磁場の井戸:第四章 対岸(三)/長編歴史小説

 日差山から下った一群は隆景の命を受けて、日幡城攻略に向かう軍勢であった。大将は隆景配下の樽崎弾正忠、その数、数千である。
 日幡城は備中境目七城の一つで、その扇の要にあたる高松城からは南方へ加茂城の次に連なる城だった。その城主は日幡六郎兵衛という備中の豪族で、この正月三原城で隆景から太刀を授かり、宗治とともに死を誓った武将だった。
 この城にも、高松城の末近信賀と同様な形で、毛利家から上原右衛門大夫元祐という武将が軍監として差し向けられていた。元祐は、毛利元就の娘婿であり、すなわち、元春、隆景には妹婿にあたり、毛利家の準一門と言える男である。
 その上原元祐が、突如、羽柴秀吉からの誘いに転び、日幡城主日幡六郎兵衛を討ち、そのまま日幡城に居座り、城内に宇喜多勢を導き入れた。
 隆景、元春は予期せぬ妹婿の謀叛に憤怒した。
「毛利の威信にかけても、右衛門大夫だけは許す事はできぬ。」
早速、諸将を集め、日幡城攻略にかかるべく軍議を開き、出陣を決した。
「日幡は寝返って間もないので、まだ守りも手薄でしょう。今、攻めたてれば易々と落とす事も可能ですが、…。」
軍議の席上、吉川元春の嫡男元長は献策した。元長は勇猛果敢な父吉川元春の血を濃く受け継ぎ、家臣達からの人望も篤い。その武勇は、父元春とともに、「鬼吉川」の名を広く世間に知らしめていた。
「しかし、恐ろしいのは秀吉の後詰でございましょう。」
元長は言葉を続けた。樽崎率いる城攻めの軍勢の後ろから、秀吉が襲いかかれば、兵数の多寡から言って、必ずや樽崎の一隊は全滅するであろう。元長の言葉を聞いて、隆景は静かに語った。
「確かに、今、日幡に槍を向ければ、秀吉が日幡を救おうと軍勢を繰り出すかもしれん。そうなれば、毛利全軍を上げてこの山を駆け下り、秀吉と干戈を交えてもよかろう。」
隆景は武勇の誉れ高い甥の元長を励ますような口調で言った。しかし、隆景の心の内は違っていた。
(おそらく、秀吉は出ては来るまい。日幡の小城ごときを救うために、あの堅牢な野戦陣地から出てくるくらいならば、もうとっくの昔に出てきているはずだ。秀吉の尻はそれほど軽くはあるまい。)
これまでの戦の経過からして、この程度の事で秀吉という大亀は甲羅の中から頭を出すことはないと感じていた。しかし、隆景は元長を立てるために、言葉を続けた。
「もし、秀吉が殻を破って出てくれば、これまでの両者の均衡が崩れる事になる。相手が釣り合いを崩せば、そこが此方の付け入る隙となろう。そのときは、毛利全軍でこれに当たる。さすれば、自ずと勝利は此方の物であろう。」
元長は、これから始まる大戦を想像し、興奮を隠すことをせず、顔面を若く荒ぶる血で紅潮させ、父と叔父を急き立てるように言った。
「されば、早速、秀吉が出て参った折の手配りを。」

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