能登七尾の畠山氏で内紛があり、当主畠山義統が殺される。畠山家中は二派に分裂し、それぞれ織田方と上杉方に通じる。//これを機に、上杉謙信は織田信長と断交し、加賀門徒と結ぶ。
 天正4年2月18日、明智光秀、丹波攻略のため、再度、出陣。
 天正4年2月23日、織田信長、美濃岐阜城下の佐久間信盛の屋敷から近江安土の仮屋敷へ移る。//この頃には天守がほぼ完成していた?
 天正4年3月、原田直政,松永久秀の子久通が土市城(奈良県橿原市)に土市遠長を攻めた際に調停する。
 天正4年3月2日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が「蓮如上人一語記」を書き上げる。
 天正4年3月11日、織田信長、吉川元春の歳首の礼に応え、山中鹿之助らを庇護しない旨を回答。
 天正4年4月、織田信長が安土城の築城を開始(同年1月とも)
 天正4年4月、石山本願寺が織田氏に対して和睦を破り、再度挙兵。この時、織田信長は荒木村重・細川藤孝・明智光秀・原田直政の四人を中心とした大軍を催し、石山本願寺攻略に向かう。石山本願寺方の戦意旺盛のため、その後、原田直政が討死、織田信長自身も鉄砲で足を負傷。//光秀・藤孝には東南の森口と森河内とに砦を築かせ、また、明智光秀とを原田直政の築いた天王寺砦に入れた。佐久間信盛は5/5に京都を出陣。
 天正4年4月、織田信長が、石山本願寺の周辺を固めるため、荒木村重を尼崎から野田に進出させ、明智光秀と細川藤孝に守口や杜河内に砦を作らせ、さらに原田直政や筒井順慶に南方の天王寺への布陣を命じる。//本願寺方は楼の岸と木津の砦を固め、海との輸送路を確保する。
 天正4年4月13日、夜、織田方は、石山本願寺方が守る木津への進出を目論み、門徒衆と今宮付近で激しく衝突。//原田勢は三津寺の砦を攻めるが、これを攻めあぐねる。
 天正4年4月14日、織田信長が摂津石山本願寺攻略のため、近江安土を出陣。//出陣には羽柴秀吉も同行するが、竹中半兵衛や浅野弥右衛門、宮部善祥坊らは安土城普請のために近江に残る。
 天正4年4月18日、本願寺顕如が、紀州門徒に書状を出し、決起を訴える。
 天正4年4月29日、石山本願寺が、住吉社に火を放つ。
 天正4年4月29日、織田信長が、安土を進発し、京に入る。
 天正4年5月1日、織田信長,京都に在中
 天正4年5月3日、早朝、織田方が、石山本願寺に総攻撃を仕掛ける。//第一陣の三好康長と根来衆、和泉衆は木津に寄せるが、門徒衆一万に囲まれ、鉄砲を浴びせられて潰走する。第二陣の原田直政は三津寺に寄せたが、深田に足を取られ主将の直政が鉄砲に狙われ討死し、総敗軍となる。//逃げる織田方を石山本願寺方が追い、四天王寺に布陣していた明智光秀、筒井順慶、佐久間正勝らが門徒衆に包囲され、四天王寺の堂宇は炎上した。
 天正4年5月3日、織田方の原田直政が大将となり、三好康長・根来衆・和泉衆の三津寺砦を攻めたが、かえって敗戦し、原田直政が討ち死。
 天正4年5月3日、本願寺顕如が、石山本願寺の合戦に参陣した河内玉串庄の門徒50人に感状を与える。
 天正4年5月4日、原田直政が討死(『兼見卿記』,『多門院日記』より)。//原田直政の死により、その後大和奈良の支配は筒井順慶に委ねられることになる。
 天正4年5月5日、石山本願寺の一向一揆,天王寺の砦を攻め,佐久間信盛・明智光秀らを囲む。
 天正4年5月、織田信長が、石山本願寺での総敗軍の状況を京で聞き、湯帷子のまま馬に飛び乗り、大坂に向かって出陣する。100騎あまりの近臣がこれに追い従う。
 天正4年5月5日、織田信長が、京街道を駆け、河内若江に到着。//門徒衆1万5千に包囲された四天王寺の明智光秀から何度も注進が届いたため、信長は手元の兵3000で救援に向かう。信長はこれを三隊に分け、第一陣を佐久間信盛、松永久秀ら、第二陣を滝川一益、羽柴秀吉ら、最後は馬廻り衆として、5月7日夜半に行動を開始。
 天正4年5月7日、夜半、織田方が、石山本願寺攻めのため行動を開始し、これに気付いた石山本願寺方が二千の鉄砲を浴びせる。//門徒衆が唱和する「南無阿弥陀仏」の念仏に織田方は怯むが、信長自身が出馬し、足に鉄砲を受けながら奮戦したため、織田方が攻勢。
 天正4年5月7日、織田信長が、自身、天王寺に押し掛け,敵の砦を両方から攻め,一揆を破って,籠城の兵を救う。
 天正4年5月7日、毛利輝元が、前将軍足利義昭の呼び掛けに応じて、織田信長との断交を決意した。//前将軍足利義昭は喜び、上杉謙信や武田勝頼に知らせる。
 天正4年5月7日、織田信長,荒木村重に命じて,木津城を攻めさせ,これを陥とす。
 天正4年5月7日、尼子勝久/山中鹿之助らの籠もる因幡若桜鬼ヶ城を攻略/落城。毛利軍杉原盛重/草刈重継らによる>尼子勝久/山中鹿之助らは丹波に逃れる>その後の尼子勝久/山中鹿之助らの足取りは不明>最終的には山中鹿之助/立原久綱/亀井茲矩らが再度京に上り織田信長に属する>さらに織田家の但馬方面軍である明智光秀の軍勢に加わり、但馬八木城攻略や丹波籾井城攻略戦に加わっていたのではないか???→この見解が正しいように思われる。天正4年の若桜鬼ヶ城落城をもって尼子勝久/山中鹿之助は因幡を退き、明智光秀に属して丹波攻略を手助けしたのではなかろうか?←
 天正4年5月10日、本願寺顕如が、紀伊門徒衆に対して、「信長自身懸向といへども、差動なく、剰え一戦に及び、敵利を失い引退候、雑賀之輩或は討死、或は手負、不惜身命事、たくひなき忠節感入計候、…極楽の往生をとげられ候べき事、ありかたかるべく候」との書状を送る。
 天正4年5月10日、織田信長が、石山本願寺との合戦で討死した原田直政に代え、筒井順慶に大和一国の仕置きを命じる。//松永久秀がこれに不信感を持った可能性。
 天正4年5月11日、大阪石山本願寺一向一揆と織田信長の争いに対して,勅使が下向。
 天正4年5月12日、吉田兼見,大阪の戦を見舞うため,京都を出発し,天王寺に至って,細川藤孝を見舞い,天王寺に宿泊。
 天正4年5月13日、吉田兼見,大阪在陣中の織田信長の元を訪れ,物を贈り,ついで,細川昭元と明智光秀を訪問。
 天正4年5月13日、石山本願寺方と織田方が、摂津野田で小競り合い。
 天正4年5月、織田信長は、石山本願寺を攻めるため、周辺の尼崎、大和田、茨木、高槻、有岡など十ヶ所の砦を築き、荒木村重以下の摂津衆を入れ、往来と糧道を封鎖する。また、天王寺には佐久間信盛を大将として、松永久秀らの軍勢を配置し、住吉では沼野伝内らに海上の警固を命じる。
 天正4年5月14日、毛利方の軍勢が、浦兵部に率いられ、播磨の英賀に上陸し、織田方の姫路城を攻めたが、播磨国人小寺政職の家老黒田官兵衛孝高がこれを撃退する。
 天正4年5月、本願寺教如(顕如の長子、19歳)が、前将軍足利義昭を通じて毛利氏に合力を要請
 天正4年5月、織田信長が、大坂から一旦京に戻る二条妙覚寺を宿所とする。
 天正4年、織田信長、毛利氏との対決にあたり九州大友氏に対して、島津との和睦と毛利氏への牽制を依頼。
 天正4年5月18日、上杉謙信が本願寺光佐と和睦する。//これにより、上杉方は加賀・能登・越中で織田方と攻防が始まる。
 天正4年5月19日、織田信長が、織田方に内通した紀伊雑賀の太田源三大夫の神妙さを褒め、近いうちに雑賀を討つ旨を発言//太田源三大夫は、石山本願寺に籠る鈴木孫市と領土を争う間柄
 天正4年5月23日、本願寺顕如が、織田信長による雑賀討伐の噂に接し、紀伊雑賀衆に対して、仏法の安危に関わるので、思案して欲しい旨の書状を発信
 天正4年5月23日、織田信長が、阿波の安宅信康に対して、毛利水軍による石山本願寺への兵糧搬入を阻止するよう命じる//信康は安宅船と呼ばれる大型の軍船を所有//毛利氏は信康に対して安宅船の譲渡しを要請したが、信康がこれを拒否
 天正4年5月24日、織田方に屈していた越前門徒衆が、石山本願寺の檄に応じて越前府中で蜂起したが、織田方の前田利家により千人余が生け捕られ、磔や釜茹などにより処刑
 天正4年5月25日、本願寺顕如が、下間正秀と下間頼廉に、播磨門徒衆への書状を持たせ、備前の宇喜多直家と連携して播磨灘の制海権確保を命じる
 天正4年5月28日、加賀の門徒衆が、上杉謙信に対して出陣を要請//この頃、松任の鏑木頼信らが織田方に寝返り
 天正4年5月下旬、毛利水軍が石山本願寺救援(兵糧搬入)のため、出陣。兵糧船600余、警護船300余艘。
 天正4年6月、毛利水軍が淡路島を占領。
 天正4年6月5日、織田信長が摂津石山本願寺の周囲に10箇所の砦を築いたことを確認し、安土への帰路に着く。
 天正4年6月6日、織田信長,石山本願寺の包囲網が整ったことを確認し、大阪石山本願寺攻めから,一旦京都に帰る。
 天正4年6月11日、上杉謙信が、前将軍足利義昭の懇願を受け入れ、織田信長討伐を決めたことを義昭に伝える。
 天正4年6月12日、足利義昭が、上杉謙信に対して、武田・北条両氏と和睦して、京都を回復することを要請。
 天正4年6月23日、明智光秀,病のため大阪の陣から京都に戻り,間直瀬道三の治療を受ける。
 天正4年6月24日、明智光秀の妻,吉田兼見を訪問し,光秀の病気平癒の祈祷を依頼。
 天正4年6月25日、上杉謙信と武田勝頼・北条氏政が、足利義昭の要請を受け入れ、和睦し、京都を回復することを承諾。//足利義昭・本願寺・上杉謙信を中心とした反織田体制が成立。
 天正4年6月27日、織田信長,明智光秀の元に,病気見舞いの使者を送る。
 天正4年7月、明智光秀,同年6月から患っていた病が平癒。//吉田兼見,近江坂本に光秀を訪問。
 天正4年7月12日、淡路岩屋に集結していた毛利水軍八百艘が、石山本願寺に向け出港//大将は児玉就英で、水軍の主力は能島や来島、因島の村上水軍//出港後、和泉貝塚において雑賀衆と合流し、堺、住吉を経て、木津川口に向かう
 天正4年7月12日、毛利水軍と紀伊雑賀衆が和泉貝塚で合流。 
 天正4年7月13日、夜半、毛利水軍が、木津川川口に到着し、石山本願寺方も出陣//織田方は淡輪主馬兵衛や沼野伝内らが安宅船十艘に井楼を構え、小船三百艘とともに川口で待ち受けm衝突//毛利方は、織田方が撃ちかける鉄砲に怯まず、接近して焙烙火矢を敵船に投げ込んだため、織田方の軍船は炎上//毛利方は大勝し、十万石の兵糧を石山本願寺に搬入
 天正4年7月13日、木津川河口の戦い(第1回:毛利水軍の勝利)
 天正4年7月13日、毛利水軍が和泉堺、摂津住吉を経て大坂木津川口へ至る。織田水軍を破り、本願寺に兵糧を搬入。この第1次木津川口の戦いが毛利勢と織田勢にとって歴史上最初の衝突であり、織田氏と毛利氏が全面的な敵対関係となる。
 天正4年7月13日、毛利、小早川、宇喜多水軍が大坂木津川口で織田水軍を撃破し、石山本願寺に兵糧を搬入。
 天正4年7月21日、キリシタン教会が、織田信長の援助により京の姥柳町(中京区蛸薬師通室町西入)に建て直され、献堂式が行われる//南蛮寺と呼ばれる
 天正4年7月、羽柴秀吉が、織田信長から播磨経略を命じられる。//おそらく木津川河口の戦いにより毛利氏と完全な敵対関係になったことを受けたものだと思われる(中国攻めの総大将を命じられるのは天正5年冬頃?)
 天正4年8月、上杉謙信が越中に出陣し、氷見(ヒミ)を攻める。
 天正4年8月2日、石山本願寺の密使が、加賀に向かう途中、京で捕えられる
 天正4年8月2日、毛利輝元が、上杉謙信に対して木津川口に海戦の勝利を知らせる
 天正4年8月6日、北条氏政が、前将軍足利義昭の織田信長包囲網に味方
 天正4年9月、織田方の浦上宗景、備前天神山城(岡山県和気郡佐伯町)を家臣の宇喜多直家に攻略される。浦上宗景はそれまで織田方の勢力範囲の西限に位置していたが、宇喜多直家により失脚。この時、宇喜多直家は毛利方に通じていた。→この後紆余曲折を経る!浦上宗景の失脚に西播磨周辺の國人衆も動揺し毛利方に寝返り始める。←
 天正4年9月、上杉謙信が、上洛への道を確保するため、越中へ出陣。//その後、戸川城(富山県上新川郡大沢野町船新)、増山城を攻略。9月8日には湯山城(氷見市森寺)を攻囲し、飛騨口に2城を築き、一向一揆に備える。//その後12月までに能登の大部分を制圧。
 天正4年9月13日、宇喜多直家の兵、播磨上月城を攻略。
 天正4年9月16日、武田勝頼が、毛利輝元に対して、大坂が堅固の間に前将軍足利義昭を京に戻すべきとの書状を送る
 天正4年10月12日、細川幽斎が三条西実枝からの古今伝授を修了。
 天正4年10月27日、明智光秀が上洛。
 天正4年11月、織田信長が、安土から京の妙覚寺に入る
 天正4年11月、織田信長が、京において播磨の赤松則房、別所長治、浦上宗景と対面
 天正4年11月16日、本願寺顕如が、加賀門徒衆の一部における上杉謙信の加賀通過反対に関する意見を抑え、上杉謙信が南下できる態勢が整う
 天正4年11月25日、織田信長が、北畠家中の者に命じ、隠居の伊勢国司具教を討つ。
 天正4年11月25日付、吉川元春が起請文。安芸で吉川元春の意を受けた伯耆堤城主山田出雲守重直、南条氏を毛利方に引き留めるため、南条家中にあった福山次郎左衛門とその一族を自邸に招き、討ち果たした(天正4年頃)ことに対して、福山以下の逆臣明白とし、山田重直が福山を討ち果たしたことを毛利家にとって本望であるとしている。織田家の中国方面担当であった羽柴秀吉は因幡/伯耆の有力部将に対して調略を進めていたが、南条氏やその重臣福山氏にも勧誘の魔手が届いていたと思われる。→後年、南条元続は羽柴秀吉に通じ毛利氏と対抗する結果になる。←
 天正4年12月、上杉謙信が、能登に出陣し、織田方で幼主畠山義統を擁する長綱連が籠る七尾城を囲む
 天正4年12月、上杉謙信が、能登の大部分を制圧。 天正4年末、上杉謙信が北陸の一向一揆と和睦し、上洛の準備を整える。//織田信長は当初石山本願寺との戦闘を天正4年内程度で終結すると見積もっていたが、上杉謙信と北陸一向一揆との和睦で戦略に齟齬を生じた。
 天正4年?月、織田信長、安土城を竣工。
 天正4年12月9日、上杉謙信が七尾城(石川県七尾市古府)を攻囲。
 天正4年12月24日、上杉謙信が、石動山城(石川県鹿島郡鹿島町石動山)を築き、直江景綱、河田吉久、吉江資堅らに守らせつつ、七尾城下の天神川原に陣を張り、七尾城を攻め立てる。//上杉謙信は七尾城攻城のまま越年。

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