磁場の井戸:第二章 舞台(三)/長編歴史小説


宗治は七郎次郎の姿が茜色の夕日の中に消えた後、一人、考えた。
(城主乃美元信殿は武勇の将とはいえ、八千の敵勢に四百の城兵では、幾日持ちこたえられようか。援兵を送りたいが…。)
しかし、援軍すれば、味方の兵は竜王山の斜面に陣を構える織田勢に丸腰の脇腹を曝すことになる。そこを逆落としに織田勢が攻め込んでくれば、敗北は必至、さらに兵数はこちらが寡ともなれば、野戦において勝利を得ることは不可能だった。
 高松城の構造は周囲の深田、沼沢が外敵の接近を妨げる代わりに、城内の兵が迅速に城外へ突出することも阻んでいた。
(おそらく、秀吉もそれを知悉した上で竜王山に本陣を構え、高松城の枝葉の城塞を攻め、こちらの出方をみているのだろう。ここは、元信殿の胆力を信ずるほかあるまい。)
宗治は、秀吉の鮮やかな戦略眼に恐れ入ると同時に、今朝の微妙な振動が再び心中で美しい旋律を奏でながら踊り始めるのを感じた。
(ついに始まった。)
宗治の最後を飾る戦という舞台の幕が、宗治自身の位置とは遠いところで、静かに上がった。宗治は舞台の袖で出番を待つ主役のように自分の振り付けを反芻し、確認する以外に為す術がなかった。
 夜更け、宗治は寝室にいた。寝室の明かりは消えているものの、宗治は覚醒して、寝床の上で腕を組みながら端座していた。七郎次郎の気配を感じた宗治は自らの手で障子を開き、庭に座っている七郎次郎が見える軒下まで出た。
「宇喜多勢は宮地山を力攻めで一気に落とそうとしましたが、城兵は強固に抵抗し、敵兵を城壁にも近づけず奮戦、本日、日暮れと共に宇喜多勢は後退し、城兵も一息ついたもののと思われます。」
七郎次郎の言葉で、宗治は城兵の士気が高いことを知り、胸を撫で下ろした。
(この分ならば、宮地山城は要害を頼りに幾日かは敵兵を弾き返すことができるだろう。)
当座の鎬であることを知りながら、一時の安堵が宗治の心中に満ちた。
「御苦労であった。今日はもう良い。また、明日、宮地山に赴き、様子を探ってくれ。」
そう言うと、宗治は寝室に戻り、寝床に潜った。
(宮地山は、既に、儂にはどうにもならぬ。元信殿の粘り次第だ。)
自分が宮地山城に対して、為す術のない無力の存在であることを悟ると、自然と彼の肝は据わった。
(この城を守り、秀吉を翻弄することのみが、儂の役割だ。)
そう思うと、宮地山を助けに行けないことに対する胸中の蟠りがすっと腹中におりた。すぐに睡魔が襲った。そのまま、宗治は深い眠りに落ちた。

 天正一〇年四月二一日、宮地山城、冠山城の落城が近いと見た秀吉は主力を率いて、竜王山を離れ、高松城の北、八幡山に本陣を移した。
その夕刻、騎馬武者の一団が、高松城の北側を取り囲む丘陵が野に果てるあたりの野径を緩慢とも思える速度で、西に向かい駆けていた。一団の向こう側に見える山嶺、そして、その麓には無数の兵旗が夕暮れの風を受け、ゆっくりと翻っていた。
 宗治は注進を受け、高松城本丸の櫓に登り、その一団を目を細めながら遠望した。一見、無防備にも見えるその一団は、足守川の塘坡の上に着くと、馬の息を整えるように輪乗りを繰り返しながら、その緩やかなせせらぎを眺めているようだった。
 一団の武士の中に、茜色の西日を浴び、細く長い影を備中の野に落としながら、煌びやかな光彩を放つ一人の小男がいた。
(奴こそ、秀吉に違いない。)
他の武士と際立って異なる覇気を纏ったその姿を見て、宗治は直感した。宗治の位置から見ると、天を茜に焦がす夕陽が秀吉から発せられる神々しい光のように錯覚された。
(気のせいか、・・・。)
宗治は思った。
(まんざら錯覚ではないかもしれない。)
幻覚を振り払うように、宗治は一度首を振り、この事態に対処すべき道を探るべく、自問した。
(これは好機到来か。)
そして、すぐさま自答した。
(否、好機にあらず。)
一見、丸腰の秀吉であったが、実際はその矮小な体には似つかわしくない山のように巨大な、そして玉鋼のように硬い鎧を着込み、鉈のように重く、剃刀のように鋭利な太刀を握っていた。その鎧と太刀は秀吉の背後の山脈に見え隠れしながら、秀吉自身の軍配の一振りを待ち侘びていた。宗治が出張れば、秀吉は秘めていた鎧と太刀を露わにし、返り討ちに押し返し、こちらをずたずたに切り裂くに違いない。
「我らが見ておる前を悠々と馬で駆けていくとは、心憎い。」
血気に逸る末近信賀が傍らで歯噛みしながら呟いた。信賀は小早川隆景が高松城の軍監として小早川勢二千とともに派した武将であった。傍らで戦意を露わにする信賀の顔は細く鋭い目の上に、これも細長く濃い眉を載せ、その面魂には歴戦の強者の臭いが濃厚に感じられた。軍監として、高松城に訪れたときの宗治との対面で、何故か信賀は宗治に心服した。それは宗治と信賀が同じ臭いをもっていたから、そして、宗治の生き様が信賀の理想とするものであったからであろう。信賀は宗治の人柄に心酔し、軍監でありながら、宗治の配下として働くことを誓った。
 しかし、このときの信賀に対する宗治の態度は明らかに素っ気なかった。
「うむ。」
宗治は眩いばかりの夕陽に目を細めたまま、信賀に相槌だけを返した。
 その影が敵の大将であることを薄々と勘付いた末近信賀や近臣の高市允らが色めき立った。
「殿、これは敵将秀吉を討ち取る好機でござる。出陣の御下知を。」
市允と信賀は激しい口調で出陣を求めた。宗治は聞こえぬ素振りで、夕陽を背にした小さな騎馬の群を眩しそうに見つめ続けていた。
(今、この城から討って出ても秀吉を捕らえられまい。かえって味方が敵の大軍に捕捉され、退路を断たれるだろう。)
宗治は宮地山への援兵を断念したときと同様に自身の城での戦い方を反芻した。高松城は広い備中の野に孤立した陸の孤島の上にある。周囲は沼沢、深田に囲まれ、その周囲に通じる路は城の大手から南に出る路と、搦め手にあたる和井元口から北へ走る路の二本しかない。二本の路は騎馬がようやく行き交うことができる程度の小径で、とても短時間に大兵力を城外に投入できるような代物ではなかった。長短表裏、この細い径と周囲の沼沢、深田は敵勢の接近を拒む大きな障害でもあった。これら高松城と城の周囲の地形を鑑み、
(堅く城を閉じ、忍耐し、忍従し続け、好機の到来を待つしかない。)
既に、この戦の戦い方に対する結論を得ていた宗治にとって、信賀の血気と市允の若気は剣呑なものでしかなかった。
「今こそ秀吉を討つ好機でございます。出陣を。」
若い市允は、反応のない宗治に苛立ちを隠さず、再び大きな声で叫んだ。
 市允の声は周囲の兵が聞き取るのに十分な大きさだった。周囲にいた城兵達が城壁にとりつき、秀吉を中心とした騎馬の一団に注目し、猥雑に騒ぎ始めた。生身の敵将を見た衝撃が、それを共通の敵とする一つの集団に異常な興奮を与えようとしていた。城兵達の罵声が急激な音量の増大を伴いながら、あたりを包み始めた。
「騒ぐな。」
宗治は城兵達の喧噪を打ち消す大音声を放った。宗治の一喝で城内は水を打ったように静まりかえり、城兵達の目が全て宗治の姿に向けられた。
「今は好機にあらず。」
再び宗治が叫んだ。理由をくだくだと述べるよりも、一喝のみがこの集団的狂騒に歯止めをかけ得る唯一の方法であることを、宗治は肌で知っていた。
 城兵達は沈黙した。無論、信賀や市允も口を閉ざしていた。武将としての器、そして、人間としての位の差が、城兵の沈黙を呼んだ。興奮の極に達しようとしていた城兵達に冷静な心が戻った。城兵のうち三千は宗治子飼いの兵、残り二千は信賀が連れてきた隆景の配下である。それら全ての兵が、宗治の声に時の流れを忘れたかのように静止した。
 今、宗治の元に全ての城兵の心が合致し、宗治の将器に城兵達は心酔した。

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