磁場の井戸:第二章 舞台(二)/長編歴史小説


 この日、高松城の周囲は平静を保ったまま、静かに終わろうとしていた。太陽が中点を過ぎてから、既に何刻が経っただろう。西の空に浮かぶ陽光が鮮やかな黄金色の輝きに赤みを加え始める刻限だった。
「殿。」
書院の前庭に置かれた小童が蹲ったくらいの大きさの石の側に、小さな体をさらに小さく曲げて跪く影が声を発した。農夫姿の七郎次郎の影だった。
「織田勢が宮地山城に攻め掛かりました。」
七郎次郎は静かな口調とは裏腹に、興奮して紅潮した顔を宗治に向けて言った。宗治は表情を引き締め、赤らんだ七郎次郎の顔面を見つめ返した。宮地山の戦況を見届けた後、高松城までの山間の間道を全速力で韋駄天のように駆け戻り、すぐに宗治の所に訪れた七郎次郎は顔中の汗腺から水分を吹き出し、その着衣は彼の小さな体には重たげに見えるほど、ずっしりと水分を含んでいた。
「で、敵勢は。」
「先鋒は宇喜多勢八千。初戦とばかりに勢い込んで攻めております。」
「城の様子はいかがじゃ。」
「遠目でしかと見えませんが、門を堅く閉じ、押し寄せる敵勢に城壁から矢玉を馳走しております。」
「分かった。急ぎ宮地山に戻り、引き続き戦の様子を探ってくれ。」
「御意。」
七郎次郎は宗治に一礼すると、再び宮地山に向かうべく、背を向けて駆け出していた。
 七郎次郎は城を囲む沼沢の灌木の間をすり抜けるようにして疾駆した。地面は乾き、沼沢特有の細粒分の多い土の表面が、乾燥のために亀甲状のひび割れに覆われていた。薄暮の中で、七郎次郎の足が地面を蹴るごとに灰神楽の如く、白く薄い粉が舞った。七郎次郎の身体から流れる汗が、乾いた地面に点々と跡を描いた。七郎次郎は流れる汗を拭うことも忘れ、走り続けた。乾いた大地を蹴りながら、七郎次郎は、宗治を包む空気がさらに変化していることを感じていた。
 その変化を心の中で言葉にできるだけの表現力を七郎次郎は持っていなかった。ただ、漠然と三原城を訪れて以来の宗治の微妙な変化を心の眼で感じていた。
それは、闘い、そして、勝利するという武将としての覇気が、美しい死という清澄なまでの信念に昇華していくときにその人間の纏う空気が色を失い、透明になっていく過程だった。その変化を感じ取るためには、その人間との深い紐帯に加えて、自分もその空気を纏わなければならない。でなければ、自らの空気が発する色彩が心の視界を妨げ、相手の微妙な彩度の変化を見逃してしまう。
 七郎次郎の汗は流れ落ちるごとに、七郎次郎の中にある現世への欲望を洗い流していた。乾いた空気を切り裂いて駆け続けながら、七郎次郎自身が纏う空気も徐々に澄み切っていく。汗が一滴づつ大地に染み込むたびに七郎次郎の現世との縁が薄れ、彼の周囲に弛む風は透明度を上げていった。七郎次郎の小さな背中を見送りながら、同様に宗治も七郎次郎の変化を感じていた。

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