磁場の井戸:第三章 水牢(八)/長編歴史小説

 そのころ、高松城の一室では宗治を始め、中島大炊助や末近信賀さらには鳥越左兵衛、難波伝兵衛、白井治嘉など宗治の主立った家臣が集まり、この水牢に抗う策を練っていた。どの表情も暗い。軍議は良策を見出せぬまま、沈黙が続いていた。その沈黙の中、宗治の脳裏に七郎次郎が山陽道を疾走している姿が浮かんだ。想像としてはあまりにも鮮明すぎる影像だった。宗治は自分の中に現れた七郎次郎の幻影に向かって、
(頼むぞ。)
とだけ呟いていた。
 七郎次郎は、宗治の心中の結像に違うことなく、初夏の山陽道を脇目も振らず、走り続けていた。あの雨以来、瀬戸内の街道筋は焼け付くような真夏の太陽に照らされ、多量の湿気を含んだ粘り着くような暑さが訪れていた。その粘性に富んだ空気を切り裂くように走る七郎次郎の着衣は、総身の水分を絞り出したかのように、たっぷりと汗を含んで、黒ずんでいた。着物の裾から滴る汗は、七郎次郎の後を慕うように、街道の赤茶けた地面に点々と続いた。
 空虚が七郎次郎の頭の中を支配していた。高松城は近い。既に全身が極限の疲労状態に達していたが、それでも両脚だけは無意識に動き続けていた。彼の両足を回転させているのは、もはや、
(高松城の宗治様の元に書状を届ける。)
ためでなく、ただ立ち止まらず走り続けるという意志だけだった。左脚が地を蹴れば、次に右脚で地を蹴るという行為の繰り返しの命令だけが、七郎次郎の体を動かしていた。
 既に薄暮が備中の野を覆っていた。赤みの混じった太陽の光が街道を東へ上る七郎次郎の体を押していた。もう、高松城が見えてくるはずだった。七郎次郎は両脚の回転の速度を変えることなく、地に長く落ちた自分の影を追いかけ続けていた。

 満月が煌々と森に降り注いでいた。高松城の北側の山稜の中、七郎次郎はゆっくりと起きあがった。ちょうど日が落ちた頃、七郎次郎は高松の北側の山稜に着いた。
城の北側には宇喜多や淺野弥兵衛などの軍勢が陣営していたが、城の南側に比べれば物陰も多く、七郎次郎はいつも城の北側の山稜から高松城へと忍び入った。
 日は暮れたとはいえ、まだ敵陣の動きは活発だった。七郎次郎は森の中に分け入り、彼のみの知る洞穴に潜り込み、夜が更けるのを待つことにした。七郎次郎は湿度の高い洞穴の中で疲労を癒すために体を横たえた。眠気が襲ってくれば、それに任せて軽い旨寝を取ろうと思ったが、興奮した血液が宗治に書状を届けるまでは体を休めることを許さぬかのように、体中を駆けめぐり、眠りを妨げ続けた。
 そして、眠ることのないまま深更を迎えた。洞穴の外に出ると、中天に向かおうとしている月が眩いばかりに森の樹々を照らし出していた。警戒の敵兵の目を避けて高松城に忍び込むには、
(上々とは言えないな。)
と、七郎次郎は憎らしげに美しい満月を仰いだ。
 七郎次郎は、木の陰に身を隠しながら、小走りに和井元の集落へ続く杣道を駆けた。途中、幾度か遠くに揺れる松明を見つけ、地に伏せてそれをやり過ごし、和井元口に繋がる山稜の尾根にたどり着いた。
(昨日より嵩が上がっている。)
七郎次郎は、昨日、同じ場所から備後三原へと発った。昨日まで根元を露わにしていた木の幹が、今は水の中から顔を出していた。七郎次郎は波打ち際に近づくと、入水のために、着衣を脱ぎ、それを油紙でくるみ、さらに帯でくるんで頭の上に結びつけた。勿論、隆景からの書状は三原城を出るとき、油紙で二重にくるみ、さらにまわりを蝋で固めることで、水に触れることを防いでいた。その蝋封した書状は着物の袖の中に縫い込んである。
 七郎次郎は木の幹に捕まりながら、波紋さえも立つことを恐れるように、つま先をゆっくりと湖水の中に浸した。そして、動作を止めることなく、頭の先まで湖水の中に浸かった。右手に握った節のない竹筒を水面上にほんの少し出し、それで息をしながら、暗く冷たい水の中を高松城へと泳ぎ始めた。
 宗治はずぶ濡れの七郎次郎から、隆景の書状を受け取った。
(終に、隆景様が動く。そして、毛利御本家が御出陣なされる。)
宗治は書状を硬く握りしめていた。
(これで、ようやく戦になる。)
隆景ならば、突如として出現した高松城を囲むこの水の牢獄を消滅させるだけの天分を持っているかもしれないと、宗治は思いたかった。
(秀吉のあの光を失わしめることができるかも。)
そして、眼前に広がるこの美しいまでに静かな水の牢獄が取り払われることにより、宗治自身、
(華々しく高松城から討ってで、織田勢と正々堂々の勝負が挑める日が近づいている。)
と、信じたかった。

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