磁場の井戸:第四章 対岸(二)/長編歴史小説

 中国山地に注いだ豪雨は一度地面に蓄えられ、じっくりと時間をおいて備中の野を潤す。それも、二、三日の遅延でなく、長いときには一ヶ月にも及ぶ。あの突然の豪雨以来、備中の野は晴天が続き、高松城を取り囲む深い緑色の山々からは蝉の鳴き声が煩わしいほどに騒がしく聞こえていたが、山々に貯留された雨水の滲出により、高松城は日毎に湖の中に没し続けた。
「このまま溺れ死ぬのはいやじゃ。」
足下からは湖水が迫り、頭上からは断続的に砲弾が降り注がれ、兵達は極限的精神状態に追い込まれていた。どの兵も眼球が落ち窪み、皮膚が浅黒く変色し始めていた。
 為すことなく、ただ、死を迎えるまでの毎日の中に突然変化は訪れた。城内から彼方に見える日差山の一所でゆらゆらと揺れていた旗が活発に動き始めた。宗治は、末近信賀、高市允と共に、櫓の上で蝉鳴を聞きながら、満々たる湖水の先にある丘陵の斜面を眺めていた。先ほど来、三人は対岸に見える日差山辺りの気配が昨日までと異なっている事を感じ、額から流れる汗を拭うのも忘れ、日差山とその尾根続きの岩崎山の辺りを凝視し続けていた。しばらくすると、小早川家の紋である三つ巴の旗の群が日差山から麓に下り始めた。
(ついに、隆景様が動いたか。)
宗治は大声で叫びそうになったが、辛うじて溢れ出る感情を喉元で食い止めた。まだ、その群の運動の方角が見切れていなかった。少なくともそれを見極めるまでは、大将自らが騒いではならぬという意識が、激しい音に対して瞼を閉じる条件反射のように、宗治の骨髄の中に染み込んでいた。
「小早川様ならば、必ずや、この城の水難をお救い下される。」
高市允がだれに言うとも無く、喜びに溢れる声で言った。隆景の家臣である末近信賀も、
(同感だ。)
と言ったふうに頻りと頷いた。
 しかし、宗治は旗の向かおうとする力の方向を見極めるため、漠とした目線を日差山の方に向けたきり、市允の言葉と信賀の点頭を無視し続けていた。先端のみを凝視すれば、全体の動きを見誤るという歴戦の経験が、自然と宗治の意識を漠たるものにしていた。
 日差山から高松城の方角に向けて山を下り、備中の野に降り立った三つ巴の旗の群は隊列を整えるために休止した。時を経るに連れ、整然と並び始めた隊列が有する潜在的運動の方向が北東の織田勢の方角ではなく、どちらかというと南に向いて構えているように、宗治には感じられた。宗治は群の南端に網膜の焦点を合わせ、その先頭に立つ兵達の出立を凝視した。その目線の先に、群の先頭を構成すべき鉄砲足軽の姿が見えた。
(この城を救うのではないのかも。)
既に、城兵達は軍団が北に向かって突進することを信じ、歓喜の声を上げ始めていた。
「静まれ。」
宗治は、そう叫ぶことによって、事実よりも先行している城兵達の歓声を抑えた。叫びながら、宗治はその一団の行き先を見定めようと、全神経を研ぎ澄まして軍団の先鋒の一点を見つめた。
(違う。城の方向を向いてはいない。)
宗治は悟った。
 一団は日差山の麓で隊列を整えるために四半刻ほど費やした後、その集団が目的とする方向に向かって移動を始めた。その瞬間、その群の目指している方角が、高松城とそれを囲む織田勢の包囲網でないことが、誰の目にも歴然となった。
「なんじゃ、助けてくれるのではないのか。」
その一群に向けて、城兵の銘々が叫んだ。その叫声は、時の経過とともに、罵声に変わっていた。
(今は言いたいことを言わせておこう。)
宗治は、味方に嘲罵する事しかできない城兵達と、水に囲まれて身動きの取れない自分に、雨中に笠を持たぬ旅人に対するような、他人に恵むべき憐れみを感じていた。

コメント

このブログの人気の投稿

【完結】ランニング、お食事 2022年5月~2022年12月

ランニング、グルメ、ドライブ 2023年4月〜

ランニング、グルメ、クライム 2023年7月〜