950(1546)_==天文15年==(最新版)

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 天文15年1月、織田信長(幼名吉法師)が、父信秀が新たに築いた古渡城(名古屋市中区橘2丁目)において、平手政秀らの立会いのもと、元服。13歳。三郎信長を名乗る。
 天文15年(1546)、越後の黒田秀忠がふたたび黒滝城に立て籠もり、長尾景虎に反旗を翻す。
 天文15年(1546)2月28日、長尾景虎は守護上杉定実の命で黒滝城に出陣し、黒田一族を討伐し一族全員を切腹させる。
 天文15年4月25日、叡山の西塔院から、石山本願寺に対して、来年の新礼拝講の執事役に、本願寺顕如(当時4歳)を指名したい旨、申し入れ//本願寺証如は、即日、先例がないとの理由で断る。
 天文15年6月9日、摂津生玉社の遷宮。
 天文15年、細川晴元が、勢いを盛り返した細川氏綱に対抗するため、三好範長を堺に出陣させたが、氏綱は河内守護遊佐長教と結んで三万余の兵で堺を囲む。//三好範長が窮地に立つのを見て、堺の会合衆36人が仲介し銭をやって氏綱らをひかせる。
 天文15年、細川氏綱が、堺から北上し、大塚城(大阪市天王寺区茶臼山町)を攻める。これを見た摂津の池田久宗や三宅国村らの国人衆が細川晴元に背き、氏綱に味方する。//伊丹親興は細川晴元に味方。
 天文15年9月、細川晴元が、遊佐長教に迫られ、京から高雄に落ちる。
 天文15年9月、三好範長が、阿波から実弟の安宅冬康を堺へ呼び寄せ、阿波や淡路の兵が続々と堺に上陸。これに細川晴元が合流し、北摂津の諸城を次々と奪還。//石山本願寺の周辺が戦場になったが、本願寺は中立を保つ。
 天文15年9月、一島新兵衛らが、越前から加賀江沼郡に乱入。//江沼郡は徳政がもとで混乱していた。//本願寺証如は、石山本願寺に詰めていた江沼衆を直ちに下国させた上で、他の石川、能美、河北三郡に平穏を保つよう指示。
 天文15年(1546)9月20日、山中満幸(山中鹿之助の父)、逝去。享年27歳。
 天文15年10月29日、尾山御坊が完成。本願寺証如は、阿弥陀如来の本尊や、親鸞の御影、仏具等を下賜。//尾山御坊の住職は宗主の証如とし、堂衆として蓮淳の息のかかった長老格の武佐(近江八幡市武佐町)広済寺の祐乗と赤野井の慶信の2名を派遣する。//尾山御坊を中心に金沢の寺内町が形成。
 天文15年10月29日、本願寺証如が、加賀江沼郡における騒乱について、江沼郡の全門徒を罰するよう下命する。
 天文15年10月30日、京において、朝廷に徳政を訴える土一揆が発生。//幕府が徳政を布告したものの、土倉側がこれを拒否。
 天文15年12月、室町幕府12代将軍足利義晴が、将軍職を辞し、13代将軍に義晴の子義藤が就く。//義藤の弟は奈良興福寺一乗院に入り覚慶と名乗る。のちの、15代将軍足利義秋。
 天文15年12月16日、細川晴元が、本願寺証如に対して礼状を届ける。//細川氏綱と遊佐長教が河内門徒に一揆を煽動したのを、証如が河内門徒を制止したことに対する礼状。
 天文15年、足利14代将軍足利義輝が六角定頼の後見により11歳で将軍職を継承。(将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で実施)

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