磁場の井戸:第三章 水牢(十)/長編歴史小説

 蛙ヶ鼻の本陣からその様子を眺めていた秀吉は、表面上、少し渋い顔をしながらも、全くうろたえることはなかった。
(我が事なれり。)
表情とは裏腹に腹の中では、自分の思うとおりに事が運んでいるという悦な気分に浸っていた。
(そうでなければ、中国の雄毛利家ではなかろう。)
秀吉は心の中でうれしそうに相手の打った手に感じ入っていた。秀吉の嗄れた掌に全てのものが吸い込まれるが如く、彼の思いどおりに事は進んでいた。
 秀吉は眼前の毛利家を倒す事ではなく、既に倒した後の事を考えていた。主人信長の天下布武はもう目前に迫っていると言っても、過言では無い。天下統一が成就すれば、秀吉を始めとする糟糠の家臣達、特に功大なる者は、遠ざけられ、果ては、追われることを秀吉は書物からではなく、本能として感じていた。その兆候は現時点においても徐々に織田家の中に現れ始め、信長の周りには、森欄丸や力丸兄弟、堀久太郎などの小姓衆がその事務や日常生活の一切を取り仕切り、小姓衆へ申し入れない限りは功多き野戦の部将でさえも信長に拝謁できないようになってきていた。
 武田家は滅亡し、上杉景勝は越後一国を辛うじて支え、また、石山本願寺が膝を屈した今となっては、織田家の天下統一を阻む大名は、中国の雄毛利家しかあるまい。その毛利家を討ったとなれば、功は衆に抜きん出る。この功により一時は快楽を貪る事ができるかもしれないが、当然、功多き者は才に長け、上にとっては、家臣の意志に依らず、その地位を脅かす危険な存在と変態する。権力者が自分を脅かす者を排除するのは至極当たり前の事であり、従って、ここで毛利家を倒すと、秀吉はゆくゆく信長から痛いしっぺ返しを頂戴する事になる。
 中途半端な来援であれば、秀吉は喜ぶ事無く、表情どおり苦虫を噛み潰していたに違いない。ただ、毛利家は現状で投入しうる最大規模の兵力を備中に展開している。その数は高松城を囲んでいる織田勢よりも多いだろう。これならば、秀吉は主人信長に、
「毛利は存亡を賭けて、備中表へ参陣しております。猿には、とても敵いません。ここはぜひ上様の御出馬を給わりとうございます。」
と言って、信長に泣きつくこともできるし、毛利家を倒した後にも、
「上様のご来援があったればこそでございます。」
と、信長に下駄を預けてしまう事も可能である。
 そこまで読みきって、秀吉は苦い顔をしながら、内心、悦に浸っていた。秀吉はただ悦に浸っている訳では無く、的確な指示で猛威の援軍に抗うべき布陣を固めた。城からの抵抗は無いものとして、そちらの抑えは先に湖に浮かべた大船三艘で賄う事とし、吉川、小早川の来援により危険に曝された南方に関しては兵二万を分けて、これに備え、残り一万五千には堤の増強と嵩上げに全力を投じさせる事とした。
 秀吉の防御陣地は毛利の両川と言われる元春、隆景をしても隙が無く、また、秀吉方は幾ら挑発しても陣地を出ようとしない。元春、隆景は幾度か織田勢を陣地から引きずり出そうと試みたが、意に反して、秀吉は石仏のように微動だにしなかった。

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