磁場の井戸:第三章 水牢(六)/長編歴史小説

 しかし、その数日後、高松城は湖水に浮かぶ孤城と化していた。
 (まさか、この世に湖を出現させることなどできるはずがない。)
宗治でさえ、そう思い続けていた。
 しかし、案に反して、城一帯の野は水面と化した。織田勢が足守川に築いた堰を切った天正十年五月十三日夜半のこと、これまで一滴の雨ももたらさなかった空に突如として黒い雲が現われ、直後より豪雨となって備中の野を襲った。強風を伴った雨は屋根を破らんばかりに城全体とその足下の野面を容赦なく打ちつけた。
 城方はおろか織田勢までもが、最初、気まぐれな通り雨だと思った。だが、この雨は、今まで空が貯え続けてきた全ての水分を吐き出すような勢いで、止むことなく野を叩き続け、翌日には、城の周囲一帯は見渡す限りの水を湛えた。それでも、雨は降り止まず、突如備中の野に出現したこの湖は、突然の湿舌がもたらした雨滴を蓄えながら、その嵩を増し続けた。
 数日後、途切れることなく降り続けた豪雨が上がった。備中の野は今までの雨が嘘のような晴天に包まれた。しかし、既に高松城下の水位は、城から外への連絡を絶つのに十分なまでに達し、城下の沼沢や田畑は水面下に沈んでいた。秀吉は頃合いも良しと見て、かねてより浅野弥兵衛に命じて作らせていた大船三艘を高松城の周囲に出現した湖上に浮かべた。三艘の大船からは昼夜を分かたず、高松城に向かって大筒が放たれ、以後、城兵を悩まし続けることとなった。

 織田勢がこの僥倖に沸き返る中、秀吉は蛙が鼻の本陣から、遠くに見える高松城を眩しそうに眺めていた。
「皆のもの、見よ。湖水の城じゃ。美しいものじゃ。」
秀吉は玩具を作り終えた子供のように燥いでいた。燥ぐと秀吉の顔は猿のように愛嬌がある。傍らの謀臣黒田官兵衛はその天真爛漫とも言える表情を横目に見ながら、深く感じていた。
(この天運、この男は何かに憑かれ、そして、何かに護られている。この運は、天がこの男に何かを求め、与えているのではなかろうか。)
 高松城の詰の丸で同じ事を考えている男がいた。宗治である。
(なぜ、こうなったのか。)
そんなことを考えても仕方がないことはわかっていた。しかし、今はそれ以上の事を考えることができなかった。なぜ、秀吉はこの備中の野に湖を出現させることができたのか。それは「天運」という言葉でしか説明することができないほどの、幸運と偶然が織りなした珍事だった。
(自分はその天運に引きずられているだけなのではないか。)
 湖水に浮かぶ大船から、轟音と共にまた大筒が放たれた。砲弾は狙いを誤ることなく城内の一角に落ち、そこから煙が上がった。このころの大筒は炸裂弾ではないため、それほどの殺傷力はなかったが、昼夜を分かたず打ち込まれる砲弾の心理的効果は絶大だった。湖の上にはその大船とは比べ物にならぬ小船が浮かんでいた。宗治が先に命じて作らせた小船である。小船は時折、三艘の大船に向かって、鉄砲を放ったりして、反撃を試みているが、それは象に鼠が噛み付くが如き、ささやかな抵抗に過ぎず、ともすれば鼠は象に踏み潰されそうになっていた。

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